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第93話 アカデミアベンチャー構想

 ――霞が関・文部科学省。


 研究振興局の第六会議室には十数名の職員が集められていた。

 壁際の時計の針が八時半を指している。会議の正式な開始時刻は九時。それでもこの部屋が満席なのは、昨夜の“非公式通話”の余波に他ならなかった。


 ホワイトボードには、マーカーで大きく書かれた文字。


「南野構想(仮称)――鬼怒川モデル」


 室内の空気は張りつめていた。

 課長補佐が資料を配りながら、口火を切った。


「……というわけで、昨日ライトブルーHDの南野会長から非公式に連絡がありました。

 要点をまとめると――全国で百プロジェクト、五か年で総額一千億円規模。

 一プロジェクトあたり十億円を民間資金で支援。

 ただし、科研費など既存の国の枠組みを通す形で大学・研究機関に配分したい、とのことです」


 ざわめきが走る。


「千億!?」

「民間単独でそこまで出すのか!?」


「静かに」

 局長が低く声をかけると、部屋の空気が収束する。

「……それで、昨日の通話での感触は?」


「ええ。担当として率直に申し上げますが……“本気”であるように感じました。

 企業PRやイベントではありません。既に複数大学へのアプローチを準備しているようです。

 “芽を拾う”という言葉を何度も使われていました」


 課長が腕を組み、沈思する。

「芽を拾う、か……。つまり、基礎研究からの発掘も考えてるな」


「ただ、課題はスキームです。

 民間資金を公的研究費と同じ経路で配分するには、財務・法務の両面で調整が必要です。

 もし不正使用が起これば、“省が民間マネーを誘導した”と批判されかねません」


 若手の係長が控えめに手を挙げる。


「ですが、これだけの規模の資金が大学に流れ込むのですから枠組みは必要です。

 実際、昨夜からすでにSNS上では“民間版科研費”という言葉が広まり始めています。

 もし他省庁、たとえば経産や環境に先を取られたら――」


「――うちは笑いものだな」


 誰かが小さく苦笑した。

 その言葉に、局長が頷いた。


「わかっている。

 だが問題は、“どこまで国家として関与するか”だ。

 この話を軽く扱えば民間主導のバズで終わる。

 しかし、うまく乗れば、学術界と地域産業を一気に繋ぐ契機になる」


 課長補佐がタブレットを操作し、スクリーンにSNSトレンドのグラフを映し出す。

 #湯けむりの向こう #研究費革命 #女帝様

 夜の配信で生まれたタグ群が、未だトップを占めている。


「……ここまで世間が注目しているのは久しぶりです。

 悪く言えば“動かざるを得ない”。」


「ただし、官として動く以上、制度の中で整理しなければならない」


 局長が机を指で叩いた。


「たとえば、“共同研究推進特別枠”として、民間資金を受け入れるための試行的スキームを設ける。

 南野会長側には形式上“寄附”として扱ってもらう」


「……寄附扱い、ですか。

 しかし、それでは企業側にとってリターンがありません」


「彼女は成果の独占までは求めていないそうだ。“知財共有”を望んでいる。

 その場合、大学の特許管理機構をハブにすれば整合は取れる。

 要は、こちらの制度を壊さずに柔軟に扱う方法を探すことだ」


 若手職員がメモを取りながら問う。


「局長、もし途中段階で有望な研究が出た場合は……?」


 局長は口角を上げた。


「彼女の言葉を借りるなら、“積極的に取り込ませていただく”そうだ。

 つまり、成功の芽を見つけたら起業からバイアウトまで見据えて面倒見る――そういう意味だろう」


「……判断が難しいですね」


「難しいが、やるしかない」


 沈黙のあと、誰かがぽつりと言った。


「正直、びびりますね。

 十億円は、研究者にとっては夢が見られる数字です。

 その夢を百件……民間の一社が。

 しかも、“一緒にやろう”と誘ってくるなんて」


 会議室の全員が、言葉を失っていた。

 やがて、局長が深く息を吐き、ゆっくりと告げる。


「――この件、正式な検討会を立ち上げよう。

 南野構想、一次報告として内閣府にも伝達する。

 ただし現段階では“オフレコ”、外に漏らすな。いいな?」


「はいっ!」


 職員たちの返事が重なる。


