第8話
彼は優しい笑顔で駆け寄る。でも、近くに来ると一瞬ピタリと固まって、辺りを素早く見渡すと僕の腕をギュッと掴んだ。彼から甘い香りが溢れて、途端に甘えたい衝動に駆られてしまう。
「あの……昴さん?」
「一緒に来て。後ろの子も」
先輩の声は、いつものように優しく聞こえたけど、どこか不穏さをまとっていた。僕らは口をつぐんだまま彼の後ろについていく。
ビルとビルの間を通るたび、人気がなくなっていく。これ以上は怖い。そう思ったとき、先輩は振り返って僕らを見た。
彼は少しだけ目元をクシャッとして、いつもの優しい笑顔を作る。その姿に僕は、肩に入っていた力をようやく抜くことができた。
「昴さん、どうしたんですか?こんなところに連れてきて……」
「どうしたはこっちが言いたいよ、いつも言ってるだろ?」
……何を?
言われてきたことが多すぎて、どれを言われてるのかわからない。ただ、僕はもう、朱莉にカッコ悪いところを見られたくない。それだけは、はっきりわかる。
先輩は困ったように眉を下げて朱莉のもとに歩み寄った。
「ごめんね。お兄ちゃん頑張ってるから、仕事じゃない時もちゃんとアイドルじゃなきゃいけないんだよ」
「え……?」
ああ……僕から、今アイドルだってちゃんと伝えたかったのに。いや、そんなことより今……。
「先輩!」
「斗真もだめだぞ。いくら妹でも、ファンの人が見たら……」
「あのっ!」
つんざくような声で遮ったからか、先輩は目を丸くしている。相変わらずの雨景色は変わりそうにない。早く帰らないと、そんな気持ちが僕の口を動かしていた。
「朱莉は……この子は、妹じゃないです」
「……は?」
空気が変わる。
遠くでゴロゴロと、雷が鳴り始めていた。
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「お前……何いってんだ?」
先輩が、乾いた笑い声をあげて、よろよろと近づいてくる。思わず後ずさったけど、彼は僕の肩を掴む。先輩と僕の傘が落ちる。体中が雨に濡れ始めて、先輩の髪が崩れていく。
「……昴さん?」
「ふざけんなよ!」
先輩の怒号が響き渡る。どうして怒られているのか、どうしてそんなに悲しそうな目をしてるのかわからない。なんだか、僕のほうが泣きたくなってしまう。
「すば――」
「ちゃんとアイドルしろよ!」
「先輩……」
現実を、突きつけられてる。だけど、とっくの昔に、ちゃんとしたアイドルみたいな夢を置いてけぼりにしてしまったからなのかな。先輩の言葉が、ぼんやりとしたベールに包まれたみたいで、はっきりと理解することができない。
「僕、何かしちゃいましたか?」
「斗真……」
雨が僕たちを濡らす。朱莉は泣きそうな表情で僕を見ていた。
冷たい。落ちてくる水も、ここも。
「お前は……お前だけは、本気でアイドルなるんじゃなかったのかよ……なのになんで、彼女なんて作ったんだ……」
「昴さん……」
そっか、そうだった。
この人はいつでも、アイドルだった。売上とか打算じゃなくて、期待と覚悟で動いてる、本物のアイドル。いつだって、昴さんみたいになりたいって思ってた。この姿に、憧れてたから。だから嫌われたくなくて、必死に言い訳を探し始める。
「待ってください!朱莉は彼女じゃ――」
「事実なんてどうでもいいんだよ。ファンがどんなふうに受け取るか。それが事実になるんだから」
「――っ」
眼の前が、真っ白になる。雨が滴って、顔中がずぶ濡れになっていた。救いを求めるように、朱莉の方を見る。
彼女は、震えながら僕を見つめ返してくれた。その瞳で、少しだけホッとする。大丈夫、僕は、まだアイドル――。
――アイドル?
――アイドルって、こんなんだっけ?
真っ白だった世界が、落っこちたみたいに真っ黒に変わる。
大切な人に、すがりつくのがアイドル?自分が正しいって思いたいから、誰かに期待するのが、アイドル?
違う。そんなのアイドルじゃない。
じゃあ、今の僕は――。
「お前、アイドルじゃねえよ」
昴さんの言葉が、嫌味なくらい大きく聞こえて、その後の雨音が耳の奥で鳴り続ける。
僕は、すがっていた。朱莉の笑顔に、朱莉の声に。その罪が、今、こうして帰ってきてる。大好きな先輩からの、軽蔑として。
「僕……ファンが……僕にはファンが…」
それでも、無駄に肥大化し続けたプライドは余計なことを言おうとする。
違う。違うよ。こんな事言いたいんじゃない。
「ファンがいないのか?」
力なく頷くと、肩に痛みが走る。彼は僕の方を大きく揺らしてまた怒鳴る。
「お前ファン舐めんなよ!一番の裏切りはな、女連れてることじゃないんだよ。自分のこと、下げまくることなんだよ」
「……」
雨が、僕らの声をかき消していく。
奥まったビルの裏路地には僕ら三人だけで、他には誰もいない。とっさに朱莉を見ようとしたけど、ついさっきのことがよぎって、その目を水たまりに向ける。
先輩は、そっと手を離すと、落とした傘をさして、ずぶ濡れのまま通り過ぎていく。ただ、朱莉の隣に来た時、僕ら二人を一瞥してつぶやいた。
「お前のこと、期待しすぎてたかも」
彼が雨の中へ消えていく。その瞳には、最後まで寂しさが湛えられていた。
膝から崩れ落ちる僕のところに駆け寄って、朱莉がこの手をギュッと握ってくれる。だけど、そこには温もりなんてなくて、ただ、冷たさだけが伝わってくるだけだった。
僕は、自分が思ってたよりずっと、幼かったみたいだ。




