表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
87/118

第86話 再訪の扉

 都心にそびえるタワーマンションを、芽衣は仰ぎ見ていた。

 一度目に訪れたときもその規模と気配に圧倒されたが、二度目の今もやはり現実感は薄い。夜の帳を背にきらめくガラス張りの外観は、まるで別世界への入口のように光を放っている。


「……ここ、本当に先輩の“家”なんだよなあ」


 思わず小さくつぶやいて、胸の前で両手を握る。


 ――結衣に「近いうちに遊びに来て」と誘われたのは、ほんの数日前のことだった。

 その場にいた野間は一瞬黙り込み、気まずそうに笑った。


『……いや、俺は遠慮しておくよ。さすがに現役VTuberの自宅に、男がのこのこ行くのはまずかろう。変な噂が立ったら困るだろ?』


 真面目に言いながらも、どこか茶化すような声音だった。

 芽衣が「えっ」と声を上げると、野間は肩をすくめて続けた。


『だから芽衣、久しぶりに先輩と楽しんでおいで。俺の分までしっかり見てきてさ、後で感想を聞かせてくれればいい』


 その言葉を思い出すたび、芽衣の胸はほんのり熱を帯びる。

 配慮と信頼がにじむ口ぶりに、背中を押されたのだ。


 以前訪れた時は「資産家のお嬢様説」が社内で囁かれていた程度で、正直半信半疑だった。けれど実際に足を踏み入れた部屋は、常識の枠をはるかに超えていた。4LDKの間取りに、高級ホテル顔負けの内装。大理石の床、広すぎるリビング、ガラス越しに一望できる東京の夜景。

 ただの噂ではなく、現実として目の前に広がっていた。


 それでも――結衣がそこに立っていたことで、芽衣はかろうじて平静を保てたのだ。

 気さくに笑いかけてくれる声は、机を並べて仕事をしていた頃のまま。肩書きや役割がどれほど変わっても、あの温もりが消えていない。それが救いだった。


 だが、そのとき見せてもらえなかった部屋がある。


 ――今なら、その理由もわかる、そこはおそらく配信部屋。

 「女帝様」としての顔を持つ彼女の、もっとも核心に触れる空間。


(今日……ようやく、その扉を開けてもらえるのかもしれない)


 芽衣の胸は、期待と不安でいっぱいだった。

 今や芽衣は鬼怒川案件の一員として正式に契約を結び、責任を共有する立場だ。単なる「後輩」ではなく、責任を共有する仲間。だからこそ、結衣先輩はきっと秘密の一端を預けてくれる。


 女帝様のファンとしてではなく、結衣先輩の”後輩”として――芽衣はそう信じたかった。


 エントランスのセキュリティゲートを通り、専用エレベーターで最上階へ。扉が開くと、そこには柔らかな灯りに包まれた玄関が広がっていた。


「いらっしゃい、芽衣ちゃん」


 出迎えた結衣は、会社で見せる冷静な社外取締役の顔ではなく、昔のままの先輩の笑みを浮かべていた。その瞬間、芽衣の胸にこみあげてくるものがあった。


「せ、先輩……!」


 思わず声が震える。

 一年前、部署の異動で離れてしまったときは、もう二度とこんなふうに会えないのではないかと思っていた。だが今はこうして、再び扉の向こうに先輩が立っている。


「緊張しなくていいのよ。今日はただ、少しゆっくり話したいだけだから」


 結衣の声は、あくまで自然体で、芽衣の心をやわらかく解きほぐしていく。

 芽衣は靴を脱ぎ、差し出されたスリッパを受け取る。廊下を進むと、リビングの大きな窓から夜景が広がった。高層ビル群の灯りが星空と混じり合い、眼下に流れる光の川となっている。


「……やっぱり、すごいです」


「そんな大したものじゃないわ。最近はここにいると逆に、街の一部になったようで落ち着くの」


 結衣の言葉に、芽衣はふと胸が熱くなる。

 華やかさや豪華さではなく、「ここで自分の場所を築いてきたのだ」という先輩の静かな誇りが伝わってきたからだ。


 リビングのソファに腰を下ろすと、自然と昔の記憶がよみがえる。残業続きで缶コーヒーを分けてもらったこと。プレゼン前に励ましてもらったこと。小さな失敗をフォローしてもらったこと。


