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第98話 アカデミアの底力

 ――午前八時。

 ライトブルーHD公式チャンネル。

 配信が始まった瞬間、チャット欄の流速は秒速五百コメントを超えた。

 視聴者数も三十秒で二百万人に跳ね上がる。


 アバター姿の女帝様が画面に現れた。

 透き通るような青の衣装、落ち着いた微笑。

 その声が響くだけで、コメント欄が一斉に止まる。


『――おはようございます。

 ライトブルーHD代表、そして“鬼怒川100プロジェクト”責任者の南野結衣です。』


 声は穏やかで、しかし張り詰めていた。

 画面右上には「LIVE from KINUGAWA BASE」の文字。

 背後に映るのは、朝霧に包まれた鬼怒川発電所のシルエットだ。


『まず、最初にお伝えします。

 本日、百件のプロジェクトが正式に採択されました。

 採択結果について。こちらをご覧ください――本配信では、国の公式サイトに掲載された情報をそのまま映しています』


 スイッチャーの切り替えで、画面がブラウザのウィンドウへ移る。政府のエンブレム、告示日、更新時刻。ページ上部の「研究開発プロジェクト 採択一覧(確定版)」の見出しが青く反転し、一覧表が滑るようにスクロールしていく。


《あっ公式ミラーなのね!?》

《さすがにフライングとかじゃないのか》


 大学名、研究テーマ、代表者、予算額、実施期間――列が整然と並ぶ。


『本日公開分の百件。うち、地熱・電力・冷却・安全保障の四領域が横串で連携します。個別の研究内容は各機関のページでご確認ください』


 結衣の声が響いた瞬間、コメント欄は再び爆発した。


《うちの研究室、あった……》

《うちある!》

《研究室号泣してる》

《歴史の瞬間》


 画面を見つめる誰もが、息を呑む。


 スクロールはさらに続く。

 地方の小規模大学、高専、独立行政法人の名が一つ、また一つと映し出される。

 それを見るたびに、コメントの色合いが変わった。驚きから、安堵、そして誇りへ――。


《地元の高専も入ってる!》

《本当に、めぼしい大学から全部通ってない?》

《自分の知ってる関連研究室は軒並みって感じ》

《いや、これは“今回の範囲”で必要な分をまとめて採択したってことだろ》


 沸騰するコメントの中で、ある種の“沈黙”が生まれる。

 落胆の声が、どこにもなかった。


《マジで、落ちた人いない?》

《研究室スラングで“飛んだ”とか“弾かれた”とか、誰も言ってないの不自然では》


 ――その問いが、コメント欄の空気をわずかに変えた。


 画面の中で、結衣は淡々と視線を動かす。

 その表情には揺らぎがない。だが、わずかに長く息を吐いた。


『審査の詳細は、こちらの個別に送付されている資料の通りです。私から申し上げることはありません。――ただ、今後の連携窓口については、各大学・研究機関ともに既に通知済みですので、該当の皆さまは通知をご確認ください』


 結衣はスライドを切り替え、「採択一覧」から「FAQ」へ、さらに「お問い合わせ」ページへと遷移する。応募者向けの手引が拡大され、項目の一つひとつがスクロールに合わせてゆっくりと浮かび上がった。


