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第82話 女帝様である前に、南野結衣として

――東都リアルティ本社、夕刻。


 鬼怒川案件の承認を経営戦略会議で勝ち取った後も、結衣の胸は落ち着かなかった。会議室に残ったのは、彼女と井手口常務の二人だけだった。 窓越しに暮れゆく丸の内のビル群を眺めながら、結衣は一呼吸置いて口を開いた。


「……常務。ひとつお願いがございます」


 結衣は両手を膝の上で握り、声を落とした。

 その声音は静かだが、どこか緊張を含んでいる。

 井手口は目を細め、相手の言葉を待つ。


「鬼怒川プロジェクトの現場担当に……野間くんと、平川さんをお願いできないでしょうか」


 その名を口にした瞬間、胸の奥がざわめいた。野間と芽衣の名前を口にした瞬間、胸の奥が少し疼いた。二人とは部署の異動で離れてしまい、近況は断片的にしか耳にしていない。慕ってくれた後輩と、肩を並べてきた同期。再会を望む気持ちは確かにあるのに、同時に怖さもあった。変わってしまった自分を、彼らはどう見るだろうか――。


「……あの二人と離れてしまったことを、ずっと残念に思ってきました。もしまた一緒に働けるなら、それ以上に心強いことはありません」


 結衣のわずかな震えを察したのか、井手口は柔らかく笑んだ。


「南野くん。心配はいらん。あの二人は優秀だし、何より君を信じている。むしろ君の下で働けると知れば、喜ぶだろう」


 その言葉に、張りつめていた肩がふっと和らぐ。


***


――鬼怒川プロジェクト会議室。


 十数名の社員が揃った場に、井手口常務が直々に姿を現した。役員の登場に、会議室の空気が一変する。


「これより、鬼怒川再開発案件の布陣を伝える」


 その低く響く声に、会議室の温度が一段下がったように感じられた。鬼怒川再開発――それは単なる一企業の事業ではない。ライトブルーHDの出資を基盤とし、国の補助や複数の自治体をまたいで推進される国家規模の大型案件である。関わるすべての人間が、その重さを理解していた。


 井手口は姿勢を正し、一人ひとりを見渡す。その眼差しは温厚さを湛えながらも、真剣さに満ちていた。


「現場の実務担当は――野間一真、そして平川芽衣。二人を考えている」


 一瞬の沈黙。続いて、野間が驚いたように目を見開き、芽衣は「えっ」と小さく声を漏らした。


「え、私たちが……?」

「ほんとに……?」


 互いに顔を見合わせる二人の表情には戸惑いが滲む。だが次の瞬間、野間の口元に緊張をほぐすような笑みが浮かび、芽衣もこぼれるように頷いた。目の奥には、任された誇りと責任感が灯っている。


 井手口は二人の反応を静かに受け止め、さらに言葉を続ける。


「他にも、財務・契約管理の担当、広報・地域折衝の担当、さらに建築・技術班からそれぞれ責任者を選出する。各自、後ほど具体的な任務を伝える」


 名を呼ばれた数名が軽く頭を下げる。重責を担うことを理解し、表情を引き締める。


 井手口は一拍置き、場の空気をさらに引き締めるように声を低くした。


「今回の案件は会社の未来を左右する一大事業だ。ゆえに――この場にいる全員に告げておく。社内での最終的な指揮は、私が執る」


 強い宣言に、場の誰もが背筋を伸ばした。

 責任の所在が明確にされた瞬間、会議室の空気は一層張り詰めた。


「以上だ。各々、準備を整えて欲しい」


 その言葉を締めくくる井手口の声音には、揺るぎない決意と、この場に集った仲間への信頼が込められていた。


***


 東都リアルティ営業企画部のフロアに戻った野間と芽衣は、早速プロジェクト用の仮設デスクに資料を広げていた。役員から直々に命を受けた鬼怒川案件。部署内でも特別な案件扱いで、二人の机の上には早くも他部門から送られてきた資料や依頼が積み上がり始めている。


