第117話 変わってしまった世界で、いつも通り
配信開始のカウントダウンは、いつもより少しだけ軽かった。
南野結衣――いや、配信画面の中の“女帝様”は、いつも通りの位置に座っている。
背景も、マイクも、音量も、完璧に整っていた。
違うのは、もう“何も隠す必要がない”という一点だけだ。
「はい、というわけでー。今日はコラボです」
女帝様の声は落ち着いている。
だが、その裏で、彼女自身が感じている空気の変化を、リスナーはまだ知らない。
「まずは、みやびちゃんとノアちゃん」
『はーい』
『こんばんはー』
画面に二人のアバターが並ぶ。
その距離感は、もはや説明不要だった。
この二人は、以前から結衣の“素顔”を知っている。
生活の距離感まで含めて、だ。
だからこそ、今日の空気は、少しだけ不思議だった。
「で、今日はもう一人います」
女帝様がそう言うと、少し遅れて声が入る。
『どうもー。レオンです』
異性VTuberのレオン。
これまで何度も共演はしてきたが、今日は少しだけ間の取り方が違った。
『いやー……こうやって普通に呼ばれてるけどさ』
レオンは苦笑混じりに続ける。
『女帝様が顔バレしたあとに呼ばれると、なんか変な感じするな』
コメント欄が一斉に流れる。
《草》
《レオン緊張してる》
《今日の立ち位置w》
みやびが、すかさず突っ込む。
『今さらでしょ。何回もコラボしてるじゃん』
『いや、そうなんだけどさ……』
レオンは一拍置いてから、ぽつりと言った。
『そういえばさ。お前ら、普通に女帝様……結衣さんの家行ったりしてるよな』
一瞬、間が空いた。
ノアが、あっさり答える。
『うん、よく行くよ。たまに泊めてもらったりしてるし』
さらっとした言い方だった。
だが、レオンの反応は分かりやすかった。
『……今だから言うけどさ』
少し声を落とす。
『それ、めちゃくちゃレアじゃない?』
コメント欄がざわつく。
《たしかに》
《女帝様の家…》
《レオン今気づいた?》
みやびが笑いながら言う。
『今さら何言ってんの』
『だってさ!』
レオンは、少し慌てて続ける。
『ニュースで見ちゃったあとだとさ、
「あ、俺ら、何してたんだろ」ってなるじゃん』
その言葉に、ノアが少しだけ黙った。
『……分かる』
みやびも、軽く頷く。
『正直さ。客観的に見たら、結衣ちゃん、
ほんとにとんでもない人なんだよね』
冗談めかした言い方だった。
だが、声のトーンは、いつもより少し低い。
結衣は、そのやり取りを聞きながら、内心で小さく息を吐いた。
この反応は、想定していた。
そして、少しだけ怖れてもいた。
数字。
肩書き。
それらを通して見た“南野結衣”は、
彼女たちが知っている結衣とは、別の存在に見えているはずだ。
『私たち……大丈夫なの?』
みやびが、半分冗談、半分本気で言った。
『変なこと言ってなかった?昔の配信とか、掘られたらやばくない?』
コメントが流れる。
《今さらw》
《もう手遅れ》
《だがそれがいい》
ノアが、少し考えてから言う。
『でもさ』
声は穏やかだった。
『ニュース見て思ったけど、
結衣って……あのまんまだよね?』
『うん』
みやびが頷く。
『すごいことやってるのは事実だけど、
家でダラダラしてる結衣も、本物なんだよね』
レオンが、そこで口を挟む。
『それはそうと……家、そんなにすごい?すごい気になるんだけど』
一瞬、沈黙。
そして、みやびが笑った。
『すごいよ』
『うん』
ノアも即答する。
『普通に、想像の三倍くらいだと思う』
『……やっぱり!?』
レオンの声が裏返る。
『タワマンって話には聞いてたけどさ、
ニュース見たあとだと、
「そりゃそうだよな」ってなるやつじゃん!』
結衣は、思わず苦笑した。
『あのね』
女帝様が口を開く。
『隠すことが多いからね。セキュリティが面倒なだけだよ?』
コメント欄が爆笑する。
《それがもうすごい》
《感覚バグってる》
《女帝様通常運転》
それでも、空気は以前とは違っていた。
みやびも、ノアも、レオンも、
もう一度、結衣を見直している。
友達として。
同業者として。
そして、ニュースで見た“現実”を知った上で。
『でもさ』
レオンが、少し真面目な声で言った。
『こうやって普通にコラボしてくれるの、正直ありがたいよ』
その言葉に、結衣は少しだけ間を置いて答える。
『私もかな』
短い一言だった。
『ここに来ると余計な肩書き、全部いらないからね』
それは、彼女の本音だった。
配信が終わる頃、コメント欄には、
いつもより穏やかな空気が流れていた。
《なんか安心した》
《女帝様は女帝様だった》
《友達の距離感いい》
そうした中で──
コメント欄の流れの中に、妙に整った一文が混じる。
《関係者です。本日はありがとうございました》
一瞬、流れが止まった。