 そして――。


 結衣は一度目を閉じ、わずかに姿勢を正した。

 その仕草に、視聴者たちは自然と息をのむ。


『――百件。

 この数字は、出発点です。』


 画面が切り替わる。

 映し出されたのは、鬼怒川の共同研究棟、地下導管、そして夜景と共に映る白い蒸気。

 まるで未来がそこに形を持ち始めたかのようだった。


『この一年で、私たちは“環境と学問と資金”をひとつの枠に収めました。

 でも、ここからが本当の勝負です。

 “研究”で終わらない。――“出口”で形にしなければ意味がない』


 結衣の声は澄んでいた。

 その瞳には、緊張ではなく確信が宿っている。


『研究者の皆さん。どうか安心してください。

 経営のことは――私が皆様と所属機関の意に沿う形で面倒を見るつもりです』


 その瞬間、画面がざわめいた。

 拍手の絵文字、涙のスタンプ、研究者らしきコメント。


《うちの教授が泣いてる》

《こんな言葉を待ってた》

《経営って、研究者には一番の壁なんだよ》

《ありがとう》

《ありがとう》


 彼女の言葉は、ビジネスによる支配ではなく研究の庇護の響きを持っていた。

 その言葉は誰かに寄り添うための温度を、確かに帯びている。


『資金の流れも、事業化も、契約も、特許もなんとかします。

 あなたたちは一番得意な“考えること”に集中してほしい。

 ビジネスの舵は、私が取ります。

 ――これが、私たちライトブルーHDの考える“出口戦略”です。』


 その言葉は宣言であり、約束でもあった。

 胸の奥に、じんわりと火を灯すような声。


 コメント欄に、ひとつの呟きが流れた。


《この人、無茶苦茶するな……》


 けれど、それは批判ではない。

 尊敬と畏れと、少しの安堵が混ざった本音だった。


『成果が出た研究は、ライトブルーグループが責任をもって事業化します。

 それが発電所事業の関連技術でも、新素材でも、AIでも構いません。

 必要なら、あなた方の名前で会社を作りましょう。

 経営者がいなければ、私が代理を務めます』


 その瞬間、画面越しに伝わる空気が変わった。

 夢物語ではなく、現実を動かす意志の温度。

 結衣の声は、どこか祈りにも似ていた。


『――でも、忘れないでください。

 出口と言っても、終わりではなく、それが“新しい入口”です。

 世界のどこかで、あなたの研究を必要としている人が必ずいる。

 その人の手に届かせるまでが、私たちの仕事です』


 沈黙。

 数百万の視聴者が、一斉に息を止めたようだった。


 やがて、コメント欄にひとつの言葉が流れる。


《研究者として、泣いてます。》


 その一行を皮切りに、次々と同じ想いが溢れ出した。


《ありがとう》

《俺も研究を続けていいんだな》

《学問が報われる時代が来た》

《#未来の入口》


 結衣はゆっくりと微笑み、画面の向こうの無数の想いを受け止めるように頷いた。


『――それでは、皆さん。

 この物語を、次の章へ進めましょう。

 “湯けむりの向こう”で、また会いましょう。』


 配信が終わった瞬間、ネットは嵐のように動いた。


 #女帝様の出口戦略

 #研究を続けていい時代

 #鬼怒川の百の芽


 研究者たちが、企業が、そしてただの視聴者までもが同じ言葉をつぶやいていた。


 ――「これで、救われる気がする」


***


 配信の終了音が静かに響いた。

 画面が暗転し、結衣は椅子の背にもたれたまま、ゆっくりと息を吐いた。

 モニターに映っていた光は消えても、彼女の瞳にはまだ熱が宿っている。

 百件の採択――その向こうに広がる未来を、誰よりも早く見ていたのは彼女自身だった。


 だが、次の瞬間。

 隣のサブモニターに浮かんだ通知が、その表情をわずかに曇らせる。


 “特許庁:打合せあり(明日13時)”


 その一行を見て、結衣は一度だけまぶたを閉じた。

 心の奥で、長く温めてきた計画の輪郭が静かに浮かび上がる。


 ――大学知財部を束ね、海外に“拠点”をつくる。

 守りに終始するのではなく、攻めの知財戦略へ。

 それは、アカデミアの知財戦略の構造を根底から変える提案だった。


 設置場所はシンガポール。

 税制も、国際仲介も、知財管理の自由度も高い。

 現地法人として「ライトブルー・インテレクチュアル・リンク」を設立し、各大学の特許を委託管理――権利を死蔵させず、動かし続けるための仕組みだ。


 結衣は机上の資料を手に取る。

 そこには、大学の知財部長名で並ぶ一覧表、そして“未活用特許”の膨大なリスト。

 目を走らせるたびに、胸の奥がざらつく。

 ――この中には、すでに海外企業に先を越された技術も少なくない。


 「……間に合ううちに、手を打たなきゃね」


 低く、独り言のように呟く。

 そのためには、特許庁との信頼構築が何よりの鍵になる。


 彼女はスケジュールを確認し、タブレットにメモを残した。

 ――目的:大学知財部の合同知財会社設立に関する制度確認。

 ――論点:国内権利帰属を維持したまま、海外法人を通じた実施・ライセンス管理の可否。

 ――提案:アカデミア発の国際特許の攻勢運用モデル。


 文字を打ち込みながら、結衣の表情は次第に引き締まっていく。

 日本の研究成果を世界に“並べる”のではなく、“競り合える”場所へ持っていく。

 そのための法的・制度的な隙間を探るのが、明日の目的だ。


 今回の交渉相手は、かつて特許庁審査官として一線で働ててた女性官僚。

 審査の厳しさでは知られる人物だが、同時に「知財は社会の血液だ」と言い切る実務家でもある。――話が通じる相手。だが、甘くはないこともわかっている。


 結衣は唇を噛み、目を伏せた。

 先ほど配信で見せた柔らかな笑顔はもうない。

 代わりに、経営者としての鋭い光が宿る。


「……大学に話を持っていく前に、できる根回しは済ませておかないと」


 それが結衣の流儀だった。

 正面からぶつかるよりも、先に地盤を整える。

 特許庁の了解を取り、産学連携の道筋を示せば、大学の知財部も動かざるを得ない。


 窓の外、鬼怒川の夜は深い蒸気に包まれている。

 街の灯がゆらめき、発電所の煙突がぼんやりと光を返していた。

 その光を見つめながら、結衣は小さく笑みを漏らした。


「――損になる話じゃない。国も、大学も、そして私たちも、全部が得をするなら問題ないよね」


 ――「アカデミア知財統合管理構想」


 明日の交渉が、その第一歩になる。


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