食堂車
世の誘拐犯人たちが送ってよこす脅迫状というのは、どの事件でも、いつの時代でも、なぜか似通ったものであるらしい。
『お前の子供を預かった。警察には絶対に知らせるな。150万円、用意しろ。また連絡する』
これを受け取ったのは、岡山県に住むあるアメリカ人である。
若い時分に、英語教師として県内のある学校へやって来たが、最初はほんの腰かけのつもりでいたのに、日本という国が気に入って、ついには住み着いてしまった。
教師の職は何年も前に辞したけれど、本国から婚約者を呼び寄せ、ある事業を起こしたのである。
幸いにもこの事業は成功して軌道に乗り、それなりの財産を築くことができた。呼び寄せた婚約者とはもちろん結婚し、子供も生まれた。
少し年がいってからの子供だから、それゆえに息子が可愛くもあり、先日は外国人専門の小学校への入学を祝ったところである。
そこへ、この脅迫状だ。調べてみると、子供の姿は確かに屋敷から消えている。
この日は平日で、朝、子供は学校へと向かったが、その登校の道すがら、誘拐されたものらしい。
警察へ知らせるか知らせないか、父親としては最大の悩みどころであろう。
妻に相談しようにも、性格の不一致とやらで、別居を始めたばかりである。妻は派手好きな性格で、静かな地方都市はお気に召さなかったらしい。たまたま同じように来日していた友人を頼り、大阪へ行ってしまったのである。
いくら県庁所在地とはいっても、岡山よりは大阪のほうが、はるかに華々しい町ではあろう。
主人である父親本人のほか、屋敷にいるのは使用人ばかりであり、そうであれば、すべてを父親一人の手で決定しなくてはならない。
「大阪へ事情を知らせても、妻は興奮して取り乱すばかりで、何の役にも立つまい…」
やがて父親は、震える手を電話機に伸ばしたのである。
通報を受けた岡山県警は、もちろんすぐに最大の捜査態勢を敷いた。秘密裏に捜査本部が置かれ、被害者の屋敷へ出入りするのにも、近所の酒屋のハッピを借りて、無関係な御用聞きに化けるという念まで入れた。
だがその警戒態勢も、岡山県内に限られていた。情報の漏洩を恐れて、隣県警察に耳打ちをすることは、はばかられたのである。
だからもちろん、岡山県境を一歩でも超えたところでは、こんな誘拐事件が起こっていることなど、誰ひとり夢にも知らなかった。
「これは普通列車なのに、なぜ食堂車が連結されているのだろう?」
と大田は不思議に感じたが、腹が減ったので、ひとつ食事に行ってみることにした。
姫路駅でこの列車に乗り込む時、ちょうどホームの上を歩いていて気が付いたのである。茶色い車体に白い文字で、『食堂車』と書かれた1両が、確かに編成の中央あたりに連結されているのだ。
隣の客車との蛇腹になった連結部を通り抜け、足を踏み入れると、本当に食堂車であり、営業もしていた。
大田はすぐにテーブルに着くことができたが、食事をしている客はごく少ない。
本当の話。大田以外にはたった一人、すみのテーブルで中年の男が、チビリチビリとビールを飲んでいるだけなのである。
水の入ったグラスを持って、ウエイトレスが近寄ってきたのだが、メニューも見ずに、
「カレーライス」
と大田は注文した。あれこれ迷うことが面倒くさい男なのである。
短くなった鉛筆で伝票にサラサラと記入し、ハイとウエイトレスが去ろうとするのを、大田は呼び止めた。
「ねえあんた、これは普通列車なのに、どうして食堂車が連結してあるんだね? 客も少ないが…」
ウエイトレスは水色の制服を着て、まだ25歳にもならない若い女だが、一瞬、鼻にしわを寄せた。
「私たちも困っているんですよ。お客さんの数が少ないのは、こんな時刻のせいばかりじゃなくて…」
時刻のせいというのは、まあその通りであろう。今は昼の3時過ぎなのである。昼食には遅いし、夕食には早い。
公用で大田は姫路署に出張した帰り道なのだが、忙しさで昼は食べそこねていた。
何がどう困るのか、ウエイトレスの説明は、少し大田を驚かせた。
「この列車は、今は大阪行きで、東を向いて走ってますけど、本来なら西へ向かう下り列車なんです。それも普通列車じゃなくて、本当なら特急なんですよ…」
