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第116話 最後のピースが、はまった

 最初に騒ぎ始めたのは、政治部ではなかった。


 経済紙の片隅。

 それも、官庁担当ではなく、ベンチャーと金融を追っている記者の、短いコラムだった。


「政権中枢で、“民間出身の若手女性”を特命ポストに起用する案が検討されているという。

対象は、大学基金運用と研究資金の国際流動化で異例の実績を上げた人物だ」


 名前はまだ出ていない。

 年齢も、肩書きも、ぼかされている。


 だが、分かる人には分かった。


 その日のうちに、X(旧Twitter)の一部界隈がざわつき始める。


《いや、さすがに政治は違うでしょ》

《……この話、大学界隈だと割と前から出てたよ》

《冗談扱いされてたけど、筋は通ってる》

《民間成功例を利用したいだけでは?》


 翌朝、テレビのワイドショーが拾った。


「次の選挙を見据えた“話題作り”ではないか、という見方もありますね」


 コメンテーターは笑いながら言う。


「若い女性で民間出身。

 イメージはいいですから」


 その瞬間、ネットが爆発した。


《若い女性って誰だよ》

《まさか……女帝様?》

《VTuberの中の人が大臣???》


 半分は冗談。

 半分は悪ノリ。


 だが、その中に、妙に冷静な書き込みが混じる。


《女帝様の運用実績、ちゃんと見たことある?》

《数字だけ見たら、そこらの大臣より“国家経営”やってる》

《これ、日本版イー◯ン・マスクじゃね?》


 火がついた。


     *


 週刊誌が動くのは早かった。


「【スクープ】VTuber実業家、政権中枢入りか」


 煽り文句は派手だ。

 写真は、過去の配信切り抜きと、企業IR資料。


 ギャップが、あまりにも極端だった。


「普段はアバター。

 しかし裏では、大学財務・研究資金・国際連携を束ねる女帝」


 記事は、半分正しく、半分間違っている。

 だが、面白さとしては十分だった。


 ネットは完全に祭り状態になる。


《イロモノ人事だろ》

《いや、イロモノであれできるなら天才》

《普通に登庁するVTuber想像したら草》

《スーツで官庁入る女帝様、見たい》


 炎上と期待が、奇妙に混ざり合う中で

 官邸周辺は、逆に静かだった。


 誰も否定しない。

 誰も肯定しない。


 否定すれば、注目を集める。

 肯定すれば、確定だと騒がれる。


 だから、黙る。


 その沈黙が、噂を事実に近づけていった。


 そして、決定的な一枚が出回る。


 平日の朝。

 霞が関。


 スマートフォンで撮られた、ややブレた写真。


 若い女性が、スーツ姿で官庁の入口を通る。

 隣には、明らかに“それ”と分かるSP。

 彼女は、一度も立ち止まらなかった。


 顔ははっきりしない。

 だが、背筋と歩き方が、やけに落ち着いている。


《これ、南野結衣じゃね?》

《VTuberの中の人、普通に登庁してる……》

《もう訳分からん》


 だが、その写真を見て、

 冗談を言っていた層が、一気に黙る。


 ――もしかしたら本当かもしれない。



 夕方のニュース番組。


「一部で噂されている人事について、

 政府関係者は『検討中の案件があることは否定しない』としています」


 否定していない。

 それだけで、十分だった。


 経済評論家が、画面の中で言う。


「もし事実なら、相当異例です。ですが……」


 一拍置く。


「実績だけ見れば、これほど“国家運営に近い民間人”はいません」


 別のコメンテーターが、苦笑する。


「イロモノかと思ったら、数字がガチすぎるんですよね」


 ネットの空気が、少し変わる。


《ネタ枠じゃないな》

《これ、下手な政治家より信用できる》


 VTuber。

 若い女性。


 どちらも、本来は政治家と噛み合わない属性だ。


 だが、それを全部ひっくり返すほど、

 南野結衣の“履歴書”は異常だった。


 誰もが、気づき始めている。


 これは、話題作りでも賭けでもない。

 本気の人事だ。


 そして何より――


 この国は、もう普通の選択肢を選べる段階をとうに過ぎているのだと。


***


 騒ぎは、結衣の生活を壊すほどではなかった。


 むしろ、妙に遠いところで燃えている、という感覚に近い。

 テレビをつければ名前が出る。ネットを開けば話題になっている。だが、彼女自身の周囲は、驚くほど静かだった。


 南野結衣は、その朝もいつも通りに起き、淡々と身支度を整えた。

 鏡の前に立つ若い女性の姿は、噂の中心にいる人物とは思えないほど普通だった。


