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峠越え


 その死体はS県の山中、線路からだいぶ下った岩場で発見され、列車から転落した際の衝撃によるものか、損傷が激しかった。体中の骨が、多数折れていたのである。

 線路からの高さは15メートルばかりもあり、急カーブなので減速しているとはいえ、重力だけでなく、列車の勢いも死体には加わっているのだ。

 即死であったことは間違いなく思われるが、身元はすぐに判明した。田中乱造という50歳過ぎの男である。

 この身元は、指紋照合の結果判明したのだが、田中乱造には犯歴があるばかりでなく、指名手配もされていたのである。強盗殺人を犯し、逃走の途であった。

 田中乱造が何ゆえに列車から転落したのか、そのあたりの事情はまったく不明であったが、強盗殺人とは刑が重く、死刑にも処せられる可能性のある犯罪である。

 その男が死亡したのだ。

『これで、同じ男による再犯はもうない』

 と口にまではしなかったが、警察もある意味、安心してしまった。

 しかも時代は、第二次世界大戦の初期。そろそろ日本の社会全体が騒然とし始めるころである。細かい状況は不明であるにしろ、強盗殺人犯の死について、詮索する余裕は誰しも失い始めていた。

『犯人は死亡した。それでいいじゃないか』

 と、この事件もコールド・ケースの仲間入りをしたのである。

 だがいつの世にも、『忘れない人』は存在するもので…。



 人車に乗ってしか行くことのできない、例の猫坂温泉に住む半田老人が、再び大田を呼び出したのだ。

 ただ、いつもいつも山奥へ呼びつけるばかりでは気が引けるのだろう。今回は老体を駆って、大阪の町まで出てきたのである。

 半田老人も、元は大阪府警の刑事。つまりOBであるが、古巣へ顔を出して煙たがられるようなことは好まず、大阪市内のなじみの旅館に宿を取り、そこから大田へ連絡を寄こしたのである。

 東川署の刑事部屋へ、おずおずと直通電話をかけてきたのだが、そこはそれ大先輩の言うことであるから、課長も嫌な顔ができず、大田が訪れることを承知した。といっても、もちろん勤務明けのことである。

 半田老人が滞在しているのは、脇本陣といい、江戸時代からある宿屋で、古くは参勤交代の大名なども宿泊したそうだが、大田もあまりよくは知らなかった。なにしろ学生時代にも、歴史の勉強になどあまり身を入れなかったのである。

 午後も遅く、もうすぐ夕方になろうという時刻だったが、半田老人は大田を、自分の居室に迎えてくれた。庭を見回すことのできる大きな窓と、ちゃんとした床の間を備えた日本風の部屋である。

 半田老人は、座布団の上にキチンと正座して待ち、宿の人間に言って、大田のための茶菓もすでに用意されていた。ただ、部屋の中には老人ひとりきりで、細君は友人を訪ねて出かけているのだそうだが、

『ワシと二人きりで話すために、わざわざ出かけさせたのかもしれないな』

 と大田は思ったりした。

 いつものように、半田老人は和服姿である。大田が座布団の上に身を落ち着け、茶でのどを湿らせるのを見ると、すぐに口を開いた。

「どうも、いつもいつもお呼び立てばかりで申し訳ない。とてもお忙しい所を」

「いえいえ、半田さんのお頼みとあらば、課長もムゲにはできません。しかも幸い、今のところ、あまりややこしい事件は起こっておらぬのですよ」

「ああ、それは幸いでした。実は…」

「なんです?」

「まず最初に、事件の舞台となる地形から、お話ししなくてはなりません」

 と半田老人は語り始めたのである。

 F山脈は、S県の山奥、ふところ深くにあり、旅人にとっては江戸時代からの難所である。

 鉄道にとっても事情は同じで、ここを行くF線の列車はきつい坂を登り、峠を越えてからは、またきつい坂を下らなくてはならない。峠の頂上には、短いトンネルもある。

 それだけではなく、ここでは急カーブがグネグネとどこまでも続くから、急勾配と相まってスピードが出ず、単線区間ということもあって、通り抜ける列車は少ない。

「一日に5本か6本しか汽車がないそうですよ」

「ほう…」

「しかし、そんな山中にも人々の暮らしがあるのです」

「人が住んでいるのですか?」

 と目を丸くする大田に、半田老人は少し笑い、

「住んでいますとも。大小合わせて30ほどの村や町が、F山脈には点在しているそうです。その中でも大野という町が一番大きく、ここには100軒以上の家がありますが、もちろん、ほんの少し開けた山の急斜面にへばりついたような町です」

「へえ」

「だけど、他の村はそうはいきません。せいぜい5軒か10軒。所によっては、3軒しかない地区もあるのだそうですよ」

「道はあるのですか? そんな小さな村々にも、バスは通っているので?」

「いやいや…」

 と半田老人は首を振り、

「…道路なんてものは、リヤカーがやっとやっと通る程度のものしか通じておりません。ましてバスなんて、とてもとても」

「では村人たちは、どうやって暮らすのです? まさか山道を歩いて越えるんですか?」

 そういった生活など、地方都市とはいえ町の中で生まれ育った大田には、想像もできなかった。

 半田老人はクスリと笑い、

「いえいえ、峠の中を線路が通っているのです。国鉄のF線ですね」

「ははあ、駅がある」

「本当は駅とも呼べない、小さな小さな施設で、正式には仮乗降場と呼ぶのですがね…。まあなんですよ。形ばかりの短いホームの付いた、バス停に毛の生えたようなものだと思ってもらえばよろしい」