 どれもが、芽衣にとって宝物のような日々だった。


「……先輩。伝えたかったことが、いっぱいあるんです」


 思わず口からこぼれた。

 結衣が驚いたように目を瞬かせ、静かに頷く。


「聞かせてくれる?」


 その一言に、堰を切ったように言葉があふれ出す。

 憧れていたこと。離れてしまったときの寂しさ。社内で囁かれる噂を耳にして、不安にかられた夜。

 そして――もう一度一緒に働きたいと心から願っていたこと。


 結衣は一言も遮らず、ただ穏やかに聞き続けてくれた。

 その眼差しは、役職や肩書きの枠を越えた「先輩」としてのもの。


 芽衣は涙をこらえながら笑う。


「だから……今こうしてまた一緒に働けるのが、本当に、夢みたいで」


 結衣もふっと微笑んだ。


「夢じゃないよ。現実だよ、芽衣ちゃん」


 その声に、胸の奥が温かく満ちていくのを感じた。


(ああ……やっぱり、私の憧れは、この人なんだ)


 芽衣は心の中でそう呟きながら、改めて先輩との時間を噛みしめた。


 何気ない昔話に花を咲かせた後、ソファで一息ついた頃、結衣は小さく息を吐き、立ち上がった。


「……芽衣ちゃん。せっかくだから、前に来た時に見せられなかった場所に案内するね」


 その言葉に、芽衣の心臓が跳ねる。


(ま、まさか……!)


 思い浮かぶのはただ一つ。

 前回来たときには閉ざされたままだった部屋。

 ――「女帝様」の心臓部。


 結衣が指先でパネルをタッチすると、静かにドアロックが外れる音が響いた。

 芽衣はごくりと唾を飲み込む。


 そして扉が開いた。


 まず目に飛び込んできたのは、壁一面の棚に並べられた煌めくアイテムたちだった。

 ――YouTubeから贈られた金の盾。

 中央に鎮座するその存在感は圧倒的で、ライトの反射を受けて黄金に輝いていた。


 その周囲には、整然と並んだグッズの数々。

 「女帝様」のアクリルスタンド、缶バッジ、タペストリー。さらに、みやびやノアといったコラボ相手のグッズまで、きちんと揃えられていた。


「……うそ……全部、こんなに……!」


 芽衣の声が震え、膝ががくりと落ちそうになる。

 それは単なる飾りではなかった。丁寧に配置され、照明に照らされて輝くグッズの数々は、結衣が“片手間の副業”ではなく、VTuber生活そのものを誇りとして大切にしてきた証だった。


 机の上には、配信で使われるマイクとミキサー、複数のモニターが整然と並んでいる。防音材に覆われた壁面は、まるで小さなスタジオだ。

 椅子に掛けられたブランケットの端に、みやびカラーのマスコットがちょこんと乗っているのを見て、芽衣の胸がさらに熱くなる。


(ああ……ここが……私がずっと画面の向こうで見ていた世界……!)


 足が震えて前に進めない。尊敬と憧れと混乱がないまぜになり、呼吸が苦しくなる。


「芽衣ちゃん?」


 結衣が心配そうに振り返る。

 その声に、芽衣は必死に笑みを作った。


「す、すごすぎて……ほんとに、尊死しそうです……」


 冗談めかしたつもりだったが、声は涙ぐんで震えていた。


 結衣は少し照れくさそうに頭をかいた。


「大げさだよ。ただの部屋じゃない、ちょっとグッズが多すぎて恥ずかしいくらいなんだけど」


「ただの……って……こんなの、ファンからしたら聖地ですよ!?」


 芽衣は思わず叫んでいた。

 推しのすべてが詰まった場所。画面越しにしか知らなかった世界が、今目の前にあるのだ。


 棚の一角には、ファンから贈られた手紙やイラストまで大切に保管されていた。丁寧に額縁に収められたものもある。


 芽衣はその一枚に手を伸ばし、震える指先で触れそうになって――慌てて引っ込めた。


「ご、ごめんなさいっ! 勝手に触ったらダメですよね……」


 結衣はふっと笑い、首を振る。


「いいのよ。芽衣ちゃんがくれた”手紙”じゃない、大事にしてるよ」


 その言葉に、芽衣の胸はもう限界だった。

 尊敬する先輩が、仕事だけでなく、配信者としても真剣に全力を注いでいる。その証を、目の前で見せてもらえたのだ。


「……先輩」


 涙をこらえながら芽衣は口を開く。


「私、本当に……“女帝様”が推しでよかったって思います」


 結衣は静かに微笑んだ。


「ありがとう。そう言ってもらえるのが、いちばん嬉しい」


 その瞬間、芽衣は悟った。

 ここにいるのは“雲の上の存在”ではなく、かつてと同じように隣に立ってくれる先輩だ。


 けれど同時に――自分の心を掴んで離さない、唯一無二の推しでもあるのだと。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