「いやぁ……すごいね芽衣ちゃん。まさか俺たちにこんな大役が来るとは」


 野間はため息交じりに笑い、資料を手に取る。

 芽衣はすでにスマホとPCを同時に操作しながら、関係先のリストを作っていた。


「ほんとですよ! だって“女帝様案件”なんですよ? ネットでもざわついてるの、見ましたよ! 私、この案件担当できるなんて夢みたいです」


「おいおい、浮かれるのはまだ早いぞ」


 野間は軽く苦笑しながらも、芽衣の高揚感を咎めるつもりはなかった。彼女はこうしてまっすぐ走り出せるのが強みだと分かっていたからだ。


 机上の図面に目を落とすと、そこには地熱発電施設の概略図があった。だが野間はすぐに眉をひそめる。


「……ちょっと。これ、普通の地熱発電じゃないな」


 低い声に、芽衣が驚いたように顔を上げる。


「え? どういうことですか?」


 野間はペン先で図面の数値を示しながら言葉を続けた。


「見ろよ、この温度域。通常の地熱だとこの規模で安定させるのは難しい。……どう

考えても、低温域で回してるだろ」


 彼の視線は真剣そのものだった。指で示されたグラフには、高温部から低温部へと滑らかに落ちていくライン。だが、その下に細かく刻まれた“サブシステム”の記号がある。


「つまり、この部分は普通の水を使った蒸気タービンじゃなくて……低温揮発性の溶媒を使ってるはずだ。カスケード型だな。複数段階で熱を拾う方式。このコンパクトなサイズはもしかしたら実験機かもしれん」


「カスケード型……って、熱を段階的に利用していくやつですよね?」


 芽衣は必死に思い出すように首を傾げ、慌ててノートにメモを走らせた。学生時代に講義で耳にしただけの単語が、ここで現実味を帯びて迫ってくる。


「そうだ。高温の熱源だけじゃなく、低温側まで余さず拾う。理論上は効率が大きく跳ね上がる。だが、その分システムは複雑で制御が難しい。……小型化はまだ研究段階だと聞いていたが」


 芽衣は思わず目を輝かせた。


「じゃあ、私たちが扱うのって――最新の実験機ってことですか?」


「可能性は高いな」


 野間は腕を組み、深く息を吐いた。


「……とすると、単なる観光地の再開発じゃ済まないぞ。これはエネルギー案件だ。しかも国際的な研究プロジェクトに直結する規模だ。国も自治体を巻き込んでいるのはこれのせいか?」


 芽衣は緊張と興奮で身震いしながら、もう一度画面を見つめた。


「すごい……! “女帝様案件”って、ほんとに普通じゃないんですね」


 二人の胸中に広がる高揚感と責任感。その向こうに、「女帝様」の影がちらついていた。


***


――東都リアルティ本社、役員室。


 井手口常務は、先ほどまで野間と芽衣から受け取った報告資料に目を通し、深く息を吐いた。ページをめくるたびに、若手二人がただの熱意だけではなく、確かな実力を備えていることが浮かび上がってくる。数字の裏付け、設計の読み込み、危険性と可能性を併記する冷静さ。そこには、彼らなりの責任感と覚悟が宿っていた。


(……やはり、南野くんの目は確かだな)


 井手口は静かに頷き、机上の電話に手を伸ばした。受話器を取る仕草はいつも通り落ち着いていたが、その目には決意の色が宿っている。


「――南野くん。今、大丈夫かな」


 電話口から聞こえたのは、いつもの控えめで柔らかな声だった。


「はい、常務。どうされましたか」


 わずかに緊張を孕んだ響き。彼女が表に出さないよう努めても、井手口にはその揺れが伝わった。


「野間くんと平川さん、二人の力量を確認したよ。非常に優秀だ。……そこで提案だが、君に会わせたいと思う」


 一瞬の沈黙。受話器越しに、結衣がわずかに息を呑んだ気配があった。


「……私に、ですか」


「そうだ。彼らにとっても君にとっても、避けては通れない道だろう。プロジェクトが本格的に走り始める前に、一度しっかり顔を合わせておくべきだ」


 窓の外を見やりながら、井手口は言葉を選んだ。軽々しい誘いではない。むしろ、結衣自身に覚悟を問う響きがその声に込められていた。


「日取りは、三日後の午後に設定しようと思う。……どうだね」


 返答までは、数秒の間があった。電話口の向こうで、結衣が目を閉じ、自分の胸と向き合っている姿が目に浮かぶ。


「……承知いたしました」


 震えを押し殺すような、しかしはっきりとした声だった。


「ありがとうございます。……私も、二人に会うべきだと感じていました」


 井手口はその言葉に満足げに頷き、静かに受話器を置いた。


――その夜、結衣自宅のリビングにて


 結衣は灯りを落とした部屋で、ただひとり窓辺に立っていた。夜景の光がきらめき、遠くで走る車のテールランプが赤い線となって流れていく。

 心臓の鼓動が速い。あの二人――慕ってくれた後輩と、肩を並べた同期。


 もう以前の「ただの同僚」ではいられない自分を、受け止めてもらえるだろうか。


 胸の奥で不安と期待がせめぎ合う。だが、そのどちらにも負けない思いがひとつだけあった。


(――もう隠れてはいられない。私の選んだ道だから)


 唇を結び、結衣は静かに目を開いた。

 “女帝様”としての仮面をかぶる前に、南野結衣として向き合わなければならない瞬間が来たのだ。


 覚悟は、もう決まっていた。

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