第2話
「お邪魔しました。斗真くんもまたね」
「うん。また」
「あら、朱莉ちゃんもう帰るの?夕飯食べていったらいいのに」
「ありがとうございます。でも明日早いので」
彼女が屈託のない笑顔でお辞儀すると、長い黒髪も真っ直ぐ落ちる。朱莉は、何のシャンプーを使っているんだろう。同じのを使えば、僕もきれいな髪になるのかな。きれいな髪になれば……
「斗真くん!」
「あ……なに?」
「またね」
「うん」
それだけ言うと、朱莉はもう一度深くお辞儀をして、夜のなかに紛れていった。
「朱莉ちゃん本当に可愛いねえ……何年ぶりだっけ?」
「四年と五カ月くらい」
「よく覚えてるじゃん。そんな会いたかったんだ」
「お母さんまで!……でもまあ、嬉しかった。会えて」
お母さんは、嬉しそうにしながら食器を下げ始める。
「あれ?朱莉ちゃんココア嫌いだったけ?」
「え?あいつ昔っから好きだったでしょ」
不思議そうな声につられてテーブルを覗くと、そこにはアイスココアが置かれていた。一口も口をつけてない姿で。
「うちの嫌いなのかな……」
「さあ。あれじゃない?地域ギャップ。そういえば朱莉ってどこ引っ越したんだっけ?」
「あんた覚えてないの?関西の方よ。和歌山だか奈良県か、そこら辺だったはず」
そうなんだ。あの頃は、もう二度と会えないって思ってたけど、本当は、新幹線があれば案外すぐに行けるとこにいるんだ。
「でもまあ……朱莉ちゃんが越してから、あんたもいろいろあったね」
「……うん」
ああ、そうだった。スポットライトの窓際が僕の現実で、それはじわじわと首を絞めているんだった。
「お母さん」
「うん?」
「……なんでもない」
「そっか」
わかってる。お母さんに僕は甘えてしまってるってことくらい。お母さんだったら、僕のことを否定しないでいてくれるって。その優しさ、その甘さに、今の僕はすがってしまっている。いつかはちゃんと、決めないといけないのに。
僕が、どうするのかを。どうすべきなのかを。
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「――だから、コンスタンツ公会議はフスを火刑に処すと共に、ローマ教会を正統と認めて教会大分裂が終結した。次の授業で今日やったところテストするから復習しとくように。じゃあ号令」
頭を下げているとチャイムの音が通り過ぎていき、それを合図にクラスは一気に活気づいた。
「マジで休みたい。てかさ、夏休みに学校ヤバくない?」
「それな!アタシ、ほぼ確で明日休む」
「えー、ズル!私の親絶対許してくれないからさあ……」
熱気が空気を揺らす。みんなの声が、一つの巨大な塊となって襲ってくる。その閉塞感に、僕は耐えきれずに廊下に出る。
教室よりも暑いそこは、それでもどこか涼しさに似た居心地の良さがあった。
「お、細川」
「はい……」
汗がシャツを湿らせる。不快な感覚が広がって、さっきまでの快適さは、もうどこかへ逃げていってしまった。
「お前、進路調査早く出せよ」
「はい……その、大学は……」
「先生も細川みたいな生徒教えるの初めてだからわからないけど、今のままだといけないのはお前もわかってるだろ」
「……はい」
先生が通り過ぎていく。僕も、先生の反対側を歩く。次第に早足になって、最後は逃げるように校門へ向かっていた。
✯――――❂――――✯
「おつかれ。夏休みも学校?」
「……まあ。というか、朱莉がなんでいるんだよ?」
当たり前のように眼の前で笑っている朱莉があまりに眩しすぎて、そのまま透けてしまいそうにさえ感じる。彼女は昨日と同じ、ピカピカのローファーに、おろしたてのような制服を羽織っていた。半袖から伸びる腕は真っ白で、発光しているような錯覚をしてしまう。
「どうしたの?何かあった?」
「いや……腕白くて羨ましいなって思っただけ」
