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第108話 学府の歓喜と反発

  日本の大学の環境は、静かに、しかし確実に変わり始めていた。


 新築の研究棟が次々と立ち上がり、老朽化した設備は驚くほどの速度で更新されていく。

 年度の縛りに縛られない“裁量予算”が研究者の手に渡り、かつて夢物語だった計画が、次々と実行されはじめていた。


 だが――大学社会のすべてが歓迎ムードというわけではなかった。


 ――国立A大学・教授会。


 長年アカデミアを支えてきた定年間近の教授が、皺を刻んだ額を上げて口を開いた。


「……この流れは、あまりにも急激すぎる」


会議室は水を打ったように静まり返る。


「たしかに資金が潤沢になることは歓迎すべきだ。

 だが忘れてはならない。“研究の質”は、金だけでは保てない」


 老教授は、机をトントンと指で叩く。そのリズムが、彼の警戒心をあらわにしていた。


「若手は浮かれているようだが、私は危惧している。

 競争が弱まり、予算獲得の努力が不要になれば――研究者の水準は落ちる。これは歴史が証明している」


 強い言葉に、数名の中堅教授が顔を見合わせ、気まずそうに視線をそらした。


「……先生のお気持ちは分かります」


 四十代の若手教授が、慎重に言葉を選びながら口を開く。


「しかし、これまでの仕組みで若手が育ってこなかったのも事実です。

 “競争に勝てる前に、研究自体が続かない”。そんな環境が長く続いていたのでは?」


「若手は甘えている!」


 老教授の声が跳ね、会議室の温度が一瞬で下がる。


「我々の時代は、研究費が無くとも成果を出した。

 研究室が雨漏りしようと、機器が古かろうと、それで世界に挑んだ!」


 その言葉に、若手は目を伏せ、中堅は苦く笑うしかなかった。


「先生……現代の研究機器は“精密重工業”です」


 別の教授が静かに告げる。


「機器の性能差は“研究テーマの生死”に直結します。

 昔のように、情熱だけでは戦えないんです」


 老教授はさらに眉をひそめ、深いため息をついた。


「……感情ではなく、理念の話をしているのだよ」


 しかし、彼の声は、外から漏れる若手たちの明るい談笑にかき消されそうになっていた。


「本当に予算降りたぞ! 新型の顕微鏡まで来た!」


「ポスドクの任期も三年延長……こんな未来が来るとは。」


「これで民間の就職を探さなくて済む……」


 彼らの表情には、ようやく未来が開いた安堵があった。


 ――別の国立大学


 こちらでも議論が紛糾していた。


「競争が薄れると怠惰になる、と言いいますが……そもそも“競争以前の問題”だったのでは?」


 若手教授が指摘する。


「そうそう。研究費獲得の努力をする前に、大学のマネジメント業務で研究する時間すらなかった」


「今の書類地獄が緩和されるだけで、研究時間が年間200時間増えたんだぞ?」


「むしろ今のほうが、健全な競争が生まれると思うが」


 だが反対派の声は根強い。


「いや、予算が潤沢になると、人は必ず緩む。本質的な研究者はどの時代も少数だ。それを前提に制度を作るべきじゃないか」


 議論は平行線をたどり、大学社会の価値観そのものが揺れていた。


 ――そんな中、海外からの“第二波”が押し寄せてきた。


「教授、スウェーデンの研究者からジョブインクワイア来てます!」


「こちらは英国のポスドク……日本に移籍したいと」


「カナダの材料科学チームが、“日本にラボを作りたい”と言ってます!」


 海外からの研究者の応募が、桁違いに増えていた。


 理由は明白――

 “安定した資金と最新設備が確保された環境”が、日本に生まれたからだ。


***


 ――ライトブルーHD公式チャンネル「女帝様スタジオ」。


 いつもより柔らかいパステル調の背景に、「今夜はゆるっと大学の話」と書かれたネオン風タイトルが浮かんでいる。


 画面中央には、淡い水色のドレス姿の女帝様――南野結衣のアバター。

 その両脇に、みやびとノアのアバターが並ぶ。


『はい、みなさんこんばんは。女帝様こと南野結衣です。

 今日はスペシャルゲストとして──』


「やっほー! ノアだよー! なんか今日さ、テーマ重くない?

 タイトルに“大学地図が塗り替わる夜”って書いてあったんだけど? 夜に読む資料じゃなくない?」


 ノアが元気いっぱいに手をぶんぶん振る。


「こんばんは~、みやびです。

 ノアちゃん、いきなりテンション高いねぇ。

 でもたしかに、タイトルだけ見るとニュース番組っぽいよね~。」


《#エンタメの皮をかぶった経済番組》

《#Vtuber界のN◯K》

《#女帝様×みやび×ノアって組み合わせ強すぎ》

《#夜の大学講義開講のお知らせ》


 コメント欄が一気に流れ始める。


「二人とも来てくれてありがとう。

 今日はね、“大学にお金が入りはじめた結果、何が起きているか”っていう話を、ニュースよりちょっとだけ優しく説明しようかなと思ってます」


「“ちょっとだけ”じゃなくて、かなり優しくお願いしますね?