「…」

「そんな駅にだって、列車は停車するんです。住人の大人たちの買い出しの便ばかりでなく、子供らも通学しなくてはなりませんから」

「小学校へですか?」

「小学生も中学生もいますよ。先ほども言った大野という町にある小学校と中学に通うんです」

「山の中の小さな小さな村の子供らですね?」

「その通りですが、朝はそれでいいのです。この小さな村の名を笹山と言いますが、朝には、登校するのにちょうどよい時間の列車が笹山駅へやってきます。子供らはこれに乗り、大野まで15分間、イスに座って揺られていけばいいのです。大野は笹山の隣駅ですが、山中で速度が出ず、駅間距離があることもあって、15分かかるのです」

「子供らの下校時はどうするのです? ちょうどいい帰りの列車があるのですか?」

 半田老人は、ゆっくりと首を左右に振った。

「子供らが午後3時30分、つまり15時30分に学校を終えても、帰りの列車はありません。なにしろ、日に5本か6本しか列車のないところですから。本当なら子供らは、18時前の列車まで2時間以上も駅で待たなくてはならないのです」

「それは無体むたいですな。本当に笹山の子供らは、駅の待合室でそんなに待つのですか?」

「いいえ、学校と国鉄の間で話し合いが持たれ、その結果、15時50分に大野を発車する貨物列車に、特別に乗車することが認められたのです」

「ふうん…。しかし貨物列車なのですか?」

「もちろん、子供らを本当に貨車に積むわけにはいきません。車掌車に乗せるという考えもありますが、そのころはまだ笹山村も今よりは大きく、それなりの数の家があり、家々には子供が兄弟姉妹でおりますから、車掌車の車内はいっぱいになってしまいます。貨物列車が走行中にも、車掌は車内で書類仕事をしているわけですから、それでは困るのです」

「へえ、車掌が車内で書類仕事をしているなんて、ちっとも知りませんでした。昼寝でもしてるのかと思ってましたよ」

 その言葉に半田老人は笑い、続けた。

「そこで、貨物列車ではありますが、特別に客車を1両、連結することになったのです。大野から笹山まで、乗車はたった15分間ですが、客車は貨物列車の始発駅から連結され、終点まで連結を外しません。特に監督者がいるのでもなく、大野駅に到着した貨物列車のこの客車に、子供らは勝手に乗車し、笹山で停車したら、また勝手に下車するんです」

「その客車には、車掌は乗っていない?」

「乗っておりません。この客車は長い貨物列車の中央あたりで、前後を何両もの貨車に挟まれて走るのです。車掌がいるのは、編成のはるか後ろ、最後尾の車掌車であり、機関手たちは…」

「客車からは何両もの貨車をへだてた、先頭の機関車の運転台というわけですな」

「そうです。大野から笹山へ走る15分の間、この客車の車内は、子供らだけの密室になるのです」

「ふうむ」

 状況は理解できたが、まだ大田にはピンと来ない。そういう貨物列車の、いったい何が問題であるのか。

 大田がそう質問すると、半田老人は答えた。

「大田さん。あなた、もう17年も前のことになりますが、鈴木質店の事件を記憶していますか?」

「鈴木質店? たしか強盗殺人でしたかな?」

「その通りです」

 鈴木質店のことは、大田もかすかに記憶していた。まだ制服警官だった時代で、しかも東川署に勤務するようになる前である。

 ある夜、すでにその日の商売を終えて雨戸を下ろしていた鈴木質店という店に、男が忍び込んだ。子供のいない夫婦がやっている店だが、犯人は軍用の長いナイフを持ち、

『金を出せ』

 とやったのである。犯人は一人で、共犯者はいない。

 しかし、それが逆にまずかったのか、質屋の主人は抵抗してしまった。

『女房と二人なら、なんとか取り押さえることができる』

 と思ったのかもしれない。

 だが犯人は、背の高い頑強な男で、この時代のことであるから、軍隊経験もあったかもしれない。まず夫のほうが刺され、続いて妻の命も奪われた。

 その日の売上金を含め、店内の金をすべてと、ついでにいくつか宝石や貴金属、腕時計など、金目があって、しかも、かさばらない品物もいくつか取り、犯人は逃走したのである。

 質店には電話機があったが、侵入直後に犯人が電話線を切断したので、電話での通報はされていない。

 しかし店から飛び出してきた男と、店の前の路地ですれ違った通行人がおり、犯人の服に着いた大量の血を目撃していて、この通行人が警察へ知らせたのである。

 すぐさま緊急配備が敷かれたが、この時代のこととて、一人一人の警察官が無線機を持っているわけではない。

 だが偶然というのはあるもので、大阪は川の多い町である。ある川の土手わきの小道であったが、たまたまそこを通りかかった刑事が、犯人の男を見かけたのだ。

 もちろんこの刑事も、質屋の強盗事件のことなど知らず、ただ血まみれの服を着て、血相を変え、よほどあわてていたのか、まだナイフを片手に持ったまま走り抜けてゆく男を見つけ、追跡を開始したに過ぎない。

 しかし、その後が悪かった。刑事は男にタックルし、取り押さえかけたが逆襲され、命までは取られなかったけれど、拳銃を奪われてしまったのである。

 ナイフのせいで、刑事は足に傷を負い、それ以上の追跡はできなかった。

 ケガの功名と言えるのか、乱闘のさなか、犯人の上着が偶然に脱げてしまい、犯人はそれを置いて逃走したが、上着のポケットの中には、奪われた金品がすべてそのまま、手付かずで入っていたのである。

