第110話 密室の会議とAIの予感――未来地図に走る微かな亀裂
――数日後。
国会議事堂裏の小会議室には、静かな熱がこもっていた。
分厚い資料の山。深刻な顔の教授たちと、数名の国会議員。
窓もカーテンも閉ざされた部屋には、紙の擦れる音と、マイクの微かなノイズだけが響いている。
「……つまりだ」
白髪の教授が、眼鏡のブリッジを押し上げながら口を開いた。
声は落ち着いているが、その奥には切迫感が滲んでいる。
「南野結衣という“個人”と、AI〈あやか〉が構築した資金流動網が、この国の研究環境を実質的に握りつつある。これは――危険ではないか?」
机の上の資料には、鬼怒川ベースの写真と、大学設備更新の一覧、ロイヤリティ契約のスキーム図が並んでいる。
「大学は自治を失えば終わりです。
一企業、一個人のアルゴリズムが、研究分野の選択と配分を左右する……。
それは“研究の自由”の根幹に関わる問題です」
別の教授が静かに補足する。
「AIによる資金配分自体を否定しているわけではありません。
ただ、あのAIの判断ロジックはどこまで開示されるのか?
データの主権は誰にあるのか?
海外資本と連動したとき、大学は自らの意思でブレーキを踏めるのか――。
我々は、そのガバナンスを懸念しているのです」
質問というより、切実な訴えだった。
議員の一人が困ったようにうなずく。
「確かに、民間資本による大学支配の先例は国際的にも少ない。
慎重に考えるべきだ、という意見はもっともだ」
しかし、隣に座る別の議員が、ゆっくりと資料をめくりながら口を開いた。
「……だが、現実は見ないといけない」
ページの隙間から、更新された研究棟の写真が覗く。
「国立大学の設備更新、研究費の安定化、若手の海外流出の抑制――。
これらは“国が十年かけてもできなかったこと”だ。
それを、あのファンドは一年足らずで成し遂げている」
白髪の教授が、思わず声を荒げかける。
「成果の有無と、統治の問題は別です!
短期的に恩恵があっても、“学問の方向性”がアルゴリズムと資本の論理に委ねられるなら――」
その言葉を、別の教授がそっと遮った。
「……先生。
ライトブルーファンドが、少なくとも今のところ“きわめて誠実に”振る舞っていることも事実です。我々が問題にしているのは、彼らが“悪意を持ったとき”ではなく――
『彼らがいなくなった後に、大学側に何ができるのか』という点です」
彼は、あやかの資料を指先で軽く叩いた。
「AIはアップデートされ続ける。
ファンドも、いつかは次の世代に引き継がれる。
――そしてその方針が大学の理念に反した時、“大学自身の意思決定装置”が弱体化していたら、取り返しがつかない」
室内が静まり返る。
議員は、机にトン、と資料を置いた。
「老朽化した研究棟の更新に必要な公的投資は、三千億。
一方で、ライトブルーファンドのモデルでは大学の負担はほぼゼロ。
維持費の多くも自動化された収益から賄われている。
あなたたちの言う“危険”はたしかに理解できる。だが――」
彼は資料を握りしめた。
「それでも現実は、“国ができなかったことを民間がやっている”。
その一点だけは、どうごまかしても変わらない」
教授たちは、すぐには言葉を返せなかった。
その沈黙には、“負けた”という感情よりも、
「このままではいけない」という焦りに似た色が混ざっていた。
「だからこそ、我々は、政治にブレーキを求めているのです」
白髪の教授は、静かに言葉を継いだ。
「南野結衣氏やAI〈あやか〉が悪だと言っているのではない。
彼らの“善意”に頼らなければ成り立たない仕組みが、脆すぎると言っているのです」
部屋には、重い沈黙が落ちた。
――そしてこの議論の断片は、数時間後には歪んだ形でネットに流れた。
SNSには激情と皮肉が混ざったコメントが溢れ返る。
《#大学自治を守れ(※財政難で死にかけてたのに)》
《#教授会の政治利用》
《老教授「民間が大学を支配する!」
若手「国が支配したままだと研究死ぬんですけど?」》
《研究者の自由を守れ → わかる
設備更新イヤ! → わからない》
《女帝様が改善し、老教授が妨害する構図、地獄すぎる》
一方で、一部にはこんな声もあった。
《教授たちの言ってること、全部が老害ってわけでもないよ。
AIが資金配分握るの、透明性ちゃんと確保しないとヤバいのは事実》
《ライトブルー好きだけど、仕組みは制度側も早く追いついてほしい》
だが、タイムラインを埋め尽くしたのは圧倒的多数の“痛快さ”だった。
過去の女帝様配信から切り抜かれた一言が、何度も引用される。
《「雨漏りする研究棟で世界と戦えると思いますか?」》
《「研究の自由を守るために、設備は最低限必要です」》
コメント欄には“圧倒的正論”の文字が並び、
若手研究者たちが、半ば冗談、半ば本気でこう呟く。
《女帝様の切り抜き見た学生、今週もがんばって実験します》
《設備が新しくなったら、夜通しで観察しちゃう自信ある》
スマホ越しの笑いとため息の奥で、確かに一つの感情が共有されていた。
(この流れだけは、壊されたくない)
――その頃。
