第86話 再訪の扉
都心にそびえるタワーマンションを、芽衣は仰ぎ見ていた。
一度目に訪れたときもその規模と気配に圧倒されたが、二度目の今もやはり現実感は薄い。夜の帳を背にきらめくガラス張りの外観は、まるで別世界への入口のように光を放っている。
「……ここ、本当に先輩の“家”なんだよなあ」
思わず小さくつぶやいて、胸の前で両手を握る。
――結衣に「近いうちに遊びに来て」と誘われたのは、ほんの数日前のことだった。
その場にいた野間は一瞬黙り込み、気まずそうに笑った。
『……いや、俺は遠慮しておくよ。さすがに現役VTuberの自宅に、男がのこのこ行くのはまずかろう。変な噂が立ったら困るだろ?』
真面目に言いながらも、どこか茶化すような声音だった。
芽衣が「えっ」と声を上げると、野間は肩をすくめて続けた。
『だから芽衣、久しぶりに先輩と楽しんでおいで。俺の分までしっかり見てきてさ、後で感想を聞かせてくれればいい』
その言葉を思い出すたび、芽衣の胸はほんのり熱を帯びる。
配慮と信頼がにじむ口ぶりに、背中を押されたのだ。
以前訪れた時は「資産家のお嬢様説」が社内で囁かれていた程度で、正直半信半疑だった。けれど実際に足を踏み入れた部屋は、常識の枠をはるかに超えていた。4LDKの間取りに、高級ホテル顔負けの内装。大理石の床、広すぎるリビング、ガラス越しに一望できる東京の夜景。
ただの噂ではなく、現実として目の前に広がっていた。
それでも――結衣がそこに立っていたことで、芽衣はかろうじて平静を保てたのだ。
気さくに笑いかけてくれる声は、机を並べて仕事をしていた頃のまま。肩書きや役割がどれほど変わっても、あの温もりが消えていない。それが救いだった。
だが、そのとき見せてもらえなかった部屋がある。
――今なら、その理由もわかる、そこはおそらく配信部屋。
「女帝様」としての顔を持つ彼女の、もっとも核心に触れる空間。
(今日……ようやく、その扉を開けてもらえるのかもしれない)
芽衣の胸は、期待と不安でいっぱいだった。
今や芽衣は鬼怒川案件の一員として正式に契約を結び、責任を共有する立場だ。単なる「後輩」ではなく、責任を共有する仲間。だからこそ、結衣先輩はきっと秘密の一端を預けてくれる。
女帝様のファンとしてではなく、結衣先輩の”後輩”として――芽衣はそう信じたかった。
エントランスのセキュリティゲートを通り、専用エレベーターで最上階へ。扉が開くと、そこには柔らかな灯りに包まれた玄関が広がっていた。
「いらっしゃい、芽衣ちゃん」
出迎えた結衣は、会社で見せる冷静な社外取締役の顔ではなく、昔のままの先輩の笑みを浮かべていた。その瞬間、芽衣の胸にこみあげてくるものがあった。
「せ、先輩……!」
思わず声が震える。
一年前、部署の異動で離れてしまったときは、もう二度とこんなふうに会えないのではないかと思っていた。だが今はこうして、再び扉の向こうに先輩が立っている。
「緊張しなくていいのよ。今日はただ、少しゆっくり話したいだけだから」
結衣の声は、あくまで自然体で、芽衣の心をやわらかく解きほぐしていく。
芽衣は靴を脱ぎ、差し出されたスリッパを受け取る。廊下を進むと、リビングの大きな窓から夜景が広がった。高層ビル群の灯りが星空と混じり合い、眼下に流れる光の川となっている。
「……やっぱり、すごいです」
「そんな大したものじゃないわ。最近はここにいると逆に、街の一部になったようで落ち着くの」
結衣の言葉に、芽衣はふと胸が熱くなる。
華やかさや豪華さではなく、「ここで自分の場所を築いてきたのだ」という先輩の静かな誇りが伝わってきたからだ。
リビングのソファに腰を下ろすと、自然と昔の記憶がよみがえる。残業続きで缶コーヒーを分けてもらったこと。プレゼン前に励ましてもらったこと。小さな失敗をフォローしてもらったこと。
どれもが、芽衣にとって宝物のような日々だった。
「……先輩。伝えたかったことが、いっぱいあるんです」
思わず口からこぼれた。
結衣が驚いたように目を瞬かせ、静かに頷く。
「聞かせてくれる?」
その一言に、堰を切ったように言葉があふれ出す。
憧れていたこと。離れてしまったときの寂しさ。社内で囁かれる噂を耳にして、不安にかられた夜。
そして――もう一度一緒に働きたいと心から願っていたこと。
結衣は一言も遮らず、ただ穏やかに聞き続けてくれた。
その眼差しは、役職や肩書きの枠を越えた「先輩」としてのもの。
芽衣は涙をこらえながら笑う。
「だから……今こうしてまた一緒に働けるのが、本当に、夢みたいで」
結衣もふっと微笑んだ。
「夢じゃないよ。現実だよ、芽衣ちゃん」
その声に、胸の奥が温かく満ちていくのを感じた。
(ああ……やっぱり、私の憧れは、この人なんだ)
芽衣は心の中でそう呟きながら、改めて先輩との時間を噛みしめた。
何気ない昔話に花を咲かせた後、ソファで一息ついた頃、結衣は小さく息を吐き、立ち上がった。
「……芽衣ちゃん。せっかくだから、前に来た時に見せられなかった場所に案内するね」
その言葉に、芽衣の心臓が跳ねる。
(ま、まさか……!)
