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第83話 懐かしさと戸惑いの狭間で

 ――東都リアルティ本社・役員フロア。


 野間一真と平川芽衣は急ぎ足でエレベーターを降りた。

 呼び出しを受けたのはつい数分前。相手は井手口常務――会社の重鎮にして、鬼怒川案件の全体指揮を取る人物だ。


「……何だろうな、急に役員フロアに呼び出されるなんて」


 野間は低く呟きながら、緊張気味にネクタイを直した。

 彼にしては珍しく、足取りに落ち着きがない。普段は冗談交じりで場を和ませるムードメーカーだが、相手が相手だけに軽口を叩く余裕はなかった。


「ひゃー……私、もう手汗やばいです」


 芽衣はスマホを握りしめ、深呼吸を繰り返している。

 上層部の直々の呼び出しは何も心当たりがなくても自分が何か不始末をしてしまったのではないかと不安になる。鬼怒川案件の資料を見たときの胸の高鳴りが、そのまま不安へと転じていた。


 二人は顔を見合わせ、苦笑いを交わす。

 ここまで来れば、逃げ出すわけにもいかない。腹を括るしかなかった。


 応接室の扉をノックすると、中から「入りなさい」という落ち着いた声が返ってくる。そこに座っていたのは、井手口常務ただ一人だった。分厚い資料を机に置き、眼鏡越しに二人を見やる。