午前10時少し前、この列車は下関行き、下りの特急『さいごく』として、大阪駅を出発した。特急列車であるから、食堂車があっても何の不思議もない。
「それから神戸を過ぎて、姫路を過ぎるまでは順調だったんです。お昼からの営業に備えて、料理の仕込みも終わってました。ところが岡山の少し手前で…」
山陽本線の列車である。それが兵庫県から岡山県に入ったころ、前方のある場所で、がけ崩れが起こってしまった。
昨日の雨で地盤がゆるんでいたらしい。山が崩れ、線路を完全にうずめてしまったのである。
山陽本線とは、その名の通り山陽地方を東西に貫き、基本的には瀬戸内海に沿って平地を走るのだが、山がちな部分もないわけではない。
例えば、兵庫県と岡山県の県境あたりがそうで、線路はグネグネと曲がりながら、山中を進む。
「へえ、がけ崩れねえ…。ひどいのかい?」
「ひどいも何も、その区間は完全に不通になりました。復旧に2日や3日はかかるそうで、だからこの『さいごく』も…、あれはどこの駅だったかしら? 和気駅あたりで足止めを食って、30分ばかり停車していたのだけど、結局あきらめて、普通列車として大阪へ戻ることに決まりました。お客様は、姫路から乗られました?」
「うん、そうだよ。でも姫路駅じゃ何も言ってなかったし、普通列車として、時刻表通りにホームに入ってきたがねえ?」
「岡山発で、大阪行きの第1234列車という普通列車があるんです。だけど1234列車は、がけ崩れの西側にいるから、こちらへは来れない。だから、この特急がその身代わりになって、1234列車のダイヤで大阪まで、普通列車として代走することになったんです」
「へえ」
「普通列車の切符で特急車両に乗ることができて、お客様は得をしているんですよ」
「そんなもんかねえ」
と思ったが、大田はそれ以上は何も言わなかった。列車ダイヤになど、あまり関心のない男なのである。
カレーをゆっくり食べ終え、グラスの水のお代わりをもらおうかなどと大田が思っていたときのことである。不意に気が付いた。
背後のどこかから、人の話し声が聞こえるのだ。
「あれれ?」
大田はキョロキョロしたが、ウエイトレスは遠くにいて、勘定台にいる別の女と、なにやら小声でおしゃべりをしている。
さっきのビールの男に至っては、いつの間にやら、いなくなっているではないか。人影もないのに、誰の声が耳に届いたのだろう。
大田は少し気味悪く感じたが、すぐに状況を理解することができた。
食堂車内で、大田はすみのテーブルに座っている。そこは調理室からは最も遠く、壁に背中を向けて座る形になる。
その壁の向こうが喫煙室なのだが、同じ車両の中に作りつけられた小部屋で、大田のいる場所からはドア一つをへだてている。
喫煙室にはソファーがあり、灰皿も備えられている。食堂が混雑している時の待合室としても使うのだろう。
そこに誰かがいるのだ。
喫煙室へ通じるドアは今は閉じているのだが、すりガラスの向こうに人影を見ることができた。
列車は走り続けており、床下からはコトン、コトンと車輪の音が響くが、それを押しのけて、声が大田の耳に届くのだ。
「何をやっているのだろう?」
カレー皿を押しやり、大田は立ち上がった。ドアに手を伸ばすのは造作もない。ドアを開くと、2人の人物が見えた。
一人は男で、一人は子供。
男のほうは制服姿だが、普通列車とは違う専用の制服だから、本来ならば『さいごく』の車掌であろう。それが今日は、そのままこの普通列車に乗務しているわけだ。
この車掌がしゃがんで視線を低くし、子供に話しかけているのだ。車輪の音に負けないよう、大きな声を出していたらしい。
子供のほうは男の子で、年は小さい。背丈から見ても、おそらく小学生だろう。
いかにも金持ちそうな、濃緑のちょっといい服を着ている。頭の上には帽子をかぶり、靴下も真っ白で、革靴をはいている。
向こうを向いているので子供の顔は見えないが、車掌は好意から話しかけているのであって、叱ったり、問い詰めたりしているのではない感じがする。
気が付くと大田は、喫煙室へ入り込んでいた。
