第10話
「九百八十円になります」
生ぬるい夜風が服をあらかた乾かした頃、僕はコンビニで花火を買った。
朱莉がしたいこと。二人で、花火をすること。
「買ってきたよ」
「ありがとう」
いつの間にかバケツを持っていた彼女を見て、肩から力が抜ける。
ここには居場所があるって。そう思えたから。
「海までどれくらい?」
「多分歩いて一時間」
「じゃあ歩こっか」
「うん」
でも、この居場所が、特別なんて言葉では足りないくらいの奇跡なんだって、そんなこと、もしかしたらずっと前から気付いてたのかもしれない。それでも鈍感なふりをしたのは、自分を守るためだった。
中途半端な月がもうすぐ、夜空のてっぺんに上がってくる。隣り合って歩く僕らの手は淡い月明かりに照らされて、当たっては離れて、離れては当たっていた。
言葉で交わすこと。交わさないこと。
小さな光が明かした、僕らの心は裸だった。だけど、それで良かった。それが良かった。本心をもとめて、互いに絡まり合っていく。
「朱莉」
「何?」
「会いに来てくれて、ありがとう」
「やめてよ」
冷たい手で僕の肘を小突く。だけどその体は震えていた。
「帰りたく、なくなるじゃん」
「帰らないでよ。……ずっと、僕のとこにいてよ」
それから、二人は黙った。
遠くで、救急車のサイレンが鳴り響いている。慌ただしい世界で、僕らだけ切り離されたみたいだった。
「あ……」
「海だ」
気がつけば、真っ黒な波が、何重にもなって押し寄せては、音を立てて引いていた。底がなくて、落ちたらきっと這い上がれない。でも、不思議と怖くはなかった。いつかは誰もが帰る場所。そう考えると、案外悪くないのかもしれない。
「じゃあ、しよっか」
「うん」
マッチを擦ると、温かい光が彼女を照らす。悲しいくらい、生き生きとしていた。朱莉の頬はピンク色に染まり、髪の毛は乱れている。その時初めて、ちゃんと朱莉を見た気がする。
「そうだ……写真、撮る?」
「あー……」
ちらりとポケットを見て、それから朱莉は、小さく首を横に振った。月明かりが、ずっと変わらない彼女の輪郭をぼんやりと描いている。
「大丈夫。今、見るから」
その声はどこまでも澄んでいて、僕の心の奥底まで染み込んでいく。その温かさで、凍りついていた想いがようやく溶け出した。
「朱莉は……楽しかった?」
「うん」
「本当に……帰るの?」
彼女は答えなかった。その代わり、煙の香りを上げて、色とりどりの灯りをともす。
しゃがんだ僕らの、小さな影が落ちてる。その影を見るのが好きだった。僕たちは、まだこの世界にいるんだって安心できたから。
きれいなローファーは砂で汚れた。
新品みたいな制服も、いつの間にか襟が折れていた。
だけど、僕たちは確かに、そこにいた。
「斗真くん」
声が出ない、今出せばきっと、色んなものが溢れてくる。それに、ずっと一緒にいた、大切な人とは、言葉がなくてもきっと通じ合えるはずだから。この先もずっと。
「気付いたら、ここにいたの」
「……」
「それでね、気付いたら、帰らないとってわかった」
一つ目の光が落ちる。今度は、僕が灯す。
「神様がいたら、ひどいよって言いたいよね。まだまだ時間欲しいのにって。……でもね」
赤い光が、彼女の瞳を照らしていた。そこからは、一筋の光が落ちていく。どんな光よりも、きれいな輝きで。
「でも、どんなに長くたって、結局短いって。そう思うんだよ、きっと」
「朱莉……」
やっとでてきた声は、みっともなく震えてて、多分このまま最後までカッコつけられないだって悟る。
「だから、斗真くんには……バッドエンドで終わってほしくない。あなたが主人公の物語を」
僕が、主人公の物語。
それは、エキストラはおろか、照明も足りてないような崖っぷちの世界なんだと思う。
それに――
「ハッピーエンドには……朱莉がいないと、違うじゃん」
最後まで、困らせたいわけじゃなかったのに。一度こぼれたら後は広がっていくことしかできない。それなのに、うまく言葉にすら出せなくて、ただ咽び泣くことしかできなかった。
「できるよ。だから、次会ったら――」
朱莉は、真っ赤な目で太陽みたいな笑顔を浮かべていた。
海の音が、強く聞こえる。それに負けないくらい、大きな声で彼女は言った。
「結婚……じゃなくて……付き合って!私と!」
驚いて目を見開く僕をからかうように笑いながら付け加える。
「それで、おみやげ話いっぱい聞かせてね」
出ろ。声、出ろよ。
だけど、どう頑張っても弱っちい僕じゃ、ありがとうの一つも言葉にできない。
ならせめて、伝えないと。
奥歯を噛みしめる。そして、精一杯の笑顔で、空に向かって震える親指を突き立てた。
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真っ暗な岸辺で、パチパチと火花が踊る。
ねえ、朱莉。
僕たち、幸せだったよね。
光は、バケツの中いっぱいに輝いてる。
でも僕たち、辛かったね。
やがて光は、バケツの底に消えていった。
何も見えない、真っ暗な底へ。
さようなら。
朱莉。
最後の花火をバケツに沈めると、さっきまでのまぶしさが嘘みたいに思える。
だけど、嘘じゃない。
嘘にしたくない。
君との、この光だけは。




