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仏様からの贈り物⑦

 大川マンションの屋上はワンフロア十二世帯あるだけあってフットサルコート二面分く

らいの広さを要し、その一角にある物干し場も全世帯が利用するほどの広さはないにしても、一集合住宅の共有場としてはかなり広かったが、利用する住人は決まって大川に面していない反対側、8~13号室までの部屋の住人に限られていた。南東向きの川側に対して、反対側の部屋は西日しか差さなかったのだ。若夫婦が多い新参者は日当たりなどそこまで気にしなかったが、古くから花町に住む住人にとって、日当たりはこのマンションに住むメリットの一つで、その恩恵を受けられないことに劣等感すら感じている人もいたので、 そういう人たちは挙って屋上の物干し場を利用した。そこならどちら側にベランダが向いていようと、平等に日の光を受けることができたから。風が強い日は川風が直に吹き込む大川に面した側のほうが、洗濯物を干すのに適してはいなかったが、殿倉が言うようにそのことを気にして屋上の干し場を利用する人はいなかった。


 ただ自分で考えるよりまずは相手の意見を聞くタイプの巻口さんの奥さんは、 殿倉の意見をちゃんと参考にした。二回目の洗濯物と下の階に落ちて洗い直した息子のT シャツを洗濯物かごに入れて、エレベーターで屋上に上がった。屋上に上がったのは初めてで、越してくる以前は団地住まいで屋上がなかったので彼女はその広さに、思わず「わぁー」と年甲斐もなく声を上げた。大川マンションの住人にしてみれば見慣れた風景でも、まだ越してきて間もない彼女にとって、屋上からの見晴らしは素晴らしく、普段612号室のベランダでは感じることのできない大川の川風にも大満足だった。確かに風は強かったが、フェンスに囲われているからベランダみたいに飛ばされても、下の階に落ちるようなことはなさそうなので、巻口さんの奥さんは安心して洗濯物を干して部屋に戻った。帰りのエレベーターの中で今度から洗濯物は屋上にしようと思いながら。しかし「誰かに盗まれたらどう責任をとってくれるんだ」と、息子に言われたことで、その計画は実行する前にご破算となった。


 部屋に戻ると、息子の陽介は自室から勢いよく出てきて「おれのTシャツをどこへやった」と母に言った。その口調は引きこもりとは思えないほど高圧的だったが、そういう態度を彼が出せる相手は彼女だけで、それを母は愛情の裏返しと思って、どんな罵声を浴びせられようと、時々暴れるようなことがあっても黙って耐えてきた。暴れるといってもテーブルにあるものを床に落としたり、そこら辺にある新聞とかを投げる程度のことだったが。そういった感情を爆発させるのも母は愛情の裏返しだと信じていた。


 あの日も巻口さんの奥さんが、「ちょっと汚れていたから」と屋上に干してきたことを伝えると、陽介はいつものように逆上した。「洗っただって」と言ってダイニングテーブルの上にあったプラスチックのマグカップを手で床に落とし、「ヴィンテージもののTシャツを」と言って今度は母の両手に抱えられた洗濯物を叩き落とし、そして「おまけに屋上に干しただなんて」と言って頭を抱えた。


 そのとき彼の脳裏には深夜のコンビニで立ち読みした雑誌に、「ヴィンテージジーンズは洗うべからず」と書いてあったことが過っていた。それまでファッションになんて興味を示したこともなかった彼だったが、その雑誌で見たヴィンテージジーンズに魅了され、さっそく翌日に母の目を盗んで、なけなしの一万円を握りしめて古着屋へと走り、「なかなかの逸品っすよ」と店員さんに勧められるがまま手に入れたのがそのTシャツだった。もちろん現実にはヴィンテージと呼ぶほどのTシャツではなかったし、古着のTシャツを洗わないほうがいいとは雑誌にも書いてはいなかったけど、誰が何と言おうとその一枚は彼にとって記念すべき古着の世界へ足を踏み入れた第一歩で、それが古着としての価値があろうとなかろうと、それが大切な一枚であることを母は知らなかった。


「今日は天気がいいから」と母は床に落ちた洗濯物を拾った。「渇くまでそんな時間はかからないと思うわ」


「今すぐとってこい」と陽介は声を荒げた。「誰かに盗まれるまえにさっさとしろ」


 母は息子の意見に黙って従った。ついさっき干したばかりで渇いているはずもないのに、そのことを考えもせず、巻口さんの奥さんは612号室を出て屋上へと向かった。エレベーターは一階と八階に止まっていたので、てっきり八階にいるエレベーターが来るとばかり思っていたが、実際には八階のエレベーターはそのまま六階を素通りし、一階にいたエレベーターに彼女は乗り込み、屋上に出たところで、洗濯物かごを持ってくるのを忘れたことに気がついた。どうせまだなにも乾いていないのだから、息子に言われた通りTシャツだけを回収すればいいのだが、性格的にそれは許せなかった。まだ濡れている洗濯物を両手に抱え、屋上の扉をどうにか開けて、エレベーターの下のボタンを押すまではどうにかなった。でもいざエレベーターに乗り込んで右手の小指で6のボタンを押そうとしたら、両手に抱えていた洗濯物ごとボタンが並んでいるところに突っ込んでしまい、彼女は結果的に十階から一階まですべてのボタンを押した。急がねばならない気持ちとは裏腹に(この思いもまた母としての愛情だと彼女は思っていた)、エレベーターは十、九、八(そのときすでに廊下には誰もいなかった)、七と止まり、 六階で扉が開いたとき、巻口さんの奥さんは珍しく駆け足で飛び出し、そのせいで彼の大事なTシャツをエレベーターの中に落としたことに気づかなかった。



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