まず車掌が気付いて、顔を上げたが、すかさず大田はポケットから取り出して、警察手帳をチラリと見せた。よくよく慣れた、いつものしぐさなのである。
「どうかしたんですか?」
「迷子なんですよ」
と車掌は答えた。
「迷子?」
「どうやら親御さんと、はぐれたらしいんですがね」
ここでやっと、大田は気が付いた。これまでは背中しか見ていなかったので、気が付かなかったのである。この子供、なんと白人なのだ。
髪が黒いので、顔を見るまでは分からなかった。
『えらく肌の白い男の子だな』
とは思っていたが。
大田の声を聞いて振り返り、不安そうにこちらを見上げる瞳は確かに青い。
「アメリカ人だろうかね?」
「分かりません…」
と車掌も自信なさげである。
「…日本語がまったくしゃべれないようですから」
車掌と並んで大田もかがみ、子供と目の高さを合わせることにした。ひどく不安そうな顔をしているが、まだ泣いてはいない。
『だけど、それも時間の問題だろうな』
とは大田の感想である。
「刑事さんは、英語が話せますか?」
と車掌は顔を向けるが、
「いやいや、全然だめですよ。ワシの兄は優秀で、学生時代には進駐軍で通訳のアルバイトをするほどだったが…」
「親御さんとはぐれたのならと思って、ここまで一緒に手を引いて、車内をずっとめぐって来たんです。列車の最後尾からね」
「へえ」
「ところがここまで来て、この子がとうとう動かなくなってしまった。私も、ずっとこの子の面倒ばかり見てはいられなくて」
「そりゃあ列車は、各駅に停車しますからな。すると、この食堂車よりも後ろは全部、すでに見て回ったので?」
「ええ。でも、親御さんらしい人は見つかりません…。弱ったな。ここまで来て、エンコしてしまった」
エンコと聞いて、
『ふふふ、古い言葉だ』
と大田は少し笑いそうになった。
ダダをこねて、子供がこれ以上は歩かなくなることである。
「いや車掌さん、この子がエンコしたのは、きっと足が疲れたからでしょう」
手を取って子供をソファーに座らせ、車掌を残し、大田は再び食堂車のドアを開けた。さっきのウエイトレスに声をかけたのである。
「あのちょっと…、子供に飲ませるから、ジュースを1本もらえんかな? ビンのままでいいから」
すぐにウエイトレスはその通りにしたが、カレーライスの分と合わせて、その代金は大田が支払ったのである。
やはり大田のカンは当たっていたのだろう。栓を抜いてビンを差し出すと、子供はすぐに飲み始めた。
「さて車掌さん、これからどうしますかな?」
「ここまで来たら、乗りかかった舟です…。いや、そういう言い方はおかしいかな? とにかく列車の一番先頭まで、この子を連れて、行ってみますよ。考えてみると、外国人の乗客なら、1等車や2等車のほうに、いそうですからね」
車掌の言う通り、この列車の食堂車よりも前は、すべて2等車と1等車なのである。
数分後、ジュースを飲み終え、すっかり機嫌を直した子供を連れ、大田は車内通路を歩いていた。車掌にかわり、この子供の連れを探しに出かけたのである。
「いやいや、お客様にそのような仕事をさせるわけには…」
と最初は車掌も遠慮していたが、
「いいじゃないですか。大阪へ着くまで、ワシも暇だし、警察の仕事は犯罪捜査だけではありませんからな。あなたも言ったが、これも『乗りかかった舟』ですよ…」
と押し切ったのである。
本当の話、車掌の仕事はこれから忙しくなる。特急用の編成だからこの列車は長いし、時刻は午後遅く、そろそろ中高生が下校を始めるころである。
特急用の車両は乗車口が少なく、駅に停車しても、乗降には時間がかかる。残る一人の車掌だけでは、てんてこ舞いになるであろう。
子供はおとなしかった。黙って大田のあとをついてくるし、客車の連結部を渡る時には手を取ってやる必要があるにしても、グズることはない。
『よくしつけられた、いいところの子だな』
と大田が思ったほどである。
案内人の交代は、身振り手振りで、なんとか子供も理解してくれたようだ。
車掌の言う通り、食堂車を抜けると、すぐに2等車になった。
蒸気機関車の時代には、編成の前から後ろへ行くにしたがって、車両のクラスが高級になってゆく。
