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回天整備士 ―答えを出さなかった男―  作者: 八雲 海


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第六話「整備手帳」

終戦から五日が過ぎた。

 基地は静かに、しかし確実に変わりつつあった。撤去《てっきょ》の話が出始めた。書類が燃やされた。倉庫の荷物が運び出された。

 幸造は毎朝、格納庫に通った。

 することがあるわけではなかった。しかし足が向いた。

・ ・ ・

 その日の午前、若い海軍中尉が格納庫に来た。

 着任した日に渡し船で一緒だった中尉だった。制帽の庇《ひさし》は相変わらず真っすぐだったが、顔が疲れていた。目の奥が、どこか虚《うつ》ろだった。

「藤堂整備長殿」

 中尉は幸造の前に立って、敬礼した。

「回天の整備記録は、廃棄《はいき》します」

 幸造は黙っていた。

「上からの指示です。書類はすべて。整備記録も、搭乗員名簿《とうじょういんめいぼ》も」

 中尉は言い終えて、幸造の顔を見た。

 何か言われることを、待っているようだった。

 幸造は何も言わなかった。

「わかりました」

 それだけ答えた。

 中尉は一瞬、口を開きかけた。しかし何も言わずに敬礼して、格納庫を出て行った。

 足音が遠ざかった。

 その数日前、中村篤は基地を去っていった。生きて、汽船《きせん》に乗り込む後ろ姿を、幸造は遠くから見ていた。中村は一度も振り返らなかった。

 それでよかった、と幸造は思った。

・ ・ ・

 夜になった。

 基地が静まった。

 幸造は格納庫に向かった。

 常夜灯《じょうやとう》が一つ、天井近くに灯《とも》っていた。回天は暗がりの中に据えられていた。

 幸造は工具箱の底から、一冊の手帳を取り出した。

 古い手帳だった。表紙が擦《す》り切れていた。呉《くれ》の工廠《こうしょう》にいた頃から持ち歩いていたものだった。

 幸造は回天の前に立って、手帳を開いた。

・ ・ ・

 最初の頁《ページ》。

 村田秋男《むらたあきお》。

 整備内容の欄《らん》は空白だった。

 代わりに、小さな文字が書いてあった。

「飯《めし》三杯」

「母の話をした」

 幸造は次の頁を開いた。

 桐島陽介《きりしまようすけ》。

「眼鏡《めがね》を外すと少し笑う」

「向き合うもんだと言った。わかったかどうか」

 次の頁。

 中村篤《なかむらあつし》。

「中は真っ暗だったと言った」

「額《ひたい》を鉄に当てていた」

「生きている」

 幸造は頁をめくる手を止めた。

 最後の頁だった。

 白かった。

 幸造は上着の内ポケットから鉛筆《えんぴつ》を取り出した。

 手帳を外筒《がいとう》の上に置いた。

 書いた。

 藤堂清《とうどうきよし》。

 それだけ書いた。

 しばらく、動かなかった。

 幸造は手帳を閉じる前に、もう一度頁をめくった。それぞれの名前の下に、歳《とし》を書き足した。

 十八。

 二十二。

 中村の歳は書かなかった。生きている者の歳は、数えなくてよかった。

 最後に、清の歳を書こうとして、手が止まった。

 二十六のまま、それ以上は増えない。

 幸造はその頁を、しばらく見ていた。

 格納庫の屋根を、雨が叩《たた》いていた。

 いつの間にか降り始めていた。

 紙の上に、小さな染みができた。

 幸造は指で拭《ぬぐ》った。

 文字の端が、わずかに滲《にじ》んだ。

 幸造は手帳を閉じた。

 上着の内ポケットに、静かにしまった。

 格納庫の外で、雨の音が続いていた。

 幸造は回天の前に立ったまま、動かなかった。

 長い間、動かなかった。

 それから工具箱を持った。

 引き戸を開けた。

 雨の匂いがした。

 島の夜が、濡《ぬ》れていた。

 幸造は格納庫の引き戸を閉めた。

 ゆっくりと、丁寧に閉めた。

 それから歩き始めた。

 雨の中を、一人で歩いた。


(第六話・了)



『回天整備士』 完


この物語を書くにあたって、一つだけ決めたことがあります。

 藤堂幸造《とうどうこうぞう》に、答えを出させないということです。

 戦争は正しかったのか。若者たちの死は意味があったのか。回天という兵器は何だったのか。

 幸造は最後まで、その問いに答えません。

 五十五年生きてきた職人が持つ言葉は、問いに答えるための言葉ではなく、機械と向き合うための言葉でした。継《つ》ぎ目を確かめる言葉。軸受《じくう》けの歪《ゆが》みを直す言葉。ハッチを丁寧に閉める言葉。

 そういう言葉しか、幸造は持っていなかった。

 しかしその手帳に、彼は確かに書き残しました。

「飯三杯」「母の話をした」「眼鏡を外すと少し笑う」「中は真っ暗だったと言った」。

 整備記録ではありません。名前の記録でもありません。

 若者たちが生きていた記録です。

 藤堂幸造という男は、兵器を整備しながら、生きている人間を見ていた。見ないようにしながら、見ていた。

・ ・ ・

 回天の訓練基地があった山口県大津島《おおつしま》には、現在も回天記念館が建っています。

 搭乗員たちの平均年齢は、二十歳前後でした。

・ ・ ・

 登場する人物はすべて架空です。

 しかし彼らが乗り込んだ鉄の重さは、架空ではありません。


八雲海《やくもかい》


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