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第84話 先輩が“女帝様”だった日

「ありがとう、芽衣ちゃん」


 その声音には、役職や肩書きの重さはなく、かつて机を並べた“先輩”としての温もりがにじんでいた。


 芽衣の胸の奥がじんわりと熱を帯びる。視界がかすみ、思わず目尻に涙が滲みそうになる。まさか再び、こんな形で「芽衣ちゃん」と呼んでもらえる日が来るとは考えてもいなかった。


 ――心の奥底で諦めていた憧れが、突然現実に引き戻されたのだ。


 野間は隣で小さく息を吐き、結衣の返しに安堵を覚えた。先ほどまで緊張で固まっていた空気が、彼女の一言でほぐされていく。同時に、あえて「芽衣ちゃん」と呼んだ。そのバランス感覚と人間的な懐の深さに、野間は舌を巻かざるを得なかった。


 結衣は一拍置き、二人の顔をまっすぐに見つめた。


「驚かせてしまったと思います。……けれど、この機会に少しだけお話しさせてください。もちろん全部を話すわけにはいきません。でも、今後一緒に働くなら、私がどういう立場にいるのかを知っておいて欲しいんです」


 静かな声が応接室の壁に吸い込まれる。野間と芽衣は姿勢を正し、自然と息を呑んだ。


「ご存じのとおり、私はこれまで営業企画部で働いてきました。部署異動で離れてしまったけれど……二人と机を並べ、共に過ごした時間を今でも大切に思っています」


 芽衣の目が熱を帯びる。結衣の言葉が、過ごした日々の記憶を呼び覚ました。偽りのない実感が、胸に響いた。


「ただ、それと同時に……私は“もうひとつの顔”を持っています。資産運用を始めたのは家の事情がきっかけでしたが、それが大きく膨らみ、『ライトブルーファンド』を立ち上げ、今は『ライトブルーホールディングス』という持株会社を率いています」


 その一言に、芽衣は息を詰め、思わず口を押さえた。


「やっぱり……本当だったんですか。資産家のお嬢様説って……」


 言ってから頬が真っ赤に染まる。軽々しい噂を信じていたと思われたら恥ずかしい。だが、現実の重みが噂を裏付けてしまっていた。


 結衣は小さく笑った。からかうでもなく、優しく受け止める微笑みだった。


「ええ、社内でも噂はあったみたいですね。当初は先祖代々の土地を売って、まとまった資金が得られたのは事実です。でも、それをここまで膨らませたのは私自身なので……お嬢様と呼ばれるのは少し違うかな」


 野間は腕を組み、冷静に状況を整理しながら頷いた。


「……なるほど。今の社外取締役という肩書きも、ライトブルーHDが上場したタイミングで副業としての体裁を維持できなくなったから……と考えれば合点がいきます。でも――やはり驚きますね」


 結衣は小さく息を整え、真剣な眼差しを二人に向けた。


「そうなんです。さすがに副業の延長では制度上収まりきらなくなって……井手口常務と相談して、この形で会社に関わらせてもらうことにしました」


 その声には、責任を引き受ける者の覚悟があった。


「そして、もうひとつ。これは話すべきか迷ったのですが……いずれ耳に入ることですし、私の立場を理解してもらうには避けて通れません」


 野間と芽衣が同時に身を乗り出した。


「……私は、VTuberとしても活動しています。ネット上では『女帝様』と呼ばれています」


 芽衣は瞬きを繰り返し、ようやくか細い声を絞り出した。


「……じょ、女帝様……? ああぁ、確かに女帝様、ですよね? 私がいつも観ていた……」


 結衣は静かに頷く。その所作は、誇示ではなく事実を淡々と受け止めるものだった。


 芽衣の心臓は激しく脈打った。尊敬する先輩が、画面越しに憧れ続けていた“女帝様”だった――その衝撃は、夢と現実が一瞬で重なったような眩暈を伴っていた。


「……すごい……本当に、先輩だったんだ……」


 その言葉は震え、涙に濡れていた。


 結衣は芽衣の反応を見守り、柔らかな笑みを浮かべながら言葉を続けた。


「VTuberとしての活動は、意図的に始めたとはいえ、今では社会的に大きな影響力を持っています。それもまた、私が背負っている立場の一部です」


 芽衣は声を震わせながらも言葉を絞った。


「……あの、ずっと憧れて見ていた人が、まさか自分の先輩だったなんて……信じられないです。でも、すごく嬉しい……あれ、私……先輩の前で、いろいろ言っちゃってましたよね?」