「すると半田さん、全て戻ってきたのだから、強盗の被害額はゼロということですな」

「ええまあ…。しかし質屋の夫婦が死んでいます」

「ごもっともで…」

「それだけではないのですよ」

「どうしたのです? 犯人は結局捕まらないまま、迷宮入りしたのですかね?」

 いささか遠慮のない大田の話し方に、半田は少しため息をつき、

「いいえ、迷宮入りはしませんでした。遺留品に残っていた指紋から、犯人の氏名も分かっていて、田中乱造と言いますが、そのことは、あとでまたお話ししましょう…。拳銃を奪われた刑事ですがね…」

「ああ、ナイフで刺されて足にけがをした?」

「職務中に銃を奪われたことが、よほどショックだったのでしょう。事件の数日後のことでしたが、自殺してしまいました。私の同期で、ずいぶんとまじめな男でしたが、良心の呵責かしゃくというやつでしょう…」



「山中の小町というから、どんなのかと思ったが、なかなか栄えているじゃないか」

 というのが、大野駅に降り立った大田が最初に得た感想である。

 まったくそのとおりで、駅前には小さいながらも広場とメインストリートがあり、それなりの数の商店が軒を連ね、今も営業しているのだ。食堂や書店、洋服屋や靴屋などがあるところを見ると、この地域の中心部でもあるのだろう。

 時刻はまだ昼前だが、

 『今のうちに今夜の宿を決めておいたほうが良いかな』

 と大田は思ったが、宿という単語で思い出した。

 大阪市内の脇本陣で半田老人の依頼を受け、いつものように大田は出かけてきたところである。本当なら半田自身が出かけて調査すべきなのだろうが、

「もう私も、年が年ですから…」

 だから大田の出張となったのである。

 S県だから遠く、何日かかけての旅行になるが、半田の名を出せば、課長も首を横に振ることができず、大田もそれだけは痛快であった。

 といっても大田も、この仕事が嫌なのではなく、むしろ大阪を離れての気分転換になると歓迎していた。

 夜行列車に乗り、一晩をかけて、大田はS県へと入った。下車したのは大野駅である。ここは急行列車が停車するだけの規模があるのだ。

 大田は、半田老人との会話を思い出していた。

 老人自身による長々しい説明の後、

「それで半田さん、F線のことと鈴木質店の事件とが、どう関係あるんですか?」

 と大田は質問したのである。

 その答えは、

「その強盗犯の死体が発見されたのが、F線の沿線だったのですよ」

 であった。

 大田は口をあんぐりと開け、

「それはいったい、どういうことなので?」

 半田老人の説明によれば、17年前、質屋の事件のちょうど1週間後、F線のすぐわきで田中乱造の死体が発見されたのである。

 S県警から指紋の照会があり、判明した。 つまり田中乱造には、鈴木質店以前にも、強盗未遂や窃盗など、いくつか前科があったのである。

 大野駅前にたたずんだまま、大田はそんなことを思い出していたが、不意に、

『15時50分の貨物列車まで、まだ時間は充分にあるな…』

 と気が付き、地元警察へ寄ってみることにした。誰に尋ねるまでもなく、警察署の建物は駅前からも見えていたのである。

 中に入って身分を告げると、すぐに署長室へ通された。用件を伝えると、すぐに署長は、17年前を知る古参の警察官を呼び出してくれたのである。

 呼び出されてきたのは、制服姿ではないから刑事であろう。やせた干物のような中年男で、目玉だけは丸く大きい。半分白くなった髪はポマードでぴっちりとなでつけてオールバックにしているが、口先と目の表情は柔らかく、いやな感じの人物ではない。

 刑事は、吉沢です、と自己紹介した。名刺を渡し、大田もそれに答えたのである。

「大阪からわざわざ…。何の事件の捜査ですか?」

 大田は事件の説明をしたが、吉沢にとっても印象的な出来事だったのだろう。17年の時を経ていても、ちゃんと記憶していた。

「ああ、あの件ですか。死んだ男の名は確か…」

「田中乱造です。17年もたって恐縮ですが、田中乱造の死体発見には、吉沢さんも関わられたのですか?」

 すると吉沢は破顔し、

「関わられたなんて言い方は、よしましょうや…。ええ、死体は私も見ましたし、発見現場にも行きました。当時は制服警官の一人でしたが」

「田中乱造は大阪の事件後、ある刑事から拳銃を奪って逃走したわけですが、しかし田中の死体からも、死体の近辺からも拳銃は発見されなかったのでしたな」

「そうです。上司に言われ、私たちもずいぶん長時間、周囲を探したのですが、見つかりませんでした」

「そうでしたか。それで事件は、そのまま被疑者死亡で決着してしまったが、その後、何かありませんでしたか? 地元の刑事さんなら、何か噂でも聞いていませんか?」

 吉沢は首を横に振った。

「いいえ、噂は何も聞きませんでしたが、そういえばあの頃、えらく熱心にかぎまわっている新聞記者がいましたよ」

「新聞記者? どんな男ですか? どこの社の?」

「さあ、社名も名前も覚えてはいませんが、きちんとした身なりで、色の白い上品な感じの男でした」

「その記者は、どんなことを調べていたんです?」

「『死体の周囲では本当に拳銃は見つからなかったのか?』と、同じことを何度も何度も質問されて、閉口したことを覚えていますよ…。それはそうと大田さん、あのことは知ってますよね? 田中乱造の死体には、ちょっと奇妙な点があったことを」

