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第113話 戻ってこられる場所

 たまには、オフもある。


 それを南野結衣が実感できるようになったのは、ほんの最近のことだった。


 以前は、オフと呼べる時間があっても、意識のどこかがずっと仕事のままだった。

 スマホが震えたらどうしよう。

 連絡が来たら、すぐ動けるだろうか。

 自分が止まった瞬間に、何かが崩れるのではないか。


 そんな緊張が、常に背中に貼り付いていた。


 今日は違う。


 夕方、タワーマンションのエントランスを抜け、高層階へ向かうエレベーターに乗る。

 ガラス張りの壁越しに、街の灯りがゆっくりと沈んでいくのを、結衣は黙って眺めていた。


 胸の奥が、妙に静かだった。


「……静か」


 思わず漏れた独り言に、自分で少し驚く。


 部屋に入ると、空調の低い音だけが耳に残る。

 ジャケットを脱ぎ、バッグを床に置き、ソファに腰を下ろす。


 ソファに座り、結衣はスマホを手に取る。

 一瞬だけ、画面を見つめてから、

 音量を落とし、裏返してテーブルに置いた。


 それだけの動作なのに、

 胸の奥で、小さく何かがほどけた気がした。

 それだけで、肩の奥に溜まっていた力が、ふっと抜けた。


「今日は……ちゃんと休もう」


 誰に聞かせるでもなく、そう言った。


 テーブルの上には、飲みかけのミネラルウォーターと、読みかけの本。

 どちらも途中で止まっている。


 以前なら、「中途半端だ」と感じていた。

 今は、そうは思わない。


 スマホが震えた。


《今から行っていい?》


 送り主は、みやび。


《ノアも一緒だけど》


 画面を見た瞬間、結衣は無意識に口元を緩めていた。


《どうぞ。今日は完全オフ》

《やったー!》


 返事を打ちながら、ふと指が止まる。


 ――“オフ”。


 それを、言い訳ではなく、事実として言えるようになった。

 そのこと自体が、少しだけ不思議だった。


 スマホを置き、結衣は立ち上がった。

 ふと、キッチンに向かう。


 来客といっても、気心の知れた二人だ。

 それでも、以前の自分なら――

 何か用意していないことが、落ち着かなかったはずだった。


 冷蔵庫を開ける。


 中には、ミネラルウォーターと簡単な常備菜。

 あとは、賞味期限を気にしながら買ったままのチョコレートが一つ。


「……何もないな」


 思わず、独り言が漏れる。


 昔なら、ここで慌てていた。

 連絡を入れて、コンビニに走って、

 “ちゃんとしている自分”を取り繕おうとしていた。


 結衣は、冷蔵庫の扉をそのまま閉めた。


 少しだけ、間があった。

 それから、肩をすくめる。


「……いいか」


 その言葉は、投げやりでも、諦めでもなかった。

 むしろ、不思議なほど自然だった。


 足りないなら、足りないでいい。

 完璧じゃなくても、問題は起きない。

 そう思える自分が、そこにいた。


 テーブルの上に、カップだけを並べる。

 それで十分だと、迷わずに思えた。


 ――その時、インターホンが鳴った。


 数十分後、インターホンが鳴る。


 ドアを開けると、見慣れた顔が並んでいる。


「お邪魔しまーす!」


 みやびはいつもの調子で、靴を脱ぎながら部屋に入った。


「相変わらずすごいところ住んでるよね……」


 ノアは少しだけ緊張した様子で、周囲を見回す。


「慣れた?」


 結衣が聞くと、ノアは小さく笑った。


「うん。最初よりは」


 その「最初」という言葉に、結衣の胸がわずかに揺れる。


 この部屋に人を呼ぶこと自体、昔は躊躇があった。

 見せてはいけない場所のように思えていたからだ。


 けれど今は、違う。


「お茶でいい?」

「全然!」


 キッチンでお湯を沸かしながら、結衣は二人の声を背に聞く。


「ねえ、最近の女帝様どう?」


 みやびが冗談めかして言う。

 結衣は、思わず吹き出しそうになる。


「その呼び方、やめて」


「えー? でも配信外だと逆に違和感あるよ?」


 ノアが、少し考えるようにしてから続けた。


「最初は、完全に別の存在って感じだったけど……

 最近は、結衣と女帝様の境目、だいぶ薄くなった気がする」


 結衣は、カップを持つ手を止めた。


「……そう、かな」


 自分では、はっきり分からない。

 ただ、以前ほど“演じている”感覚がないのは確かだった。


 女帝様という仮面は、外せない。

 同時に、自分の一部にもなってしまった。


