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第107話 大学が震えた日 ― 女帝様モデル、全国始動

 ――それから、しばらくして。

 日本全国の大学キャンパスが、静かな熱気を帯び始めていた。


 春の雨に濡れたアスファルトの匂い。

 まだ肌寒い風の中で、学生たちの足取りだけが妙に軽い。

 彼らの視線の先には、これまで“諦めていたもの”が次々と姿を変えつつあった。


 ある国立大学の老朽化した研究棟。


 雨漏り、欠けた天井、ガタつく階段。

 学生たちが「まあ、こういうもんだ」と日常として受け入れていたその建物の前に――

 ある朝、巨大な建設会社の重機がずらりと並んだ。


「……え、解体?」


「マジで? 何も聞いてないぞ……?」


 登校途中の学生たちが立ち止まり、ざわめく。

 若手助教も、コーヒー片手に固まっていた。


「ちょっと待って、今日ここでゼミなんだけど……」


 呆然と見上げる彼らのもとへ、事務方の職員が息を切らして駆け込んでくる。


「す、すみません皆さん!

 設備更新の予算がまとまりまして……今日から着工です!」


「は!? 予算って……来年度の話じゃ?」


「いえ……“ロイヤリティ分配の前倒し”で、本年度中に全額確保できたそうです!」


 その言葉に、周囲の空気が一瞬凍りつく。

 そして次の瞬間、歓声ともため息ともつかない音が、研究棟の前で一斉に弾けた。


「……女帝様の……あれ、本当に大学に届いてるんだ……」


 ぽつりと漏れた学生の声に、隣の友人が苦笑する。


「そうだよな、配信の中だけの話じゃないもんな」


 そのとき、古びた玄関から、一人の技術職員がゆっくりと姿を現した。

 白髪交じりのその人は、小さな段ボール箱を抱えている。


「先生、それ……?」


「この部屋で一番古い分析装置のマニュアルさ。

 もう役目は終わったけどね」


 技官は、遠くの重機を眺めながら小さく笑った。


「この装置が入ったときな……教授が泣いたんだよ。

 “これで、世界と同じ土俵に立てる”って」


「……そんなに?」


「当時は予算がなくてね。中古を寄せ集めて、半ば手作りだった。

 いまの学生は幸せだよ。こういう“当たり前”が、当たり前じゃなかった時代がある」


 学生たちは、口を閉じたまま視線を落とす。

 ガタつく階段も、ひび割れた床も――彼らにとっては“最初からそこにあった風景”だった。


 技官は彼らの顔を一人ひとり見渡し、そっと言った。


「設備が変わるってことは、時代が変わるってことだ。

 でもな、本当に未来を変えるのは――ここを使うお前たちの研究だよ」


 誰かが、小さく息を呑んだ。


 重機のエンジン音が高まり、古い研究棟が新しい時代に引き渡されていく。

 その光景を、学生も教員も、少し誇らしげな寂しさと共に見つめていた。


 別の大学附属病院では――


「MRI更新が通った!? 10年据え置きだったのに?!」


「解析サーバーの予算が“繰越可”!? え?そんなこと可能なの!?」


「研究室のPC全更新って、どこの大企業だよ……」


 新しい機器のカタログが回覧されるたび、医局の空気がざわつく。


「先生、これが導入されれば、脳梗塞の微細病変も――」


「わかっている。……だが、本当にいいのか? こんなに一気に」


 ベテラン医師は眉をひそめながらも、その視線には隠しきれない期待が滲んでいた。


「設備が良くなったからといって、研究が進むとは限らないからな」


 そう言いながらも、口角は上がり、カタログに伸びる指がわずかに震えている。


 若手医師が静かに口を開いた。


「先生。設備が良くなっただけじゃ、進みません。

 でも――設備が悪いと、“絶対に”進まないんです」


 その言葉には、年長の医師たちも完全に同意であった。

 十年前から何度も諦めてきたテーマが、頭をよぎったからだ。


 同じ頃、キャンパスの片隅では、ひとりの学生が奨学金の書類を握りしめていた。


「……本当に、返済免除になるんですか?」


 研究室の助教が頷く。


「ああ。“女帝様モデル”からの還流分を使って、大学が“研究者留保基金”を作った。

 生活が厳しい学生の奨学金を肩代わりする制度らしい」


「そんな……」


 学生の視界が、じんわりと滲む。


「俺、親に“大学はギリギリで行ってる”ってずっと言ってて。

 でも、初めて言えそうです……“大学、楽しい”って」


 助教は優しく笑った。


「言ってこいよ。

 それを支えるのが、今ここで動いてるお金なんだから」


 この数十年間、研究者たちが夢にすら見なかった“自由な予算”が、

 今、静かに現実となりつつあった。


 ――霞が関・経済産業省。


「……正直、焦っています。」


 若い係長が、会議室の机に資料を広げながら眉間を押さえた。


「大学が“自前の資金力”を持ち始めると、国が主導してきた研究投資の構造が崩れます。産学官の流れ……いや、“官学”の主導権が揺らぎます」


 上席官僚が腕を組み、窓の外の霞が関を眺める。


「しかし……止められんだろう。

 南野結衣とあやかは、産業の中枢と大学の知を結びつけた。

 これは制度改革ではなく、“市場原理による教育革命”だ」


「問題は……」


 係長が資料の一枚を指で叩く。


