仏様からの贈り物⑧
そういった経緯があったことなど知る由もない美子のまえに姿を現したのは後上のおばあちゃんではなく、一枚のTシャツだった。色褪せた茶色いTシャツで、水分を含んだそれはクシャッとエレベーターの臙脂の絨毯の上に置かれていて、乾き切っていないその妙な質感が彼女にはそこにあってはならぬ排泄物を想像させたし、咄嗟にとうとう後上のおばあちゃんがやらかしてしまったのだと思った。
美子はエレベーターに乗り込もうとはせず、エレベーターのまえをあとにして階段で地下へと向かった。なにか問題が起きたらまずは管理室へ。それは子供ながらに生まれたときからこのマンションの住人らしい行動だったが、管理室の扉には巡回中の札がかけられていた。
管理室のまえでしばし待っていると、八階に止まっていたエレベーターが動き出し、それは地下まで下りてきた。中から降りてきたのは殿倉だった。ちょっと疲れた様子で首を回しながら管理室に近づいてきた彼に、美子は「こんにちは」と声をかけた。そこで誰かが待っていたとは思ってもいなかったのか、彼は面を食らったみたいに軽く仰け反ったが、 相手が806号室の大河家の娘だと気がつくと「なんだ、美子ちゃんか」と笑みを浮かべた。
「今さっき君んちに行ってたんだよ」
「うちに?」
「贈り物を届けにね」と言うと殿倉は右目をぴくぴくさせながら左目でウィングした。「今日誕生日なんだろ?」
美子は育いた。なんで殿倉がうちに来てたのか、そして贈り物を届けたというのはどういうことなのか、正直なにを言ってるのかよくわからなかったが。でもそれは今に始まったことではなく、前々からそうだった。ランドセルを背負ってエレベーターに乗っていたら、「大人の階段上ってるねぇ」とニヤけた面で言ってきたり、クリスマスの日に非常階段近くで会ったら「きっとここからサンタはやってくるに違いない」と真顔で言ってきたりと、小学生にはちと伝わりづらいユーモアセンスを見せてくるものだから、そういうとき美子はいつも返答に困った。悪気がないのはわかっているけど、それだからこそ余計に面倒というか、子どもにとってこういう大人ほど扱いづらかった。
ただ視界の先で、例のものが乗っているエレベーターが一階から上がっていくのを見た
美子は、「そんなことより後上のおばあちゃんが」と話を変えるように言った。
「えっ?後上のおばあちゃん?」その名を聞いた殿倉の表情が変わった。「後上のおばあちゃんがどうしたんだい?」
「あのエレベーターの中で、あの、その・・・・しちゃったかも」
美子はそこで口をつぐんだが、その小さな指先は2,3,4と上がっていくエレベータ―を差していて、殿倉はその指先を視線で追った。そしてなにをしちゃったかはまだわかってはいなかったが、とにかくあのエレベーターを追わなければと大川マンションの管理人として反射的に思った。そうやって自分をからかう小学生もここ大川マンションにいることにはいたが、美子がそういうことをしたことは一度もなかったし、なににせよ後上のおばあちゃんの名が出た以上無視するわけにはいかないと。
そこでエレベーターが六階で止まった。その瞬間、殿倉はエレベーターに駆け寄り、上
のボタンを押して自分が乗ってきたほうのエレベーターの扉を開けた。
「教えてくれてありがとう、美子ちゃん」と殿倉は言った。「あとのことは私に任せなさい」
美子をエレベーターに乗せ、見送った彼は六階に止まっているエレベーターを呼び出すべくもう一度上のボタンを押した。エレベーターは一定の速度を保って下りてきて、四階と三階の間あたりで美子を乗せたエレベーターとすれ違い、地下に到着するとゆっくりと扉が開いてその中を殿倉に見せた。が、間一髪のところで巻口さんの奥さんに回収されていたTシャツはそこにはもうなかった。もちろんつい今しがた部屋に送り届けた後上のおばあちゃんの姿も。
殿倉は狐にでも摘まれた気分で静かに閉まっていく扉を見つめ、エレベーターが一階まで上がって止まったのを見届けると、管理室に戻っていった。テーブルの上には食べ終えたコンビニ弁当の容器がそのままで、それをゴミ箱に捨てて席につき、違和感のある腰を擦りつつ煙草をくわえた。ジッポで火をつけ、深く吸い込んでゆっくりと天井に向かって煙を吐き出した。煙は雨雲のように天井の辺りを漂い、そして消えていった。
「それにしても」と殿倉は独り呟いた。「いったい、どこの誰が仏壇なんて」