 視聴者さん、今パジャマで見てる人多いからね?」


 みやびがゆるっと笑う。


「さっき裏で資料見たけどさ、元は普通に官僚の人向けのブリーフィング資料だったよ!?あれ、このまま出したら寝落ち続出コースだよ!」


 ノアがさらっと暴露する。


《#官僚用資料を生配信で噛み砕く女帝》

《#視聴者のIQが試される配信》

《#みやびちゃんがいなかったら心折れてた》


 結衣はくすくすと笑い、画面端に簡略化されたグラフを出した。


「まずね、ここ数か月で、日本中の大学に“新しいお金の流れ”ができました。

 特許ロイヤリティとか、大学発の技術を世界に出して得たお金が、ちゃんと大学に戻るようになってきている」


「で、そのお金が“年度末で消えない”っていうのがポイントだよね?」


 みやびが、穏やかな声でフォローを入れる。


『そうそう。“使い切らないと来年度予算が減るからとりあえず消耗品を大量購入する文化”とは、お別れしましょう』


《#言ったwww》

《#備品爆買い文化への追悼》

《#実在する悲しい話やめろ》


「あー、それ聞いたことあるやつー! 年度末に謎の消耗品タワーできるやつでしょ!」


 ノアが両手をぱたぱたさせる。


「でもさ、なんか“お金が増えたら研究者が怠ける”って言ってる先生たちもいるんだよね?」


 ノアが首をかしげる。


「そうそう。今日もとある大学で、“清貧こそ学問の美徳だ”っていう議論があったみたいで」


《#清貧先生また出た》

《#雨漏り美学やめろ》

《#清貧でMRIが買えるならそうする》


 結衣は、少しだけ真面目な表情になる。


『「清貧を美徳にする気持ちは、分からなくはないんです。

 でも、例えば──」


 画面に、古びた研究棟と最新設備の対比イラストが表示される。


『今の研究機器は、本当に“精密機器”だらけなんです。

 世界で戦うためにはその差が、そのまま研究テーマの生死になってしまう』


「つまり、“古い装備で世界最先端と戦えって、それはさすがに無理ゲーだよね?”ってことだよね」


 ノアが、元気なトーンのまま鋭いツッコミを入れる。


「そう。なので、今の仕組みは“なんでもかんでも楽になる魔法”じゃなくて、

 最低限のスタートラインを揃えるためのもの、と思ってほしいかな」


「貧乏であることを根性論で美化するのは、ちょっと違うよね~って。

 ご飯ちゃんと食べて、ちゃんとした机で、ちゃんとした機械で、がんばってほしいな~」


 みやびが、ふんわりと頷く。


《#清貧より健全な設備》

《#貧しさで餓死しそうだもんな》


 コメント欄の温度が、徐々に賛同の方向へ傾いていく。


「でもさ、海外から研究者がめっちゃ来たいって言ってるって話も聞いたよ?」


 ノアが身を乗り出す。


『うん。スウェーデン、英国、カナダ……

 “安定した研究費と最新設備があるなら、日本にラボを作りたい”っていう相談が、本当に増えてきたね』


「うわ、それ普通にエグいニュースじゃん。

 みんな聞いた? これ、未来変わるやつだよ?」


 ノアが目を丸くする。


《#大事なのサラッと言った》

《#日本が研究の“避難所”になってる説》

《#海外ポスドク日本にカモン》


 結衣は、画面を囲むコメントを見ながら、少し柔らかく笑う。


『こういうときにね、“競争がなくなるからレベルが下がる”って不安に思う人がいるのも分かるんだけど……』


 そこで、あやかの小さなアバターが、ぽこんと画面端に現れた。


《こんばんは、あやかです。ちょっとおじゃまします》


「きたー! 大学の裏側ぜんぶ見えてるあやかちゃん!」


 ノアが軽く手を挙げる。


「おいでおいで、あやかちゃん。今日も数字、こわくないように優しくしてね~?」


 みやびが満面の笑みを向ける。


《はい、がんばります》


 あやかは小さく咳払いをして、簡略化されたグラフを出した。


《設備更新後、日本の若手研究者の“論文価値”は、

 世界平均の約1.6倍のペースで伸びる可能性があります》


《#急に具体的》

《#1.6倍って普通にやばい》

《#清貧論者のライフはゼロよ》


「つまり、“ちゃんとお金と設備を渡したら、ちゃんと頑張る人たちが山ほどいた”ってことだよね?」


 ノアがテンポよくまとめる。


《そうです。競争がなくなっているのではなく、“競争以前に参加することすらできなかった人”が、ようやく走り始められた状態です》


 あやかは、少し誇らしげに言った。


「いいなぁ、それ。なんか、すごく健全だね~。」


 みやびがほっとしたように笑う。


「“走るか走らないか”は本人の問題だけど、

 スタートラインにすら立てないのは、もう制度の問題だよね」


 ノアが真面目な声で続ける。


『そう。 だから私は、スタートラインを揃える部分までは、ちゃんと手伝いたい。

 そこから先は──みんなの自由と努力の領域かな』


《#女帝様のこの一言で締まる》

《#スタートラインを整える女神》


 コメント欄には、現役学生やポスドクらしきアカウントからもメッセージが流れはじめる。


《研究費全滅して詰みかけてたけど、ラボの設備と任期が伸びた。本当に助かった》

《地方駅弁大だけど、新棟立った。研究続けられそう》

《正直、もう限界だった。ありがとう》


 その文字列を見て、結衣の目元が少しだけ柔らかくなる。


『こちらこそ、続けてくれてありがとう。

 研究者がいなければ、私たちのやっていることには意味がないから』


「いい配信になってない? 今日」


 みやびがほこほこと呟く。


「ちゃんと“雑談”の皮をかぶったまま、中身はガチガチの構造改革の話してるけどね……」


 ノアが肩を竦める。


《#清貧よりフェアなスタート》

《#女帝様とみやびとノアで学問を救う配信》


 女帝様スタジオの光がふわりと揺れ、

 画面の向こう側で、大学社会の空気が少しだけ軽くなるのを、

 視聴者たちは確かに感じていた。

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