「なにそれ。別に普通だよ」
彼女は、笑いながらカメラを取り出した。何もかもがピカピカなのに、それだけが古びていて、一つだけ過去に縛られているみたいだ。
「それ、小学校の時から持ってたよな」
「ああ……うん。宝物だからね」
「……朱莉?」
風が吹いて、真っ白な彼女の、真っ黒な髪の毛を揺らす。その時、どうしてもその瞳が輝いているように見えた。必死にしがみついていた、あの時のカナブンを不思議と思い出す。
「斗真くん、はいチーズ!」
「えっ……いや!撮んなって!」
「えー、ケチ」
そう言いながら、結局シャッターを押すと、朱莉は傷だらけのデジタルカメラを優しく撫でて鞄にしまった。
「今日暇?」
「……今日も明日も、多分明後日も暇だよ」
「そっか、ラッキーじゃん。斗真くんと今日も明日も、きっと明後日も一緒ってことでしょ?」
「それは……そう、なのかな」
逆光が邪魔して、彼女が今どんな表情なのかが見えない。ただ一つだけ、口をいっぱい開いて笑ってくれていること以外は。
セミの音は相変わらずうるさいし、汗は滝のように吹き出している。でも、それが夏の特別さだとしたら、そこまで嫌いじゃない気がする。
「朱莉」
「何?」
「自転車……ある?」
「……ないよ。でもどう――」
「じゃあ、乗れよ。後ろ」
「……やっぱり狙ってる?」
「違うし!」
無駄に大きな声で言うと、手こずりながら自転車の鍵を取る。気がつけば朱莉はもう後ろに座っていた。
体が熱い。全身から汗が噴き出て、シャツが身体にへばりついて離れない。だけど、漕ぎ出したら世界は一変した。
「涼しいね」
「うん」
汗ばんだシャツが風に揺られて、お腹に新しい風が吹き込んでくる。坂道を降りるとネクタイは踊るように後ろへひらひらとなびく。体いっぱいに夏の爽やかな風を受けると、ほんの少しだけ今が好きになった。
「ちょっとそこ!」
「あっ……」
でも、小さな幸せのあとには、いつだって大きな落胆が待ってる。
坂道を降りたとき、眉間にシワを寄せた警察が近づいてきた。
「自転車の二人乗りは危険だから……ってもう一人は?」
「えっ?」
驚いて後ろを見ると誰もいない。いつの間にか朱莉は隠れたんだろうか?だけど、自転車はちっとも重さが変わらなかった。まるで、もともとそこには何もなかったみたいに。
「とにかく……交通違反だから。特にこういう夏休みは意識が――」
「ごめんなさい……」
「次見たら学校に伝えるから。逃げた子にもちゃんと言っておくんだよ」
「はい……」
警察のおじさんは注意だけすると、また木陰で道路を見守っている。少しずつ、胸が動悸し始めた。
もし、これが事務所にバレたら?
いや、まだ事務所にバレるだけなら良い。これがどこかで拡散されたら?今まで、目立つことがなかっただけなのに、もし悪いイメージがついたら?
セミの鳴き音が反響して、頭のなかでブザーのように鳴り始める。眼の前が少しずつ暗くなり始めた。
「斗真くん!」
「……朱莉?」
どこに行ってたの?
どうして一人で逃げたの?
いつ?どうやって?
聞きたいことはたくさんあるのに、言葉になったのは、どうしようもない願い事だった。
「一人に……しないで」
「……行こっか」
今度は、並んで歩く。
自転車みたいな涼しさはまったくなくて、背中にシャツが張り付く。だけど、今はこのまま張り付いたままでいてほしい。そんな気がした。
朱莉は、相変わらず汗一つかかずに、隣を同じ歩幅で歩いてくれる。時々吹く風でなびく髪は、陽光にかざせば消えてしまうくらい繊細で、それが余計に、僕のこの気持ちを強くする。
「朱莉……僕、一人は嫌だよ……」
「うん」
朱莉の口元が、ほんの少しだけ動いた気がする。だけど、その声は向かい風に飛ばされて、そのまま宙に舞ってしまった。
つられて空を見たけど、真っ青な世界が、果てしなく続いているだけだった。




