仏様からの贈り物⑥
ちょうどそのころ、学校から帰ってきた美子は大川マンションのエントランスで屋上からエレベーターが下りてくるのを待っていた。
百世帯以上が暮らす大川マンションには十五人ほどが乗れるエレベーターが二基あって、 普段は呼ばれた階に近いほうのエレベーターが動き出すのだが、あの日はなぜか八階に止まっていたエレベーターではなく、屋上に止まっていたエレベーターが下りてきた。それはとても珍しいことだったし、それに加えてエレベーターは律義に一階ごとに止まりながら下りてくるものだから、美子はてっきり後上のおばあちゃんが乗っているのだと思った。大川マンション内で不可解なことが起きるとき、それは大抵の場合後上のおばあちゃんの仕業だと相場は決まっていたから。彼女にかぎらず大川マンションの住人のほとんどが(新参者を除いて)そう思っただろうし、それが巻口さんの奥さんの仕業だとは誰しもが想像しなかったはずだ。
巻口さんの奥さんは数か月まえに家族で612号室に越してきた、いわゆる新参者だった。旦那と高校生の息子との三人暮らしで、大手広告代理店の営業職の旦那と引きこもりの息子の姿は普段大川マンションの住人が見かけることはなかったけど、そんな旦那と息子に反して妻であり母である巻口さんの奥さんの姿はまるで家族三人分の存在を一人で補うかのように、二基のエレベーターが忙しく動いている朝と夕方には必ずといっていいほど大川マンション内の612号室以外にあった。誰かに会えば挨拶をし、積極的に会話にも参加するその姿は早いところこの新しい地域に馴染もうとする、新参者としては誰もが見習うべき姿だと大川マンションの住人たちには好印象だった。
そんな住人たちの評価とは対照的に、地下一階の管理室での612号室の評判はあまりよろしいものではなかった。旦那と息子が奥さんの日頃の努力に泥を塗っていたからである。
帰宅はいつも午前様の旦那は酒癖が悪く、エントランスに入る通用口の鍵(午後十時になるとシャッターが閉まり、鍵がないとマンションに入れない)を見つけられず、通用口横にある管理室直通の緊急電話で管理人を呼び出しては鍵を開けさせたり、鍵があったらあったで一階のエントランスに小便したり階段に蹲っていたりとやりたい放題。そのあまりの酷さに耐えかねた管理人が注意をしても、謝るどころか「俺を誰だと思ってる?」と高飛車な態度で逆に管理人を罵りだし、偶々通りかかった大川マンションの旦那衆が(その誰もが必ず酔っ払ってはいたが)止めに入ったからよかったものの、危うく警察沙汰になりかねないことは多々あった。
その度に奥さんが迎えに来ては代わりに頭を下げてはいたが、それで管理人の印象がよくなるかといえば(旦那衆は大抵そのことを憶えていなかった)話は別だった。何せそれから数時間後に今度は息子がマンション内を徘徊し始めるから。父親のように直接的に迷惑をかけるようなことはないにせよ、マンション内を巡回中にふっと薄暗い廊下や階段にその影を見せたかと思えば、突然屋上や一階のエントランスの監視カメラに映り込んでこられると良い気はしないというか、お化けの類いなんて信じない大人でも薄気味悪いと感じるのは無理もなかった。
ただ管理室の中でただ一人、殿倉だけは巻口家に不信感を抱いていなかった。「まぁ、そ
れぞれ家庭の事情ってもんがありますから」と、二人の奇行を直接目にする機会がなかったので先輩たちの話を半信半疑で聞いていたし、612号室に洗濯物を届けたときもチェーンがかかった扉の隙間から見えた、日中にもかかわらずカーテンが閉ざされ、明かりという明かりがついていない穴倉のような部屋を目にしても、これといって悪い印象を持ったりはしなかった。管理人という立場上、「風が強い日はこういうことがあるので、そういうときは屋上の物干し場を利用してください」と言い残し、それまで多くの女性の心の扉を開いてきた必殺一撃のスマイルを浮かべ、彼は意気揚々と管理室に戻っていった。「ご迷惑をおかけしました」と言いながら、最後まで扉のチェーンを巻口さんの奥さんが外さなかったことなど気にもかけず。殿倉のスマイルが誰にでも通用するというわけではなかったし、見かけは若くともそういった女性の些細な態度に気づかなくなったのは歳のせいだったかもしれないが、巻口さんの奥さんが洗濯物を抱えて部屋を出たのは殿倉がエレベーターに乗ったのを確認してからだった。