 それを、無理に引き剥がそうとしなくなっただけだ。


「最初はさ」


 みやびがソファに寝転びながら言った。クッションを抱え、天井を見上げたままの声だった。


「正直、怖かったよ。

 どこまで本当なんだろうって」


 その言葉は、責める響きをまったく含んでいなかった。

 ただ、過去を振り返るような軽さがあった。


「……うん」


 結衣は短く頷く。


「あの頃はさ。“女帝様”って名前のほうが先に来てて。

 結衣本人が、どこにいるのか分からなかった」


 みやびは体を起こし、今度は結衣のほうを見る。


「でも今はさ」


 少しだけ、笑って続けた。


「あ、これ“女帝様”じゃなくて、“結衣”なんだな、って分かる」


 その言葉は、あまりにも自然だった。

 軽くて、飾り気がなくて。


 だが、結衣の胸には、しっかりと届いた。


 ――ああ、ちゃんと見られていたんだ。


 演じている部分だけでもなく、

 成果でも、肩書きでもなく。


「秘密を知ってる人が増えたからかも」


 結衣は、ぽつりとそう言った。


「前は……誰にも言えなかったんだよね。

 言ったら、壊れる気がしてたし」


 言葉にしてみると、当時の感覚が少しだけ蘇る。

 全部を抱え込んで、誰にも触れさせないようにしていた頃。


 ノアが、静かに頷いた。


「うん。壊れそうなものほど、人に見せられないよね」


「今は?」


 ノアは、急かさずに聞いた。


「今は……」


 結衣は一瞬だけ、言葉を探した。


「言っても、壊れないって分かったかもしれない」


 それは、希望というより、確信に近かった。


 秘密が減ったわけではない。

 むしろ、背負っているものは確実に増えている。


 けれど、それを分け合える相手がいるだけで、

 世界の見え方は、驚くほど変わる。


 そこへ、再びインターホンが鳴った。


「芽衣だ」


 結衣は立ち上がる。


 ドアの向こうに立っていた芽衣は、両手に紙袋を抱えていた。

 少しだけ息を切らしている。


「こんばんは。急に誘われたって聞いて……差し入れです」


「助かる!」


 みやびが即座に反応した。


 四人でテーブルを囲み、紙袋の中身を広げる。

 簡単な軽食と、甘いもの。


 自然と話題は、最近の配信や企画の話に移っていった。


「女帝様、最近ちょっと丸くなったよね」


 みやびが言う。


「それ、コメントでも言われてる」


 ノアが笑う。


 結衣は苦笑しながら肩をすくめた。


「演出、考える余裕ができただけなんだけどなぁ」


 それは半分、本当で。

 半分は、自分でもよく分かっていなかった。


 ただ、以前ほど“戦っている”感じはない。

 常に構え、計算し、先回りしていた頃とは違う。


「女帝様ってさ」


 芽衣が、少しだけ言い淀みながら続ける。


「最近は……“別人格”っていうより、

 結衣さんの延長線にいる感じがする」


 その言葉に、結衣は一瞬だけ目を見開いた。


 延長線──その表現は、妙にしっくり来た。


「切り替えがなくなった、っていうか」


 芽衣は続ける。


「戻ってくる場所が、ちゃんとあるからなのかな?」


 結衣は、何も言わずに頷いた。


 切り替えなくていい──戻る場所がある。

 それは、思っていた以上に大きな変化だった。


「結衣さん、疲れてない?」


 芽衣が、ふと真面目な声で聞いた。


「うん。少しだけ」


 嘘ではなかった。


「でも、前より顔が柔らかい」


 その言葉に、結衣は少し驚く。


「そう?」


「うん。ちょっと前は、ずっと踏ん張ってる感じだった」


 結衣は、少しだけ視線を落とした。

 踏ん張らなくていい時間が、確かに増えたのだ。


 夜が更け、三人が帰ったあと、部屋は再び静かになった。


 ソファに一人で座り、窓の外を見る。

 遠くまで続く光の海は、相変わらず綺麗だ。


「……明日も、忙しいんだろうな」


 そう思いながらも、不思議と不安はなかった。


 少なくとも今は、戻ってこられる場所がある。


 女帝様としてでもなく、

 誰かに説明する必要もない、

 南野結衣としての時間がある。


 それだけで、十分だった。


 明かりを落とし、ベッドに横になる。


 彼女はまだ知らない。


 この穏やかな夜を。

 この“気楽になった日常”を守るために。


 別の場所で、国家が静かに動き始めていることを。


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