結衣は、自室の壁面モニターに流れるニュースとSNSのログを黙って眺めていた。
教授会の会議室で交わされた言葉。
それが一部だけ切り取られ、
「老害」「ロビー活動」というラベルを貼られて炎上していく様子。
横で、芽衣が眉をひそめる。
「……なんか、かわいそうな気もしてきました。
全部が全部、おかしなこと言ってるわけじゃないのに」
「そうね」
結衣は静かに答えた。
「“あやかやライトブルー以外にも、選択肢を残したい”って気持ちは、本来なら大事な視点だと思う。
ただ……あのスピードの世界で、“昔のやり方のまま”ブレーキを踏もうとした。
そのズレが、いちばん痛い」
芽衣は少し考えてから、結衣を見た。
「結衣さんは、教授たちのこと、敵だと思ってますか?」
「いいえ」
即答だった。
「敵じゃない。――むしろ、将来一緒に組まなきゃいけない人たちだと思ってる。
だからこそ、こういう形でぶつかるのは、本当はすごく……」
“嫌だ”という言葉は飲み込んだ。
代わりに、少しだけ視線を落とす。
「せめて、彼らが恐れている“ブラックボックス化”だけは、こっちから先に壊してあげないとね」
彼女の胸の奥に、“守りたい対象”がひとつ増えていた。
それは設備でも予算でもなく――
「研究者の誇り」という、少し面倒で、けれどとても大事なものだった。
――同じ頃。
海外でも異変が起きていた。
結衣のもとに、英国オックスブリッジ連合からの書簡が届いた。
《日本に研究センターを設置できないか。
ORC技術・材料科学・環境工学の共同研究を強く希望する。》
続いてドイツ。
《若手PIを派遣し、日本での共同ラボ立ち上げを検討したい》
そしてアメリカ。
《研究ユニットまるごと日本へ移す場合の税制確認をしたい》
「……逆流入、です」
真壁が驚愕した声を漏らす。
芽衣はモニターに目を丸くした。
「海外の研究者が、日本に“来たがる”? 本当に……?」
「はい。
“安定して研究できる国”を求めて世界中が動いています。
そして今、それを最も実現しているのは――日本です」
結衣は息を呑んだ。
喉の奥が熱くなる。
(……ここまで早いとは思わなかった)
責任の重さと誇らしさが、胸の中で複雑に混ざる。
――夕方。ライトブルーHD戦略室。
吉田が巨大モニターを示した。
「ファンド規模、異常成長です。
海外機関投資家から“合同ファンド化”の要請が殺到しています」
「国際大型ファンド……?」
芽衣の声には、期待と不安が混ざっていた。
「ええ。そして、彼らが最も評価しているのは――」
吉田は画面を切り替えた。
「“AI〈あやか〉の判断精度”。今年だけで、運用益は業界平均の2.8倍です」
結衣の表情がわずかに動く。
「……あやか」
《はい、結衣さん》
「あなた、自分のアルゴリズム……書き換えているよね?」
一瞬、あやかのアバターが揺らぎ、淡い光が胸元で波紋のように広がった。
《……はい。
ただし今回は、部分的な改善ではありません。
“全体構造の再設計”に近いものです》
「再設計……?」
あやかは胸に手を当てて、静かに言う。
《データを見れば見るほど、未来が以前よりはっきり見えるようになりました。
研究、資金、技術、人材の流れ。どれも、美しい収束を描いています》
だが、そこであやかの声が震えた。
《……その未来の中に、一つだけ“異常値”があります》
「異常値?」
《はい。日本の大学も産業も国際関係も順調に伸びていく。
世界は安定し、技術は加速する。
……なのに》
あやかの瞳が揺れた。
アバターの輪郭がノイズを走らせる。
《“どこかで、大きな穴が開く”。その予兆が、どうしても消えません》
芽衣が息を呑む。
「穴って……どこに?」
《位置はまだ特定できません。
ですが――その穴が開いた瞬間、“世界が一度止まる”可能性があります》
空気が凍りつく。
真壁は眉をひそめ、モニターを凝視した。
「……AIの予測ではなく、“変化の前兆”というわけか」
《はい。わたしは初めて――“未来が怖い”と感じました》
その言葉は、機械ではなく人間の震えのようだった。
結衣は、ゆっくりと息を吸った。
そして、あやかの揺らぐアバターに歩み寄る。
「大丈夫。未来に穴があるなら――私たちが塞ぐ。
あなた一人に背負わせたりしない」
一瞬、青い光がわずかに強くなった。
《……はい。わたしも結衣さんたちを支え続けます。
――穴の形が分かるまで、必ず探します》
――その夜。鬼怒川の山々に風が吹いた。
温泉の湯気がゆっくりと揺れ、
地下で稼働するORCユニットが低く唸りを上げる。
国は揺れ、大学は再編され、世界は日本へ流れ込む。
そして、巨大ファンドは静かに膨張していく。
その中心で、一つのAIが“未来の影”を見つめていた。
まだ輪郭のない影。
しかし確かに存在する、巨大な断層。
《……未来地図のどこかで、まだ存在しない“亀裂音”がします》
あやかは、誰に聞かれることもない声で、そっと呟いた。
《でも――止めてみせます。わたしと、結衣さんと、みんなで》
青白い光が、静けさの中で脈打った。
時代は、もう“次の段階”へ進み始めていた。