 もちろん大田も聞いていた。半田老人の説明にもあったし、つてを頼って手に入れた検視報告書にも書かれているから、知らないはずはない。

 前にも述べたとおり、列車からの転落によって、死体は大きく損傷していた。しかし、検視が成り立たないというほどでは、もちろんなかったのである。

 吉沢は言った。

「…それが変なんですよ、大田さん。死体のポケットの中からはソロバンの玉が出てきましてね」

「ワシもそう聞きましたが、本当にソロバン玉だったので? 店やなんかで計算に使う?」

「商店や会社ならどこでも使うし、うちのカカアも、家計簿をつける時に使ってますよ。そのソロバン玉が一つ、どういうマジナイなんだか、田中乱造の服のポケットの中に入っていたんです」

「おかしな話ですな。列車から飛び降りる時、そんな物を持ってゆく趣味のやつもおるまいに」

「だけど大田さん、この件はもうとうに、『警察に追われ、追い詰められた末の覚悟の自殺』ということで決着がついているのですよ。大田さんに再捜査を依頼したのが誰か知りませんが、その人はご不満なんですかね?」

「ええ…」

 大田は少しためらった。正直なところ、この件についての半田老人の執念には、大田もついていけなかったのである。

「…銃を持っている者がそれを使わず、どうしてわざわざS県まで行って、しかも列車から飛び降りるなんて自殺方法を選んだのかが解せないと言って」

「田中乱造は指紋を取られて、全国に指名手配されていたのですよ。前科があって、名前までバレてちゃあ、長くは逃げられますまいに。しかも強盗殺人ですからな。死刑はまず間違いない」

「ワシもそう思うんですがね。依頼人は納得してくれんのです…。ところで田中乱造は、S県あたりに知人でもおりましたか? それとも親戚があるとか?」

「当時も一応は調べましたが、そういう形跡はありませんでした」

「では田中乱造は、F線のどの列車から飛び降りたのでしょう?」

「へ?」

「飛び降りて自殺した列車ですよ。何時何分発の、どういう列車であったか」

 すると今度は、吉沢が言葉をためらう番だったのである。

「いえ、それがね…」

「どうしたんです?」

「田中乱造が飛び降りた列車は、特定されておらんのですよ。ご存知の通り、客車のドアは、走行中でも手動でいくらでも開くことができます。普通、デッキに乗客はいません。駅を発車しても人知れずデッキに残り、汽車の速度が一番乗ったあたりで身を投げるのであれば、目撃者はいないわけでして」

「まさか目撃者を探さなかったんですか?」

「なにしろ戦争が始まりかけのころで、世の中はゴタゴタしてましたし、始めから『追い詰められた手配犯の自殺』という見込みでしたから」

 と吉沢は汗までかき始めている。

「ははあ」

 いい加減なもんだ、と内心は思ったが、大田も非難の言葉は出さなかった。事件があった当時の世間の雰囲気は、大田も肌で記憶していたのである。

 結局、吉沢との会話は、何の収穫ももたらさなかった。役に立ったことといえば、駅のそばのちょっといい旅館を紹介されたことぐらいだ。

 礼を言って吉沢とは別れ、署長に挨拶をし、大田は大野署を後にしたのである。

 駅へと向かって通りを歩きながら、大田は再び、半田老人の言葉を思い出していた。

「田中乱造はもしや、笹山行の子供専用客車に乗ったのではないか、と思うのです」

 と半田は言うのである。

「なんですって?」

「17年前には私も、田中はF線の通常の列車に乗車し、そこから飛び降りたとばかり思っていました。だけど先日、ある新聞記事に出会ったんです。F山脈の村に住む子供らの生活をルポした、何でもない記事だったんですが、そこに例の貨物列車のことが書いてありまして、そんな列車が存在することを初めて知りました」

「下校する子供らのために、特別に客車が連結してあるという?」

「そうです。それで気が付きました。何も田中は、通常の列車に乗ったとは限らないとね…」

 大野駅へと到着した大田がふと見上げると、時計は、もうすぐ例の貨物列車が発車する時刻をさしていた。大田が客車に乗車することは、すでに駅長には伝えられ、特別の許可も得られていたのである。

「貨物列車は、16時05分に笹山に到着します。その笹山から大野へ戻ってくる列車は、18時20分の普通列車が最終だから、気を付けてください。何の事件の捜査か知らないが、物好きなものですな」

 と駅長は言ったのである。

 駅長の相手はほどほどにして、ホームに出て待っていると、ついに貨物列車が到着した。

 地方の非電化路線だから、もちろんけん引は蒸気機関車である。驚いたのは、機関車が2両もつながっていることで、

「ああ、やっぱり急勾配の路線なんだ」

 と大田を感心させた。

 もちろん大田の目には、蒸気機関車など黒い煙をはくばかりで、みな同じ姿にしか見えない。もしも誰かが、

「あの機関車は大正生まれの骨董品だよ」

 と教えてやっても、

「へええ」

 で済んでしまっただろう。

 おそらくそうだろう、とは予測していたが、貨車と貨車の間に連結してあった客車は、掛け値なしのポンコツ車両であった。

 普通の客車よりも少し短く小柄で、車内設備だけでなく、車両の外部全体も木でできている。昭和が一桁の前半であったころに製造をやめた車種であった。

 大阪や東京などでは、めっきり数を減らし、見かけなくなった木造車だったのである。

「こりゃまた、すごいもんだな」

 片手をあげて駅長に合図を送り、大田はホームから、客車の車内へ足を踏み入れた。手動のドアを入るとデッキがあって、そこから客室へとつながる構造は、現代の客車と同じである。

 しかしそれがすべて木で作られ、明るい茶色の木目模様を見せているのだ。

 客室の狭いイスの一つに大田が腰かけると、子供らはすぐに姿を見せた。改札口からかけてきて、競争でもしていたのか、2人とも息を弾ませている。まだランドセルが普及する前の時代だから、布製の通学カバンを肩から下げ、どちらも男の子だ。

