第85話 アカデミアを巻き込んで
会議室に静けさが戻った。
先ほどまでの笑い声の余韻が漂い、三人はしばし黙って互いの表情を見つめ合う。
芽衣が小さく息を吐き、照れ笑いを浮かべた。
「……でも、やっぱり先輩のことを“女帝様”って口にすると不思議な感じです」
野間は少し言葉を探すように視線を泳がせ、それから肩をすくめた。
「俺は正直ホッとしたよ。立場は変わっても、結……いや、南野さんは、やっぱりあの頃のままだって」
言い直す声音には、同期としての親しさと、今の距離感への戸惑いが少しだけ混じっていた。
結衣はその揺れを受け止めるように微笑み、静かに答える。
「ありがとう。呼び方や肩書きはどうでもいいの。ただ――これから一緒に進んでくれる、その気持ちが嬉しい」
その一言に、芽衣と野間の胸に熱が灯る。
だからこそ、ここからは冗談を抜きにして本題へ臨まなければならない。
結衣が視線を机上の資料へ落とした瞬間、空気は自然と引き締まった。
野間も手を伸ばし、ページをめくる。
「……井手口常務、そして南野取締役。正直に申し上げます。鬼怒川の地熱設備は、私にはただの観光地再開発では済まない規模に見えます」
芽衣が隣で息を呑む。野間は図面の一部を指で叩いた。
「先日受け取った概略図を見ましたが、これは普通の蒸気タービンだけでは説明がつきません。高温域だけでなく、低温域まで段階的に拾う……いわゆるカスケード型。さらに有機ランキンサイクルで複数の溶媒を使って発電効率を極限まで高めるシステムになっています」
言葉に熱が宿る。
「この規模の大容量発電や小型ユニット化についてはまだ研究段階のはずのシステムが、鬼怒川で事業化されようとしている。もしこれが正式稼働すれば、日本だけでなく世界の再生可能エネルギー研究の基準を塗り替えます。……ただし、その分リスクも大きい。制御が難しく、コストも高い、研究レベルを超えた実地導入は前例も少ない」
芽衣は必死にメモを取りながら、野間の言葉に目を輝かせていた。
「つまり……私たちが向き合うのは、観光地再生じゃなくて、未来のエネルギーインフラってことですよね」
野間は真剣に頷いた。
「ええ。これは研究者や技術者を巻き込まなければ、到底成功しません」
そのとき、結衣が静かに口を開いた。
「その点については、すでに動き始めています」
二人が驚いたように顔を上げる。
「このカスケード型の地熱システムは、理論的には有望ですが、実装には専門知識が欠かせません。ですから――私は大学を積極的に巻き込むつもりです」
井手口が小さく頷いた。すでに共有していた話らしい。
「具体的には、工学部やエネルギー工学の研究室を拠点に共同研究体制を組みます。地熱の熱交換、揮発性溶媒の挙動、安全弁の設計……どれも大学に蓄積のある分野です。現場と学問をつなぐことで、初めて実現できる技術だと考えています」
芽衣の瞳が一層輝きを増す。
「大学と一緒に、ですか……! それって、研究者にとっても夢の舞台ですよね」
結衣は小さく笑った。
「……大学を巻き込む」と結衣が口にした瞬間、野間も芽衣も身を乗り出していた。
だが次に続いた言葉が、二人をさらに驚かせることになる。
「ご存じのとおり、大学は今、慢性的な資金難に苦しんでいて研究費の削減や人材流出が深刻です」
結衣は視線を資料に落とし、指先で軽く叩いた。
「そこに私たちが資金的な支援を行います。――具体的には、地熱エネルギーおよび関連分野について、一つのプロジェクトあたり初期投資を十億円。これを百プロジェクト規模で走らせる計画です」
予想をこえる規模感に室内が静まり返る。
「……じゅ、一プロジェクトあたり十億……?」
芽衣が呆然としながらも口を開いた。