誰も、すぐには反応しない。
『……今の、見た?』
レオンが、半分冗談のトーンで言う。
だが、声の奥にわずかな緊張が混じっていた。
みやびも、ノアも、黙っている。
コメント欄はすでに流れてしまっているが、確かに“そこ”にあった。
『本物じゃないよね?』
ノアが、慎重に言った。
結衣は視線を落とした。
配信画面の端で、あやかの通知が点滅していた。
そして――
『……あやか?』
女帝様が、何気ない調子で呼びかける。
『はい』
いつもの声が、すぐに返ってくる。
『先ほどのコメントですが、
発信元・文体・時間帯のいずれも、
実在の関係者によるものと判断して問題ありません』
空気が、確実に変わった。
『え』
『マジ?』
みやびとレオンが、同時に声を上げる。
『え、ちょっと待って』
『それ……配信に来るんだ』
ノアが、思わず苦笑した。
『ほんとに、もう隠してないんだね』
結衣は、少しだけ肩をすくめる。
『まぁ、確かに何も問題ないしね』
それだけだった。
大げさな否定も、取り繕いもない。
ただ、事実として受け取っている。
コメント欄が、またざわつき始める。
《今の何》
《あやか判定こわ》
《関係者認証は草》
女帝様は、いつものトーンで続けた。
『えーと、配信は配信なので。
難しい話は今日はしません』
少しだけ、間を置く。
『いつも通り、です』
その一言で、空気が戻った。
みやびが、わざとらしく大きく息を吐く。
『はいはい、通常運転ね』
『心臓に悪いんだけど』
レオンが笑う。
『これ、あとで絶対ニュースになるやつじゃん』
『ならないならない』
結衣は即答した。
『ここ、切り取るとこじゃないから』
コメント欄が、また笑いで流れていく。
《女帝様強すぎ》
《日常に戻すのうまい》
《でも今の一瞬で全部分かった》
配信は、そのまま穏やかに進んだ。
雑談。
近況。
いつもと変わらないテンポ。
配信終了の効果音が鳴り、画面が暗転する。
それでも、通話は切れていなかった。
四人分のアイコンが、そのまま残っている。
『……ふう』
最初に息を吐いたのは、みやびだった。
『……正直さ』
少しためらうように間隔があく。
『ちょっと、怖かった』
みやびの声は少し低く、冗談めかしていない。
レオンが反応する。
『どの辺が?』
みやびは、すぐには答えなかった。
少し考えてから、言葉を選ぶ。
『レオンも言ってたけどニュースとか、
あれ見たあとだと……』
画面の向こうで、肩をすくめる気配。
『「あ、結衣ちゃん、もう別の世界の人なんだな」って
一瞬だけ思っちゃったんだよね』
沈黙。
ノアが、小さく頷く。
『分かる』
『嫌とかじゃないよ?』
みやびは、慌てて付け足す。
『すごいのも分かってるし、誇らしいよ』
それでも、と続ける。
『でもさ。急に遠くに行っちゃいそうで』
結衣は、すぐには返さなかった。
少しだけ視線を落とし、
それから、いつもより柔らかい声で言う。
『言ってくれて、ありがとう』
短い沈黙のあと、続ける。
『私も、ちょっと怖かったから』
『……え』
『だから、今日はコラボ頼んだってのもあるよ』
それだけだった。
大げさな約束も、慰めもない。
だが、みやびは小さく笑った。
『そっか』
『じゃあ、まだ大丈夫だね』
ノアも、穏やかに言う。
『うん。結衣は結衣だよ』
通話は、そこで終わった。
こうして笑い合える場所がある。
それだけで、今は十分だった。
次に来るものが何であれ、
彼女は、ちゃんと自分の居場所を持っている。
VTuberとしても。
南野結衣としても。
***
レオンは、通話を終了してからもしばらく電気をつけなかった。
ソファに腰を下ろし、スマートフォンを取り出す。
表示されるのは、さっきまで一緒にいた配信の切り抜きと、
その横に並ぶニュース記事。
「特命ポスト候補」
「異例の人事」
「国家級の影響力」
同じ名前が、何度も出てくる。
『……マジかよ』
思わず、独り言が漏れた。
自分は、たった今まで彼女と何をしていた?
コラボして、
雑談して、
家の話をして、
コメント欄で笑って。
それだけだ。
だが、世界はもう、
その相手を別の目線で扱っている。
レオンは、スマートフォンを伏せた。
正直、少しだけ思った。
――同じ場所に立ってるつもりでいたのは、
――俺だけだったんじゃないか、と。
けれど。
配信中の声を、思い出す。
『セキュリティが面倒なだけだよ?』
あの、いつもの調子。
肩書きも、ニュースも関係ない声。
『……ああ』
レオンは、息を吐いた。
違う場所に行ったのは、事実だ。
それでも。
今日、一緒に笑っていたのも、確かだ。
それだけで、今は十分だと思えた。
次に呼ばれるとき、彼女の立ち位置がどう変わっていようと。
少なくとも、今日の配信は――
嘘じゃなかった。