「この客車も、今では小学生の子供2人が利用するだけになりました」

 とは、大田も駅長から聞かされていたのである。

 見慣れない大人の姿に、子供らは一瞬、不思議そうな顔で立ち止まったが、大田が軽く笑って手を振ると、納得したようである。少し離れた席に2人とも座り、なにやらコソコソとおしゃべりを始めた。

 自分のことを気にするふうでもないので、大田も気が軽く、発車時間を待ったのである。

 やがて遠くのほうで汽笛が鳴り、発車ベルも何もなく、貨物列車は動き始めた。

 貨車と貨車の間に挟まっている客車といっても、床下から聞こえる音や、ポイントを渡る時の揺れ、乗り心地は普通の客車列車と変わらない。

「貨物列車だから、いやにゆっくりだけどな」

 とは大田の感想である。

 田中乱造の死体が発見された場所については、大田も少しは詳しく教えられていた。だから目ざとく、車体のそちら側の窓際に席を占めていたのである。

「ふうん、あの土手の下か? ああそうだ、間違いない。線路は右カーブで、大きな木の生えている脇だと…。へえ、あんなに下なのか。そりゃあ死体も損傷するさ…」

 そうやって15分間の旅を終え、貨物列車は笹山に到着したのである。子供らだけでなく、大田もここで下車したが、道中は結局、2人とも話しかけてくることはなかった。

 古い枕木を組み合わせただけで、ホームというよりも、ただの台といったようなものだが、とにかくその上に立って見回すと、

「ほう、笹山とはこういうところか」

 という感慨を抱かずにはいられない。

 客車から駆け下り、子供らの姿はとっくに見えなくなっているが、小さな踏切を越えて、小道が山のほうへ伸びているから、人家はあの向こうにあるのだろう。

 その小道の左右を笹の葉が埋め尽くしているのが、村名の由来であるらしい。 

 大田は、ゆっくりと小道を歩き始めた。大野へ戻るための普通列車は、18時20分発。まだ充分に時間がある。

 小道はカーブしながらゆっくりと登り、やがて低い尾根を越えた。すると意外にも、そこは開けた盆地のようになっている。

 田や畑が広がり、3軒ばかりの家を見ることができた。

 その1軒の前に、女の姿がある。若い主婦であるらしく、洗濯物を干しているのだ。

『ちょうど、さっきの子供らの母親とおぼしき年齢だな』

 と大田は思ったが、それは当たっていたようで、ガラス戸が開いたままの縁側の上には通学カバンが二つ、無造作に放り出されている。

「ちょっと、すみません…」

 大田は声をかけた。相手をできるだけ緊張させないよう、優しく言ったつもりだが、どれほど成功したかは分からない。女は振り返り、大田を見た。

「…こちらには、何軒の家がありますか?」

 馬鹿げた質問かもしれなかった。列車に乗ってわざわざやって来たのであるから、そのくらいの予備知識はあって当然と思われるかもしれない。

 ところが、

「今では、うち一軒きりです」

 という答えが返ってきたのは、大田にも意外だった。

「だって2、3軒見えているじゃないですか」

「みなさん、離村なさいまして。大村さんが一昨年、田宮さんが去年…」

「ははあ、過疎というやつですかな」

「ここからは見えませんけど、一昨年の大雨で、大村さんも田宮さんも、山の畑をいくつも失ってしまって」

「それはそれは…。ご主人はおられますかな?」

「あのう、どなたでしょう?」

 ここでいつものように、大田は警察手帳を見せた。女が、ハッとした顔をするので、

「おや奥さん、どうかなさいましたか?」

「父母や主人に、何か事故でもあったのでしょうか?」

「と言いますと?」

「父が病気で、Sにある病院に入院していて、母と主人はその世話に行っております。私も行きたいのですが、子供の世話をしなくてはなりませんので…」

 Sというのは、この県の県庁所在地である。

 ああ、と大田は納得し、

「そうではないのです。古い事件の再捜査でして…。そういえば奥さん、先ほどは『父母』とおっしゃったが、あなたはこの家にとついで来られたのではないのですね」

 そう言い終わって、ふと気が付くと、さっきの子供らが二人とも、何をしているのだろう、という顔で縁側に立っているのである。

「うちの子たちです」

 と女は言った。

「ああ、息子さん方。それで?」

「ええ、私の主人は婿養子なんです。ここは私の生家で、家付きの娘ということになります」

 大田は子供らに軽く手を振り、

「そうですか。一人娘であったとは、お寂しいことで」

「いいえ、私には弟が二人おりました。どちらも戦争で死んでしまいましたが」

「おや、それはお気の毒な…。ここがあなたの生家であるとすると、小学校も中学校も、大野のへ行かれたので?」

「はい」

 と女の顔色は心持ち悪く、声も低かった。

「弟さん方もご一緒に? 毎日、あの貨物列車に乗って?」

「はい」

「17年前というから、きっとあなたがまだ中学生だった頃ですが、このあたりで何かありませんでしたか? 何か変わったことが…」

「どういうことでしょう?」

「そうですな…。普段あまり見かけない男がウロチョロしていたというような」

「いいえ、変わったことなんて、何もありませんでした。見かけない人もいなかったし」

 女は、確かにそう言った。

 声が震えているわけでも、大田と目を合わせることができないわけでもない。人によっては、

『彼女は、自信をもってそう断言した』

 と表現するかもしれないほどだ。

 しかし大田は奇妙に感じたのである。

 過疎のせいで、隣家すら存在しなくなった山中の一軒家。へたをすれば、家族の者以外とは何日も口をきかない環境である。

 そこへある日、刑事が突然やってきて、大昔の事件を再捜査している、と言うのである。

 普通なら、

『どんな事件だろう?』

 と好奇心を刺激されそうなものではないか。

 言っては悪いが、ここには退屈しのぎの噂話も、ゴシップも存在しない。テレビのまだない時代で、この山中では、ラジオの電波も届くかどうか。ここまで配達をしてくれるような奇特な新聞販売店があるとも思えない。

