第97話 そして世界が、動き出す
――プロジェクト採択発表、直前。
全国の大学と研究機関では、妙な沈黙が広がっていた。
春学期の講義が始まったばかりだというのに、研究室の空気はどこも落ち着かない。
誰もが何かを待っていた。
その“何か”が、明日以降の人生を左右すると知っていたからだ。
――国立大学・エネルギー変換工学研究室。
午前零時。
照明の落ちた実験棟に、まだ明かりの残る部屋がひとつ。
大学院生の山根は、実験装置の洗浄が終わるのを待ちながら、教授とコーヒーをすすっている。
「先生も……まだ帰らないんですか」
「どうにも落ち着かなくてね」
教授は苦笑した。
机の上には、提出済みのプロジェクト申請書の写し。何度も読み返したせいで端が擦り切れ、文字のインクも少し薄れている。
「通れば三年、思うがままに研究を続けられる。だが落ちたら……研究員の給料を払うだけで精一杯だよ」
その声には、疲労と、わずかな希望が同居していた。
山根は黙って頷く。白衣の袖を握る手が、自然と強くなる。
「……正直、怖いですよ。でも、この規模の民間支援なんて、もう二度とないかもしれない」
教授は頷き、窓の外に視線をやった。
夜のキャンパスは、ほとんど無音だった。
遠くの街の灯りがぼんやりと滲んでいる。
その先――鬼怒川の温泉街までは、ここから何百キロも離れている。けれど、誰もがその名を口にしていた。
「昔の科研費も、最初はこんな夢みたいな話だったのかもしれないな」
教授はふと笑い、紙コップのコーヒーをすすった。
「……彼女は本気だ。産業化までの道筋を、最初から描いている」
“彼女”――南野結衣。
若手の研究者たちが冗談めかして“女帝様”と呼ぶその名は、今や科学界でも避けて通れない。
――西日本の小規模私立大学
実験室の片隅では、二人の若手研究者が白衣を脱ぎ、椅子にもたれていた。
蛍光灯のちらつく明かりが、夜更けの疲れをさらに際立たせる。
「……なあ、もし通ったら、マジで鬼怒川行くんだよな」
「行くよ。長期泊まり込みで研究できるんだろ? 宿泊費なしで温泉付きの実験場とか、最高じゃん」
「おまえ、観光気分かよ」
「いやいや、でもさ。AIが論文校正までしてくれるって噂だぞ? 生活費も企業持ち。……夢みたいじゃないか」
笑い合いながらも、二人の瞳の奥には焦りが見え隠れしていた。
博士号を取って数年。
任期付きポストに追われ、給料は雀の涙。
それでも彼らが実験を続けるのは、誰にも負けたくないという、ただその想いだけだった。
「……でもさ」
一人が天井を見上げる。
「……便利すぎて逆になんか怖いんだよな。 “自由”の形が、広すぎて俺にはどうもよくわからん」
数秒の沈黙。
隣の男が小さく笑った。
「……採択されてほしいな」
それは願いというより、祈りに近かった。
――東京の名門理工学部
教授会では、年配の教授たちが眉を寄せていた。
「正直、あのプロジェクトは“危険”だと思うよ」
一人が口を開く。
「民間企業が研究の主導権を握る。そんな前例を作ったら、大学の独立性が危うくなる」
「だが、現実を見ろ。科研費の採択率は年々下がる一方だ。このままでは若手がいなくなる」
「君は“民間依存”を肯定するのか?」
「違う。これはあくまで共存だ。彼らは成果を独占しないと言っている。少なくとも、学問への敬意は示している」
議論は堂々巡りだった。
だが、誰もが知っていた。南野結衣という存在を、もう無視することはできない。
深夜。
SNSでは、研究者たちの匿名アカウントが一斉に動いていた。
《採択通知、まだ来ない。胃が痛い、誰か助けて》
《もし落ちたら就職探すわ》
《鬼怒川行けるやつ羨ましい》
《AIが審査してるってマジ?》
そして、ひとつの投稿が静かに拡散されていく。
《今、研究者の未来はひとりのVTuberにかかってる。笑えるけど、これが現実だ。》
その投稿は十万件を超えるリツイートを記録した。
日本中の研究者が、胸の奥で同じものを抱えていた。
焦燥、希望、そして――誇り。
――東北の小さな国立大学。
山根は窓辺に立ち、夜風に吹かれながら遠い空を見上げていた。
教授は椅子にもたれ、静かに眠っている。
山根は小さく息を吸い、誰にも届かない声で呟いた。
「……どうか、俺たちを選んでくれ」
小さな声が、夜の研究棟に溶けた。
その声を拾う者はいない。
けれど、その願いの数が百を超えたとき、
この国のどこかで――確かに、新しい熱が生まれ始めていた。