「しかも百プロジェクトって……それ、合計で千億円じゃないですか!」
野間も言葉を失っていた。普段は冗談で場を和ませる彼ですら、今ばかりは数字の重みに飲み込まれている。
「そんな規模の資金投入、国内の大学に前例があるんですか」
かろうじて絞り出した声は低く震えていた。
結衣は落ち着いた様子で首を振る。
「ありません。けれど、だからこそ意味があるんです。ここまで大規模に再生可能エネルギーと大学研究を直結させた事例は数えるほどしかない。ならば私たちが先駆けとなるべきです」
芽衣はペンを握る手を震わせながら、必死にノートに書き留めていた。
「それって、大学の先生たちにとっては……宝くじどころじゃない、大逆転ですよね」
「そうです」
結衣の瞳が強く光った。
「彼らは夢を持っている。だが研究資金がなく、実現できないまま終わる研究も多い。もし必要な資金と設備を供給できれば、眠っていた可能性が一気に開花する。……鬼怒川を、その拠点にするのです」
野間は深く息を吸った。
「……しかし、百プロジェクトというと国内の大学全体を動かす規模になりますよ」
「ええ。そのために大学間連携も視野に入れています。鬼怒川を中心に、全国の研究室をハブとして結びつける。そして、必要に応じて追加投資も行うつもりです」
野間と芽衣は、もはや笑うしかなかった。
「追加投資……って、まだ積むんですか」
「もちろん。技術の進展や予期せぬ課題は必ず出てきます。それに応えるために資本を惜しむつもりはありませんよ」
結衣の声は静かだが、その内容は常識をはるかに超えていた。
「千億円を超える規模の資金を、大学に……」
結衣は優しく微笑む。
「私はただ、やるべきことをやるだけです。資本があるのなら、未来のために使うべきだと思っていますから」
野間が資料を閉じ、深く頷いた。
「……つまり、この鬼怒川案件は産学官連携そのもの。自治体や企業だけじゃなく、学問の最前線を取り込む大計画なんですね」
「はい」
結衣の声は落ち着いていたが、その奥には確かな情熱が宿っていた。
「私たちは“観光再生”の看板を掲げているけれど、本質はもっと大きなものです。地域に根差しながら、世界と競える技術を育てる。鬼怒川を、その拠点にする」
芽衣は感極まったように言葉を漏らした。
「……すごい……先輩、本当に未来を作ろうとしてるんですね」
結衣はその呼び方に微笑み、続ける。
「未来を作るのは私一人じゃありません。ここにいる全員で作るんです。野間くん、芽衣ちゃん――あなたたちの力が必要です」
その言葉に、二人は強く頷いた。
野間は椅子に深く腰を下ろしながらも、視線だけは鋭く結衣に向ける。
「了解しました。なら俺も、現場で徹底的に支えます。地熱の特殊仕様に関しては、技術班や大学側と密に連携を取ります。制御がどれだけ難しくても、必ず実用化へ漕ぎつけてみせます」
芽衣も負けじと声を張った。
「私も全力でサポートします! ネットや広報も絡めて、地域の人や関係者に安心してもらえるようにしたいです。だってこれは、“女帝様案件”ですから!」
その無邪気さに、会議室に笑いが生まれる。井手口も苦笑を漏らし、結衣も肩を揺らした。
「ふふ……そうね。だからこそ、責任は重いわ。でも、きっと乗り越えられる」
その瞬間、三人の胸に同じ熱が宿った。
鬼怒川――温泉街として知られてきたその地が、いまや世界に名を轟かせる新技術の実験場となる。
重圧も、困難もある。だが同時に、未来を切り拓く夢が確かにそこにあった。
結衣は心の奥でそっと呟いた。
(怖さはある。でも……この仲間がいれば、私はきっと大丈夫)
野間は拳を握り、芽衣は胸を張る。
三人の視線が重なった瞬間、鬼怒川案件はただのプロジェクトから、彼らの“誓い”へと変わった。