 人間とは本来、退屈しやすい動物なのである。少なくとも大田はそう思っている。何よりも、この女はまだ若い。

 それが、どうだ…。

 この女は平静すぎるのである。何かを心に決め、固く誓った目というか。

 まだ何か言いたそうな女を、大田は軽く手で制した。

「ねえ奥さん。17年前に何か起こっていたとしても、もうとっくに時効ですし、そもそも正当防衛だったのかもしれませんよ」

「…」

「ワシだって、昨日や今日、生まれたわけではありません。17年前に起こったことについて、ある程度の推理は立てているし、それが正しいという自信もある」

「…」

「先ほどは再捜査と言いましたが、正確には違うのです。もう引退した老刑事がおり、この人が、17年前に強盗犯に奪われた自分の拳銃のことをとても気にしているのです」

「拳銃?」

 女の表情が、ややピクリと動いたようである。

「ええ拳銃です。そんな危ないもの、強盗犯がどこでどんな事件に使い、誰かの命を奪ってしまうかもしれない。もう17年たったとはいえ、その拳銃を取り戻すことができない限り、老刑事は死ぬに死ねないという気持ちだろうと思います」

「その老刑事さんは、17年前の拳銃の発見を、あなたに依頼したのですか?」

 その言葉に、大田もやっと少し表情を崩すことができた。

「気位の高い人で、17年前の詳細をワシが知らないと思ったのでしょう。拳銃を奪われたのは自分ではなく、同期の同僚だと言ってましたが、ワシも刑事です。嘘はすぐに分かります」

「どうして?」

 ウフフ、と大田は笑い、

「私に再捜査を依頼するため、あの人は大阪まで出てきました。ある旅館に宿泊して、そこへ私を呼んだのです。もう夕方だったのに、行ってみると、宿に奥さんの姿はありませんでした。きいてみると、あの愛妻家が『家内は友人の家を訪ねて…』と答えるじゃありませんか」

「それがおかしいのですか?」

「本当に仲の良いご夫婦で、一晩と離れてはいられない人たちです。そんな奥さんを、日暮れ前から出かけさせるなんて、ありえない。ワシに嘘を話すところを見られたくなかったのですよ」

 女は、ごく小さな声で、

「まあ」

 と言った。

 ところがこの時、

「お母ちゃん…」

 と子供の一人が口を開いたのである。

「…お母ちゃん、おなかすいた」

 きっと、自分の母親が見知らぬ男と話し込んでいることに不安を覚えたのだろう。

「ああそう? 何かあげようかね」

 母親が子供らのほうへ行ってしまったので、大田は家の前を離れることにした。



 その後はいささか退屈であった。笹山駅へ戻ってみたが、駅長が言う通り、大野へ戻る列車は18時20分までない。

 幸い、ホームには小さなベンチがしつらえてあったので、大田はそれに腰かけ、考え事を始めた。

 実はハナから、大田は半田老人を少し疑っていたのである。

 理由は女に話した通りだが、本当はまだある。吉沢刑事が口にした新聞記者のことだ。

 事件の直後、『拳銃は本当に発見されなかったのか?』と、しつこく質問して歩いたという。

 あれはきっと半田本人であろう。我慢できずに休暇を取って大野へ現れ、新聞記者と偽って、みずから捜査を行ったのだろう。

「あの人らしいじゃないか…」

 と大田はつぶやいた。

 状況証拠でしかないが、大田にはもう一つ思い当たることがあった。半田老人はときどき、ツツッと痛そうに自分の足をさする癖があるのだ。あれが17年前の古傷かもしれない。

 笹山駅にさっきの女が姿を現したのは、大野行きの列車が到着する20分ばかり前のことである。おそらく子供らに夕食を取らせ、すきを見て駆けてきたのだろう。少し息を切らせている。

 大田は立ち上がって迎えた。

「刑事さん…」

「はい」

 張り詰めた様子で、前置きも何もなく、女は話し始めた。

「あの日はちょうど風邪のシーズンで、たくさんの子供がかかっていたんです」

「17年前のことですね?」

 女は、コクリとうなずき、

「この村の子供らもそうでした。みんな寝込んで…。だからあの日、登校したのは私と、私の二人の弟たちだけだったのです」

「あなたは中学、弟さんたちは小学校ですね?」

「ええ、弟は5年と6年でした」

「それで?」

「その帰り道のことです。大野の駅で、私たち3人はいつものようにあの客車に乗り込んだんです。椅子に座って本が読みたかった私がまず最初で、トイレへ行っていて、弟たちは少し遅れて乗ってきました」

「車内に隠れていた男には気が付かなかったんですか?」

 女は首を縦に振った。

「気が付きませんでした。ホームに停車している間中、外から見られないよう、イスの陰に身を隠していたのだと思います」

「そりゃまあ、指名手配犯ですからな」

「汽車が動き出して、ガタンと揺れた直後、弟たちがやっと飛び込んできました。デッキから客室へと入って来たんですが、その時には私は、その男の人につかまっていたんです」