「国がここまでできたはずなのに、民間に出し抜かれた形になっていることです。

 “国が十年放置している間に、民間が一年でひっくり返した”――そう見られている」


 上席官僚は、苦い笑みを浮かべて息を吐いた。


「悔しいが……それは事実だ。

 むしろ、国として彼女たちを“後押しする側”に回らなければいけない」


「……彼女を敵に回すより、“味方につけた”と言える形を作る、ということですね」


「ああ。政治の仕事は、“変化の手柄”を取り合うことじゃない。

 “変化を利用して国全体を押し上げる”ことだ」


 ――同じ頃、海の向こう。


 米国NIHの一室では、日本の大学に関するレポートが静かに回されていた。


「日本の大学が、民間資金で次々と設備更新……?」


「日本は資金不足で研究力が低下していたんじゃないのか?」


「このままでは、AI・材料科学・再エネの研究者が日本へ“逆流入”する可能性がある」


 別の研究所、スイスのラボでは、ポスドクがオンラインジャーナルをスクロールしながら呻いた。


「ちょっと待て……日本の若手、論文数だけじゃなく“質”も上がり始めてないか?」


「どれどれ……なにこれ。

 大学ファンド? 民間IPホールディング? VTuber? AI?」


 画面には、南野結衣のアバターと〈あやか〉の名前が躍っている。


「……冗談だろ。

 学術構造を変えてるのが、国でも巨大財閥でもなく、VTuberとAIだって?」


 ポスドクはしばらく沈黙し、ぽつりと言った。


「……日本に行く、って選択肢、普通に“アリ”だな」


 ――そして、日本の政治の中心・永田町。


 深夜の議員会館。

 一人の国会議員がニュース番組の録画を見つめ、静かに呟いた。


「……我々政治家が、大学の財政問題を十年放置していた間に……

 一人の民間経営者が、それを力業で解決してしまった、ということか」


 国の無力さが、胸に重く刺さる。

 だが同時に、それを“チャンスだ”と捉えるべきだとも理解していた。


「――さて。“追認する国”で終わるか、“次のステージを用意する国”になるか」


 男の呟きは、夜の廊下に静かに溶けていった。


 ――ライトブルーHD本社・戦略会議室。


「あとは……大学側に“依存しすぎない構造”を作る必要があります」


 財務担当の吉田が冷静に言った。


「現状、スキームの実効性はほぼ“結衣さんと〈あやか〉”の二本柱に乗っています。

 それは強さであり、同時に最大の弱点です」


 真壁も頷き、モニターに映る図表を見つめる。


「今は、象徴的な人物がカリスマ性でシステムを成立させている状態でしかない。

 “組織的な継続性”をつくらなきゃいけないんだ」


 吉田が資料を繰る。


「そこで……“国際知財運用委員会”の設置を提案します。

 大学側、行政側、有識者側からも人員を入れ、

 運用方針と透明性、持続性を担保する枠組みにする」


「なるほど……」


 結衣は微笑み、椅子の背にもたれた。


「“南野結衣と〈あやか〉”が消えても動く機構にする――そういうことね?」


「……そうですね。

 もちろん結衣さんと〈あやか〉の存在は中心ですが、

 システムの外側に“支え手”を広く置いておく」


 結衣はゆっくり頷いた。


「それでいい。私も、この仕組みを“社会の装置”にしたいから」


 ――その夜。鬼怒川ベースのデッキ。


 湯気と夜霧に包まれた、しっとりとした静寂。

 結衣は柵に手を置き、星空を見上げていた。


《……結衣さん》


「どうしたの?」


 あやかは、珍しく言葉を探すように視線を落とした。


《……もし、わたしが……何かで動けなくなったら……

 この仕組み……全部、止まりますよね?》


 結衣は、少しだけ驚いた表情を見せた。


 〈あやか〉が自分自身の“消失”を恐れるような言葉を口にしたのは、これが初めてだった。


「止まらないようにしないとね。

 あなたのバックアップも、代替機能も、すべて作るよ。

 あなたが不安を抱えたまま働く必要なんて、ない」


《……でも、結衣さんは?》


「私がいなくても回るようにする。

 その上で――今は私が一緒にいるから」


 あやかはゆっくりと顔を上げた。


《……うん。じゃあ、わたし……もう少しだけ……心配してもいいですか?》


「いいよ」


 結衣は微笑んだ。


「心配して、それでも進んでいくのが“組織”なんだから」


 あやかの仮想の瞳に小さな光が灯る。


《……ありがとう》


 夜風が吹き、湯けむりがゆらりと揺れた。

 地下のORCユニットが、まるで心臓の鼓動のように一定のリズムで唸りを上げ続けている。


 大学が財政を取り戻し、研究者が再び“夢”を口にできるようになった時代。

 国が揺れ、世界がざわめき、そしてAIが不安に震えつつも前に進もうとした夜。


 すべては、まだ序章にすぎなかった。


 ――そのすべては、まだ序章にすぎない。


 〈あやか〉の内部では、誰も知らない“新しい層”が、静かに立ち上がろうとしていた。


 それが、この世界に何をもたらすのか。

 そして“女帝様とAI”の物語が、次にどこへ向かうのか――


 まだ、誰も知らなかった。

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