思い浮かぶのはただ一つ。
前回来たときには閉ざされたままだった部屋。
――「女帝様」の心臓部。
結衣が指先でパネルをタッチすると、静かにドアロックが外れる音が響いた。
芽衣はごくりと唾を飲み込む。
そして扉が開いた。
まず目に飛び込んできたのは、壁一面の棚に並べられた煌めくアイテムたちだった。
――YouTubeから贈られた金の盾。
中央に鎮座するその存在感は圧倒的で、ライトの反射を受けて黄金に輝いていた。
その周囲には、整然と並んだグッズの数々。
「女帝様」のアクリルスタンド、缶バッジ、タペストリー。さらに、みやびやノアといったコラボ相手のグッズまで、きちんと揃えられていた。
「……うそ……全部、こんなに……!」
芽衣の声が震え、膝ががくりと落ちそうになる。
それは単なる飾りではなかった。丁寧に配置され、照明に照らされて輝くグッズの数々は、結衣が“片手間の副業”ではなく、VTuber生活そのものを誇りとして大切にしてきた証だった。
机の上には、配信で使われるマイクとミキサー、複数のモニターが整然と並んでいる。防音材に覆われた壁面は、まるで小さなスタジオだ。
椅子に掛けられたブランケットの端に、みやびカラーのマスコットがちょこんと乗っているのを見て、芽衣の胸がさらに熱くなる。
(ああ……ここが……私がずっと画面の向こうで見ていた世界……!)
足が震えて前に進めない。尊敬と憧れと混乱がないまぜになり、呼吸が苦しくなる。
「芽衣ちゃん?」
結衣が心配そうに振り返る。
その声に、芽衣は必死に笑みを作った。
「す、すごすぎて……ほんとに、尊死しそうです……」
冗談めかしたつもりだったが、声は涙ぐんで震えていた。
結衣は少し照れくさそうに頭をかいた。
「大げさだよ。ただの部屋じゃない、ちょっとグッズが多すぎて恥ずかしいくらいなんだけど」
「ただの……って……こんなの、ファンからしたら聖地ですよ!?」
芽衣は思わず叫んでいた。
推しのすべてが詰まった場所。画面越しにしか知らなかった世界が、今目の前にあるのだ。
棚の一角には、ファンから贈られた手紙やイラストまで大切に保管されていた。丁寧に額縁に収められたものもある。
芽衣はその一枚に手を伸ばし、震える指先で触れそうになって――慌てて引っ込めた。
「ご、ごめんなさいっ! 勝手に触ったらダメですよね……」
結衣はふっと笑い、首を振る。
「いいのよ。芽衣ちゃんがくれた”手紙”じゃない、大事にしてるよ」
その言葉に、芽衣の胸はもう限界だった。
尊敬する先輩が、仕事だけでなく、配信者としても真剣に全力を注いでいる。その証を、目の前で見せてもらえたのだ。
「……先輩」
涙をこらえながら芽衣は口を開く。
「私、本当に……“女帝様”が推しでよかったって思います」
結衣は静かに微笑んだ。
「ありがとう。そう言ってもらえるのが、いちばん嬉しい」
その瞬間、芽衣は悟った。
ここにいるのは“雲の上の存在”ではなく、かつてと同じように隣に立ってくれる先輩だ。
けれど同時に――自分の心を掴んで離さない、唯一無二の推しでもあるのだと。