「列車は、そのまま駅を出ていった?」

「はい。スピードはどんどん増していきます。駅のあたりの線路は平らだけど、少し行くと、きつい上り坂があるので、機関車は力いっぱい走るんです…」

「それで?」

 と、その先を尋ねるのは、大田にも少しつらかった。

 だが女は続けたのである。

「男の人は、私に乱暴しようとしたんです…」

「どんな男でした?」

「中年で背の高い…。色が黒くて、顔にはしわが多くて…。腕力もあるんです」

「同じ客室には、弟さんたちもいたのでしょう?」

「男の人は気にしませんでした。『ガキどもか』とか言っていたと思います。男の人は拳銃を持っていて、最初は私に突きつけました。『服を脱げ』と言いました…」

「…」

「そこでやっと、男は弟たちの存在に気づいたんです。今度は弟たちに拳銃を突きつけようとしましたが、その前に庄司が、男の人の腕にかみついていたんです」

「もう一人の弟さんは?」

「良一は、庄司よりも頭が切れました。とっさに通学カバンの中に手を入れ、何か武器になるものを探したのです」

「それがソロバンか…」

「えっ?」

「田中乱造の服のポケットの中から、ソロバン玉が発見されましてね…。いや、それはいいんです。その先は、どうなりました?」

「もみ合っているうちに、男の人は拳銃を床に落としてしまいました…。私が拾って、男の人に突きつけたんです。とても重かった」

「男は、どうしました?」

「弟たちの思わぬ抵抗で怒っていたのが、もっと怒り狂いました。あんまり強くたたいたので、良一のソロバンは、とうとうバラバラに壊れてしまいました。男の人は、口のまわりや顔中から血を流していました。反撃しようとするのですが、良一が私の手から拳銃をもぎ取り、後ろに回って、ついに男の背中に押し付けたんです」

「最後は、どうなりました?」

「銃を突きつけたまま、3人で男の人をデッキまで押していきました。そこはちょうどドアが開いていて…」

「だけど子供3人の力では、その先のことは難しかったと思うが…。客車のデッキは狭いし」

「ちょうど列車が、ガクンと大きく揺れたんです。本当です。本当なんです。体のバランスを崩して、男の人は落ちてゆきました…」

 何十秒かの間、大田も女も口をきかなかった。

 だが沈黙を破ったのは女のほうである。

「刑事さん、これ…」

 そう言って差し出したのは、丸めて何かを収めた布である。受け取るとずっしりと重く、開かなくても中身は簡単に見当がついた。

「これをどこに?」

「あの日以降も、良一がずっと持っていたんです。証拠隠滅というんでしょうか?… だけど、どこに捨てていいか分からなくて、納屋の床下にずっと押し込んでありました。すいません」

「いやいや、お詫びをするのはワシですよ。こうして勝手に押しかけてきたのですから」

「…」

「気になさることはありますまい。17年前のことだから時効だし、そもそも正当防衛です。この拳銃を持っていたことだけは違法性がありますが…」

「捨てるようにと、弟に何回も言ったんですが…」

「いやいや、へたな捨て方をして、地元警察に見つかっても厄介でした」

「どうしたら、いいでしょう?」

 ここで大田は、後々自分で思い出しても冷や汗をかくような発言をしてしまった。

「この拳銃のことは、ワシが何とかしますよ。本来の持ち主とも相談して、バレないようにうまくね…」

 相手を安心させてやりたい一心で出た、ほとんど出まかせのようなセリフである。

「…それにしても、弟さんがお二人とも戦死されたとは、まことに残念なことですな…」



 2日後、大田は大阪に戻ってきていた。暇を見つけて、例の脇本陣へ半田を訪ねたのは、さらにその数日後のことである。

「ああ大田さん、本当にご苦労なことでした…」

 大田を迎え、半田は下へも置かぬ様子である。すぐに座布団をすすめ、茶を言いつけた。前回とは違い、この日は細君もこの場にいたのである。

『あれあれ?…』

 大田は少し戸惑ったが、まあいい、と思い直した。

「奥様の前でお話ししても、よろしいので?」

 と、うやうやしく小声で話しかけたものだが、

「どうしてです?」

 と半田は不思議そうな顔をする。

『ははあ、隠し事が心苦しくなって、ついに女房に白状したのだな…』

 とは思ったが、表情には出さず、大田は続けた。

「これなんです」

 と大田がポケットから取り出し、畳の上に置いたものがある。だが、もちろん拳銃ではない。もっともっと小さく、爪楊枝ほどのサイズしかないネジなのだ。それも1本きり。

「これですか」

 と半田老人も身を乗り出すようにする。 

「部品の一つ一つまでバラバラに解体して、ご指示通り昨日、大阪湾に捨ててきました。ええっと、ブローニング社ですか。教えていただいた製造番号とも一致しましたので」

 と大田の顔は大得意である。

「なんですの? そんな小さなネジ…」

 と細君が言うので、半田老人が説明した。

「これがね、佐々木君の拳銃のネジなのだよ。大田さんがS県で拳銃を見つけてくださって、だけど、そのままでは佐々木さんにお返しできない。銃刀法があって違法だからね。だから大田さんがわざわざ解体して、ネジ1本にしてくださった…」