 肩までの髪。

 派手ではないが、整った顔立ち。

 年齢を聞かれれば、ほとんどの人が「二十代前半」と答えるだろう。


 それが、ライトブルーHDの創業者会長。

 時価総額十兆円規模の企業を築き、大学財務と研究資金の流れを塗り替えた張本人だと、誰が信じるだろうか。


 結衣自身も、時々思う――いまだに、実感が薄い。


 世間が変わったのは、数字が“翻訳”された瞬間だった。


 これまでも、彼女の業績は知られていた。

 だが、それは限られた世界の話だった。


 VTuber文化に親しむネットユーザー。


 学術界。

 経済界。


 それぞれの文脈で、「女帝様」は語られていたが、全国民に通じる言葉ではなかった。


 ところが、ある朝のニュース番組が、それをやってしまった。


「こちらをご覧ください」


 画面に映し出されたのは、シンプルなグラフだった。


「ライトブルーHDの時価総額は、現在およそ十兆円。これは――」


 一拍置いて、キャスターが続ける。


「日本を代表する大企業と、同じ規模です」


 その瞬間、空気が変わった。

 専門的な説明は要らない。


 十兆円。


「さらに、大学基金の運用改善によって、国費の将来的な支出抑制効果が――」


 そこから先の言葉は、もう半分しか聞かれていなかった。


 視聴者の頭の中で、単純な翻訳が起きている。


 ――この若い女性は、

 ――“国レベルの金”を動かすヤバい奴だ。


 SNSの空気も、一段階変わった。


《え、10兆円企業?》

《創業者会長ってマジ?》

《VTuberとか以前に、普通に化け物じゃん》


 イロモノ扱いは、急速に消えていった。


     *


 真壁は、その流れを冷静に見ていた。


 複数のモニターに映るのは、ニュース、SNS、海外メディアの翻訳。

 感情の波が、数字として可視化されている。


「……来たな」


 彼は小さく呟く。


 これまでの結衣は、「分かる人だけが分かっている存在」だった。

 だが今、違う。


 一般国民が、“自分の感覚で理解できる実績”として、彼女を認識し始めた。

 そして、その不可逆点は、唐突に訪れた。


 平日の昼。


 週刊誌の電子版が、一本の記事を投下する。

 煽り文句は控えめだった。


「特命ポスト候補・南野結衣氏のその素顔」


 記事を開いた人間の多くが、最初に感じたのは、驚きだった。


 写真に写っていたのは、

 想像よりもずっと若く、

 想像よりもずっと現実的な女性だった。


 作り込まれた美しさではない。

 芸能人のそれとも違う。


 清潔感があり、柔らかい表情で、

 どこにでもいそうなのに、なぜか目を引く。


 ネットは、数秒で沸騰した。


《え……?》

《待って、これ本物?》

《この顔、見たことある気がする》


 そして、ある書き込みが、流れを決定づける。


《これ、昔“女帝様顔バレ候補”で出回ってた写真じゃん》

《可愛すぎて、逆に“これはない”って言われてたやつ》


 記憶が、繋がった。


《え、これが本物だったの!?》

《冗談だと思ってた……》

《マジでこの人だったのか……》


 ファンが、一斉にひっくり返る。


 長年、仮面の向こうに想像していた存在。

 それが、現実の顔を持って現れた瞬間だった。


 結衣は、そのことを、少し遅れて知った。


 スマートフォンを手にしたまま、しばらく動かなかった。

 指先が、スマートフォンの縁を無意識に強く押していた。

 自分の写真が、画面の中にある。


 思っていたより、普通だ。

 思っていたより、騒がれている。


「……そんなに、意外?」


 小さく呟く。

 だが、胸の奥で、確かに何かが変わったのを感じていた。


 もう、戻れない。


 VTuberの中の人。

 匿名の経営者。

 そういう立場には。


 真壁は、画面越しにその反応を見ていた。


「こういうケースで顔で叩かれないのは、珍しいな」


 それが、正直な感想だった。


 むしろ、

 「若すぎる」

 「可愛すぎる」

 という驚きが、警戒を上書きしている。


 真壁は、思わず笑ってしまった。


 積み上げてきた数字と実績。

 そして、顔。


 最後のピースが――はまってしまった。


 南野結衣は、もう“候補”ではない。

 日本中が、その名前を知った日。


 一人のVTuberが

 とんでもない実績と数字を背負って、

 国の中枢に足を踏み入れた。


 それは、祝祭の始まりを予感させる出来事だった。


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