***
――採択発表前夜。
鬼怒川の地熱発電所は、夜でも仄かな光を放っていた。
だが、より明るく燃えていたのはネットだった。
《#女帝様プロジェクト》
《#鬼怒川100》
《#未来は湯けむりの向こう》
SNSのトレンド上位を、すべて“女帝様”が占拠していた。
研究者でも、オタクでも、投資家でもない。
ごく普通の人々が、同じタグをつけて、まるでお祭りのように未来を語っていた。
《VTuberが国動かしてるってどういうこと?》
《企業スポンサーというか女帝様がスポンサーなんだよなぁ》
リスナーたちは半ば冗談、半ば本気で“新しい神話”を語り合っていた。
大学関係者を名乗る匿名アカウントも動き始める。
《うちの研究室、書類通ったっぽい》
《【マ?】まだメール来てねぇ 胃が死ぬ》
誰もが興奮し、誰もが不安だった。
学者もリスナーも、投資家も学生も――その境界は、今夜だけは存在しない。
全員が同じ画面の前で、胸を震わせていた。
動画配信者たちも、動いていた。
女帝様の切り抜きを専門に扱うチャンネル〈女帝様ダイジェスト〉は、
この週だけで登録者数が五十万人を突破。
《【考察】女帝様が“百”という数字にこだわる理由とは?》
《鬼怒川モデル=新国家構想説!? 経産省も動いてる件》
《南野結衣は現実のシムシティを始めた?》
コメント欄はまるで信仰と混沌の融合体だった。
《この人、ほんとにやっちゃうんだよな》
《口だけの政治家と違う》
《神回確定》
《いやでもさ、企業資金で学問支配するの危なくね?》
《賛否あるけど見届けたい》
《明日が怖い》
理性と情熱が入り混じる。
誰もが“何かが起こる”という予感を、肌で感じていた。
ニュースサイトや経済紙のコラムは冷静を装いながら、どれも同じ結論に行き着いていた。
「国の枠組の外から札束で殴りつけた」
民放ニュースでは、鬼怒川発電所をドローンで捉えた映像が流れる。
完全に風景に溶け込んだ施設がわずかに確認できる。
ナレーターの声が熱を帯びていた。
「ここは、国の研究拠点ではありません。一人のVTuberが作った“未来の実験場”です」
スタジオが一瞬、沈黙した。
コメンテーターの一人が苦笑しながら言った。
「……もう、一体なんなんでしょうね」
――深夜
全国の女帝様ファンたちは、自然発生的に“視聴会”を開いていた。
居酒屋の一角。カフェの片隅。大学の寮のリビング。
どこも同じように、スマホやタブレットの光が揺れている。
「絶対リアタイする」
「歴史の目撃者になるんだ!」
チャット欄にはコメントが流れ続ける。
画面の向こうではまだ何も始まっていないのに、
まるでライブ会場のような熱気だった。
《明日、人生変わるかもしれん》
《鬼怒川で俺たちの税金が温泉になって沸いてくんのかなw》
《研究者もリスナーも一緒に未来つくるとか胸熱》
ひとりの学生がポツリと呟いた。
「……こんなにみんなが、研究費の話で盛り上がってるの、初めて見た」
その言葉に、周りの仲間たちが頷いた。
笑いながら、泣きそうになりながら。
彼らはスクリーンを見つめていた。
夜明け前。
鬼怒川の発電所には、霧が立ちこめていた。
地熱の蒸気と朝靄が溶け合い、幻想的な光のヴェールをつくり出している。
〈あやか〉が静かに報告した。
《全国ネットワーク上の“女帝様関連トレンド”推定閲覧数:五千万。
国内総人口の四割が、何らかの形で関与中です》
その報告はもはや、ひとつの社会現象を示していた。
女帝様が“研究費”という言葉を口にしてから、まだ一年も経っていない。
だが今や、それは信仰と経済と文化を巻き込んだ“現象”となっていた。
そして、午前八時。
ライトブルーHD公式チャンネルに、一本の通知が走る。
【LIVE】女帝様より、鬼怒川100プロジェクトに関するお知らせ
チャット欄が、一瞬で爆発した。
《きたああああああ!!》
《俺を助けろください!》
《#女帝様降臨》
応募した誰もが、その瞬間を待っていた。
そして、同時に理解していた。
――これから、世界が変わる。
視界の中で、黒い画面が白にフェードしていく。
数秒の静寂。
そして、現れた。
真珠色の背景の中で、彼女――“女帝様”が、ゆっくりと笑った。
「おはようございます。……皆さん、準備はできていますか?」
その声が流れた瞬間、
鬼怒川の湯けむりさえ、息を止めたように静まり返った。
次の瞬間――世界が、動き出す。