「まあ…、ではさっそく、佐々木さんをお呼びしましょうか?」

「ああ、それがいいね」

 立ち上がり、細君は部屋から消えた。だけどすぐに、別の女を連れて部屋に戻ってきたのである。

 連れてこられた女も、半田老人の細君と同年配で、いかにも上品な老婦人である。

「大田さん、こちらが佐々木君の奥様でしてな」

 と半田老人が紹介するが、

「えっ?」

「ほら、17年前に拳銃奪われて自殺なすった方の…」

「ああ」

 やっと大田も意味が分かったのである。

『やや、これは失敗した。とんでもない思い違いをしておったぞ。口に出さなくて良かった』

 と思わず腹の中で舌を出しかけたが、その間に半田老人は例のネジをつまみ上げ、佐々木夫人に手渡していた。

「佐々木さん、これがご主人の拳銃ですよ。解体せずにそのままお渡しできればよかったが、法的にそうもいきませんのでね」

 佐々木夫人は、その小さな物体を手のひらの上に受け取り、

「これは今まで、どこにありましたの?」

「ご安心なさい。ここにおられる大田さんのお調べで、17年間ひとところを動かず、犯罪には使われていないと判明しました。きっと佐々木君も喜んでいるでしょう」

「まあ…」

 手の中に包んだまま、佐々木夫人はネジに頬ずりをする。

「…主人はこれを、とても熱心にいつも手入れしていました。よく思い出します…。奪われてしまった後は、それはそれは心配して…」

 そのまま、部屋の中には老婦人の泣き声だけが聞こえることになってしまい、大田はどうしていいか分からなくなった。



 大田の元へある手紙が届いたのは、一か月ほど後のことである。

 差出人は、笹山村に暮らすあの女であった。別れぎわに大田は、名刺を手渡しておいたのである。



大田警部様

名刺を残して行かれたので、このお手紙を書いています。無事に帰阪されましたでしょうか。

まず、あのとき嘘をついたことをお詫びさせてください。

本当は田中乱造とは、あの列車の中で出会ったのではありません。

田中乱造は、私の叔父でした。父の弟にあたります。

だけど警察の人たちは、そのことを全く知りません。戸籍にも何にも、記録が残っていないのです。

17年前の事件の時にも、私たちの家へ聞き込みの警察官が顔を出すことさえありませんでした。

叔父は、生まれてすぐ、他家へ養子に出されたのです。昔のことだから、無届で養子に出すことも、まかり通っていたのでしょう。

「警察に追われているから、かくまってくれ」

そう言って17年前のある日、叔父は突然、私たちの家へやって来たのです。

叔父はお金を持っておらず、誰かから奪ったという拳銃以外には、所持品もありませんでした。

私の父は、叔父から見れば兄ということになりますが、父は非常に厳格で、きびしい人でした。

そんな父ですから、

「大阪のほうで強盗をして人を殺し、刑事から拳銃も奪ってきた」

と自慢げに話す叔父を許すはずがなかったのです。

この会話は、ある夜の夕食の席で話されたのですが、すぐに叔父と父は、取っ組み合いのけんかになりました。

あの時、笹山駅のホームの上で、大田警部様がふと、

『ソロバンだな』

と、つぶやかれたのが、私が作り話をするヒントになりました。

そうです。叔父を殺害する凶器として父が使用したのが、ソロバンだったのです。

だけど考えてみてください。叔父は拳銃を持ち、父に向けて、今にも引き金を引こうとしていたのです。

事実、叔父は一発を発射しました。だけど幸い、それは父を外れ、壁に穴をあけるだけですみました。

そのすきに父は反撃したのです。

ソロバンで頭を横向きにはたかれ、ひるんで叔父は拳銃を落としました。

無我夢中で、父はとても強い力で何回も叔父を殴ったのです。分厚い木で作られた頑丈なソロバンが壊れてしまったほどです。

そのケガが原因で、叔父は死にました。 

大田警部様とお会いした時、笹山駅のホームの上で、実は私はドキドキしていたのです。

「もしも、ソロバン玉の種類が違うことがバレてしまったら、どうしよう」

私の作り話の通りに、弟たちが叔父を殺したのだとすれば、ポケットの中から発見されたのは、小学生が使う小さなソロバンの玉だったはずです。

だけど実際に父が使ったのはそうではなく、家の中で使う大きなソロバンだったのです。私の母は商家の娘で、その嫁入り道具でした。

叔父が死んだ後のことですが、私たちは真夜中を待ち、家中の者が手伝って死体を運びました。

こんな山中のことですから、誰に見られることもありませんでした。

何キロも歩いて、高い土手の上へ運び、そこから叔父の死体を下へと落としました。ちょうど線路の真横にあたります。

あそこは、ほとんど垂直のように落差のある場所なので、叔父の死体は、何度も岩にぶつかりながら落下していったのです。

先日お会いした時には、

「父はSの病院に入院している」

と申し上げました。

それは本当のことです。

昨日、父は死亡いたしました。

ですから、こうして真相をお話ししてもよろしかろうと考えたのです…。



 そう手紙は終わっていた。

 これを読み終えると、大田は思わず、苦虫をかみつぶしたような顔になった。本当にそうだったのである。

 いまいましそうに、手紙をクシャクシャに握りつぶしてしまったほどだ。

「なんて女だ…。17年間、拳銃を隠し持っていた事情も分からないではない。それはいい。

 だけど人が証拠隠滅の罪まで犯してやったのに、今さら、

『実はこうでした』

 とネタばらしをされてもな。

 クソッ。

 ワシはもう金輪際、女というやつを信用しないぞ」 

 と大田の決心は堅かったのである。



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― 新着の感想 ―
[一言] 太田君ダメダメ回。なんて失礼良いお仕事(大岡越前的、しかもダブルプレイ)なさいましててさすがです。曲がりなりにも、というより全然違っていたのに帳尻が綺麗にあってるのが華麗、最後に怒っていらっ…
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