「よく来てくれたな」


 その声には威圧感よりも、むしろ柔らかな響きがあった。

 だが、ただの労いで終わらないことは二人にも分かっていた。


 野間が一歩前に出て頭を下げた。


「本日はお呼び立ていただき、恐縮です。私どもに何かご用件でしょうか」


その隣で芽衣も慌てて深く頭を下げ、緊張にこわばった声で言葉を添えた。


「……はい、あの、詳しいことを伺っていなかったので……」


 二人の緊張ぶりに、井手口は思わず目尻を和ませた。重役室の張りつめた空気に似合わぬ微笑を浮かべ、手を軽く振る。


「そんなに固くならなくていい。今日は叱るために呼んだわけじゃないからね」


 野間と芽衣が顔を見合わせ、きょとんとした視線を返す。井手口はその反応を楽しむように、ゆったりと椅子に身を預けた。


「むしろ、ちょっと驚かせてやろうかと思ってね。まあ座りたまえ」


 にこりと笑ったその声音には、長年の上司としての温かさと、どこか子供じみた茶目っ気が滲んでいた。


「君たちには、重要な任務を任せることになる。……その前に、会ってもらいたい人物がいる」


「……会ってもらいたい人物、ですか?」


 芽衣が小さく問い返す。

 役員が直々に紹介する人間――それが誰なのか、想像もつかなかった。まさか取引先のトップか、あるいは政府関係者か。二人の胸に不安がよぎる。


「心配はいらん。君たちにとっては、むしろ懐かしい顔だ」


 井手口は意味深に微笑んだ。

 野間の心臓が、どくんと脈打つ。彼には薄々予感があった。もしや――いや、まさか。胸の奥に押し込んでいた仮説が、現実味を帯びて迫り出してくる。


 芽衣はそんな彼の変化に気づかず、ただ戸惑いを顔に浮かべていた。

 「懐かしい顔」と言われて真っ先に思い浮かぶのは、やはり――。


「……南野先輩?」


 その名を、思わず口にしていた。

 井手口は肯定も否定もせず、ただ柔らかく頷くにとどまった。


 応接室の空気が一層張り詰める。

 芽衣の胸は高鳴り、野間は無意識に拳を握った。

 忘れようもない、かつて同じ部署で机を並べていた先輩。異動で姿を消してから、もう一年近く顔を見ていない。


「ま、待ってください。本当に、先輩が?」


 芽衣は半ば叫ぶように声を上げた。

 彼女にとって結衣は、憧れであり、身近なロールモデルだった。地味ながらも芯があり、いつも落ち着いて後輩を支えてくれた人。


 井手口はそんな二人の反応を見ても、表情を崩さない。

 ただ机の上の資料を軽く叩き、次の言葉を投げかけた。


「そろそろ来る頃だ。……準備はいいな?」


 野間は深く息を吸い、芽衣はこくりと頷いた。


 次の瞬間、会議室の扉がノックされる。

 緊張と期待がないまぜになった空気の中、静かに扉が開いた。


 入ってきたのは、落ち着いた黒髪を揺らしながら歩みを進める女性。

 かつて同じ部署で机を並べた先輩――南野結衣。その姿を認めた瞬間、時間が逆流したかのように、二人の胸に鮮やかな記憶が蘇った。


「……お久しぶりです」


 柔らかな笑みとともに放たれた声は、懐かしさと同時に、どこか別の重みを帯びていた。

 もう“ただの先輩”ではない。だが、それでも確かに彼女は、あの日と同じ南野結衣だった。


 見間違えるはずがない。かつて同じ部署で机を並べた先輩、南野結衣。

 優しくも凛とした佇まいは変わらず――しかし、その雰囲気は以前よりも格段に研ぎ澄まされ、ただそこにいるだけで室内の空気を支配するような圧があった。


 芽衣の心臓は跳ね上がり、声にならない声が喉奥で絡まった。

 野間もまた、内心の動揺を必死に押し殺す。同期として近しい距離感で過ごしてきたはずの相手が、どうしてここに。しかも役員会議室に、常務と肩を並べて立っている。

 理解はできる。けれど意味が分からない。


「まずは、ご紹介しよう」


 井手口常務が立ち上がり、二人に視線を向けた。

 その声音は落ち着いていたが、どこか含みを持たせている。


「ライトブルーホールディングス会長であり、我が社――東都リアルティの社外取締役でもある、南野結衣さんだ」


 言葉は簡潔だった。だがその一言が、二人の頭を鈍器で殴ったかのような衝撃を与える。


 芽衣は目を丸くし、瞬きを忘れて結衣を凝視した。


 「……えっ?」


 口から洩れた声は情けなく裏返る。

 南野先輩が――会長? 社外取締役? 何を言っているのか理解はできるのに、頭が現実として受け入れない。


 野間もまた眉間に皺を寄せ、無意識に拳を握った。

 まさか、とは思っていた。社内でも囁かれていた「資産家のお嬢様説」「女帝様の正体は社内の誰か説」。どれも噂に過ぎないと笑い飛ばしてきた。だが今、目の前にある事実は――そのすべてを裏付けていた。


「それ以上の紹介は……必要かな?」


 井手口が冗談めかして問いかける。

 その声音には茶目っ気と同時に、二人を安心させようとする温かさも混じっていた。


 だが、野間も芽衣も言葉を返せなかった。

 口を開けば、うろたえや動揺がすべて露見してしまう。どうにか理性で自分をつなぎ止めるしかない。


 結衣は、二人の沈黙を静かに受け止めていた。

 まっすぐに見つめ返すその瞳は、以前と同じ誠実さを湛えつつも、今は企業の未来を背負う者の覚悟が宿っている。


「……ご無沙汰しています。野間くん、平川さん」


 落ち着いた声。懐かしさと同時に、別人のような距離も感じさせる声。

 芽衣は思わず背筋を伸ばし、慌てて頭を下げた。


「せ、先輩……いえ、あの……社外取締役……?」


 混乱のあまり芽衣の言葉がもつれる。


 野間はそんな彼女の横で、なんとか気持ちを立て直した。

 心の奥では同期として声をかけたい衝動が渦巻いている。だが井手口常務の前でそれを露わにするわけにはいかない。

 公私の区別は、守らねばならない。


「……お久しぶりです、南野取締役」


 努めて冷静に、形式に則った言葉を選んだ。

 だが声の奥に滲む熱は、隠しきれなかった。


 結衣はその呼びかけに微笑を返す。

 芽衣の戸惑いも、野間の葛藤も、すべて見透かした上で受け止めるような柔らかさだった。


 ――けれど芽衣は気づいてしまう。

 その微笑みの奥に、ほんのかすかな怯えが潜んでいることに。

 懐かしい再会を喜びながらも、「私達にどう受け止められるのか」を恐れている……そんな影が、先輩の瞳にちらついて見えたのだ。


(……先輩も、怖いんだ)


 胸がじんと熱くなる。先輩もまた、同じ人間として不安を抱えている。そのことに気づいた瞬間、芽衣の中に「支えたい」という思いが芽生えた。


 会議室の空気は静まり返っている。だが三人の胸中には、それぞれ別の嵐が渦巻いていた。 


 芽衣は深く息を吸い、姿勢を正して口を開いた。


「……あの、南野先輩――いえ、本来なら取締役とお呼びすべきなのかもしれませんが」


 一瞬言葉を探し、けれど自然と笑みがこぼれる。


「やっぱり、私にとっては“先輩”なんです。お会いできて、本当に嬉しいです」


 その言葉は無礼ではない。だが、堅苦しい場の空気を一瞬やわらげる力を持っていた。野間は横で冷や汗をかいたが、結衣の表情がふっと和らぐのを見て、芽衣の直感の確かさを悟る。


「ありがとう、芽衣ちゃん」



今回も最後までお読みいただきありがとうございました!

本章はここで終了となります。

結衣が同僚に秘密を明かす場面をずっと書きたかったのですが

紆余曲折あって、ここまでかかってしまいました。


もし少しでも「面白かった!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、

☆や応援、そして感想をいただけると大きな励みになります。

どうぞこれからも見守っていただければ嬉しいです!

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