 その声の中で、誰もが感じていた。

 この案件は、単なる企業の寄附ではない。

 国家予算の論理を超えた、“新しい研究資金の流れ”が生まれようとしている。


 そして――誰もが、その流れを止めることはできないと、うすうす悟っていた。


 ――三日後。


 文科省研究振興局の非公開ブリーフィング。

 資料の一枚目には、こう記されていた。


「ライトブルーHD提案案件――南野構想(鬼怒川モデル)について」


「……つまり、彼女が言っているのは“研究の出口も用意する”ということですか?」


 若手職員の問いに、局長が頷いた。


「そうだ。大学や研究機関は基礎研究の能力は高いが、出口戦略が弱い。


 彼女はそれを民間で補うつもりだ。研究が芽を出した段階で、ライトブルーグループの資本と事業開発部門が受け皿になる」


「……アカデミア発ベンチャーの“受け皿”ですか」


「正確には、ベンチャーを超えた“社会実装プラットフォーム”だな」


 課長が言葉を引き継いだ。


「つまり――大学の研究成果を、失敗を恐れずに現場へ出せる。

 しかも経営リスクは民間が引き受け、知的財産は共有。

 ここまで整った枠組みは、国にもまだ存在しない」


「……そりゃあ、研究者が食いつきますよ」


「問題は、国としてどう関わるかだ。

 このままだと、まるで“アカデミアの買収”だと批判されかねない」


 会議室の空気が静まり返る。

 だが、誰も否定できなかった。

 この構想が、これまでのどの産学連携よりも合理的で、かつ人材流出を防ぐ可能性を秘めていることを。


「……正直、羨ましい環境ですよね」


 若手の女性職員がぽつりと呟いた。


「自由に研究できて、うまくいきそうなら経営のプロが舵を取る。そんな都合の良い環境、普通は望めません」


「問題は、“舵取り役”があの南野結衣だということだ」


 課長が言った。


「彼女は経営の天才で、同時に情報発信力も持っている。あの配信一つで世論を作った。このスピード感に行政が追いつけるかどうかだ」


 局長が苦笑した。


「だが、それこそがこの“出口”の実現可能性を示しているんだろうな。

 世論が支えている構想を、もはや止めることはできないよ」


 同じ頃、全国各地の大学研究室でも話題はその話で持ちきりだった。


「おい見たか? あの“女帝様構想”。うちの分野にも応用できるかもしれない」


「これマジで? うちなんか科研費通らなくてスタッフの給料も出せてないのに……」

「十億だってさ。一プロジェクト十億。

 しかも成功したらそのまま事業化チームが拾ってくれるらしいぞ。

 要するに、国がやらないことを民間が全部やるって話だ」


「それ、逆に怖くない? 研究を民間企業に握られるんじゃ」

「握られる? 舵を取るのが――“南野結衣”だぞ? 俺達が経営するのと比べるほうが間違ってるだろ」


 関係者の議論は止まらなかった。

 特に若い研究者ほど熱っぽく、「これが理想の環境だ」と口にしていた。


 そして、ネットでも静かに“気づいた”層が動き始めていた。


《あれって実質、アカデミアベンチャー構想じゃ?》

《研究費投げるだけじゃなく、出口戦略まで面倒見てくれる仕組みだよなこれ》

《たぶん、大学が一番苦手な“商業化”を女帝様が引き受けるって話だよね》


 やがてその議論は、アカデミア関係者のアカウントを巻き込み、半ば公開討論のような様相を呈していった。


《民間が出口を用意するのはリスクでは?》

《いや、これ全部の資金を一企業が出すんでしょ?規模がおかしいだけで共同研究として考えればよくある感じではあるよ》


 そのコメントが、爆発的にリツイートされた。


 午後。

 文科省の会議室。

 若手官僚の一人が、スマートフォンを片手にため息をついた。


「……もう、バレてますね。 “出口戦略支援構想”だって、ネットのほうが早い」


「そうか」


 局長は微笑した。


「なら、あとは我々が“制度を整える”番だ。

 ――彼女が地盤整備をしてくれた」


 研究者たちの夢と、行政の論理と、ネットの熱狂。

 南野結衣の構想は、まだ公式文書にもなっていない。

 けれども、すでに誰もが気づき始めていた。


 ――この国の学術が、新しいフェーズに入ろうとしていることを。

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