 結衣はその照れ混じりの言葉に小さく頷いた。


「ありがとう。応援してもらえて、心強かったよ」


 その瞬間、芽衣は胸を押さえ、こみ上げる感情を必死に抑え込んだ。


 ――まさに「尊死」寸前。目の前にいる先輩が、芽衣にとっての自分の推しそのものだったのだから。


 井手口常務は腕を組みながら、三人のやり取りを静かに見守っていた。老練な眼差しには、どこか茶目っ気を含みつつ、深い誇らしさがにじむ。


 芽衣はまだ頬を赤らめながら結衣を見つめ、野間は深呼吸を繰り返しながら視線を合わせた。


 ――憧れの先輩であり、会長であり、女帝様。

 そのすべてが一人に重なった今、二人の胸には新たな責任感と期待が芽生え始めていた。


 その中で、野間が静かに手を上げた。同期らしい落ち着いた声音が、重い空気を切り裂く。


「常務……ひとつだけ、伺ってもよろしいでしょうか」


 井手口は深く頷き、穏やかな眼差しで応じた。


「なんだね」


 野間は一瞬、結衣を横目で見てから、少しためらいながらも言葉を続けた。


「南野さん――いえ、南野取締役のことを、常務は以前からご存じだったのですか?」


 横で芽衣も顔を上げる。小さく唇を噛んでから、正直な思いを吐き出した。


「私も……ずっと気になってしまって。まさかこんなに大きな秘密を抱えていたなんて、先輩のことを何も知らなかった気がして……」


 二人の問いには責める響きはなかった。ただ、この驚きをどうにか整理するために、答えを求めずにはいられなかったのだ。


 井手口はしばし目を閉じ、深く息を吐いた。年輪を刻んだ表情に影が落ちる。


「……察してはいたよ。少なくとも、数年前からね。本格的に気づいたのは、我が社の大株主として名前が現れたころだね」


 その一言に、野間と芽衣は同時に目を見開いた。驚愕と同時に、妙な納得が胸を突き上げる。


 井手口は静かに続けた。


「資本の動きやプロジェクトの流れを追えば、自然と気づく。だが、私はあえて口にしなかった。理由は簡単だ。南野くんは誰かに依存して立っているわけではなく、我々に敵対的というわけでもなかった。その上で自分の責任において決断してきた。ならば、その意思を尊重するのが、人生の先達としての役目だと思ったからだ」


 言葉は穏やかだったが、その芯は鋼のように強く揺るがなかった。


「それに――秘密を守ることもまた信頼だ。君たち二人に伝える時期が来たと判断したからこそ、こうして引き合わせた。……驚かせたのは謝るよ」


 そう言って肩をすくめた井手口の姿には、茶目っ気と同時に誠実さがにじんでいた。その人間味に、芽衣は胸の重石が少し軽くなるのを感じた。


「……ありがとうございます、常務」


 野間は深く頭を下げ、率直に胸中を吐き出す。


「正直、まだ心が追いついていません。でも――すべてを飲み込んで、前に進むしかないと分かりました」


 芽衣も目を潤ませながら強く頷いた。


「私もです。先輩がどんな立場でも変わりません。……だからこそ、この案件、全力で頑張りたいです」


 結衣は二人を見つめ、静かに微笑んだ。その瞳に浮かぶのは、かつての後輩や同期への信頼、そして再び仲間として並び立てる喜び。


「ありがとう。……私も、みんなと一緒に挑むのが心強い」


 その言葉は、三人の胸の奥に確かな火を灯した。


 鬼怒川案件――ただの観光地再開発ではない。ライトブルーHDの出資を受け、国と自治体をまたぐ国家規模のインフラ事業であり、最新の研究開発を伴う未来産業の基盤を左右する一大プロジェクト。重圧は計り知れない。だが、今の三人にとって恐れる理由はもはやなかった。


 野間は資料を取り上げ、表情を引き締めた。

「……では、改めて。鬼怒川案件、俺たちで必ず成功させましょう」


 芽衣も力強く頷く。


「はい! “女帝様案件”にふさわしい成果を出してみせます!」


 その無邪気な一言に、結衣は思わず笑みをこぼした。


「ふふ……その呼び方は、やっぱり芽衣ちゃんらしいね」


 三人の笑い声が、会議室に広がった。つい先ほどまで緊張と驚きに支配されていた空気は、確かな信頼と仲間の温かさへと変わっていく。


 こうして、野間と芽衣は南野結衣の正体を知った。驚きも、戸惑いも、すべて胸に抱えたまま。それでもなお、彼らは次の一歩を踏み出す準備ができていた。


 ――先輩であり、会長であり、社外取締役であり、そして女帝様。

 その真実を受け止めてもなお、「南野結衣」という存在は変わらない。


 三人の視線が交わった瞬間、鬼怒川への道は確かにひとつに繋がった。

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