一番低いクラスとは荷物車で、これは機関車のすぐ後ろになる。ここでは当然、機関車の吐き出す煙をたくさん浴びなくてはならない。
荷物車の次が3等車で、煙は少し減る。
その次が食堂車で、その次が2等車。最後が1等車である。
1等車までくれば、もう機関車の煙を吸い込むことはない。
ただ今、大田が乗っているのは特急ではなく、代走の普通列車である。しかも目的地へは到達せず、途中で後戻りをしてきた編成だ。だから通常とは逆に、蒸気機関車のすぐ後ろに1等車がつながっているのだ。
その次が2等車、食堂車、3等車、荷物車というぐあい。
しかし2等車をすべて通り抜けてしまっても、子供の連れと思われる人物は見当たらなかった。
次はいよいよ1等車である。
この列車に連結されている1等車とは、いわゆる展望車であった。編成中に、たった1両しかない。
普通運賃の4倍もする『白切符』を購入する乗客は、それほど少なかったわけである。
もちろん大田は、それまで1等車の車内になど足を踏み入れたことはなく、役得というか、少しは楽しみにしなかったわけではない。
『2等車でさえ、イスはリクライニングで、白いカバーまでかけてあるのだから、1等車の車内はさらに豪勢に違いない…』
ところが、子供を連れて車内通路を進む大田に、その男が不意に話しかけてきたのは、
『さあ、この蛇腹をくぐれば、いよいよ1等車だ』
というときのことである。
「ちょっとあんた」
見ると、安っぽい背広姿の、あまり背の高くない男である。もちろん大田に見覚えはない。
あんたは誰だい、と尋ねようとしたが、とっさに大田は口をつぐんだ。そうするほうが良い、とカンが働いたのである。
散髪屋に行ってから時間のたっている髪、そってはいるが、丁寧な仕事ぶりではないヒゲ、ズボンのしわなどが理由だったのかもしれない。
男はさらに言葉をつづけたが、少し細いけれど、その声は意外にも耳に快いバリトンであった。
「遅かったじゃないか」
と男は言うのである。それからチラリと子供を見て、
「この子かい?」
「う、うん」
大田は返事をごまかしておいた。大田の背後に立ち止まり、不思議そうな顔で、子供は大人2人の顔を交互に見上げている。
男は言葉をつづけた。
「一番先頭の客車で待ち合わせる、という約束だったろ? それがなぜか、今日は先頭に1等車が連結されてやがってな。俺は明石から乗車したんだが、車掌が2回も通りがかって、そのたびにトイレに隠れるのが面倒だったぜ」
返事を期待して男が見つめるので、大田は仕方なく口を開いた。
「そうかい?」
「まあいいや。こうやって落ち合えたんだ。じゃあその子は、俺がもらうぜ」
「この子には、もう事情が話してあるのかい?」
男はフッと笑い、
「岡山の屋敷を出る前、屋敷の乳母が…、乳母は英語ができるんだが、この乳母が説明して納得させてあるはずだ。離婚して離れ離れになった母親が、大阪で待っているとね」
「この子の両親は離婚していたのか」
「まあな…。ははあ、ナリはでかいが、お前はただの下っ端だな。何も聞かされてねえときた…。だが、それでいいのよ。お前はただ、このガキを岡山からここまで連れてきた。さあ、そのガキを寄こせ」
男は手を伸ばしたが、大田はその前に立ちふさがったのである。
「何をしやがる?」
肩をそっと押して、大田は子供をもう一歩下がらせ、
「ワシは岡山からここまで、この子供を連れてきたんだ。もらうものを、もらわなきゃ、引き渡すことはできないね」
「てめえ、何を言いやがる?」
「お前たちはこの子の親から、いくらせしめるつもりなんだ? これは誘拐だろう?」
「へっ、日本語の全く分からないお坊っちゃまは、自分が誘拐されてきたことにも気づいちゃいねえ…。まあいいや。お前の仕事ぶりも多少は評価しないとな。だけどお前も、沢口の親分から、いくらか、もらっているのだろう?」
フンと大田は鼻を鳴らした。
「あんなはした金じゃあ、全然合わないね」
「いくらもらった?」
「1万」
「おやおや、誘拐罪の片棒を担がされるにゃあ、確かに1万円じゃ、ちっと安いかもな…」
これはいったいどういう人物なのか、そう言いつつも男はポケットからサイフを取り出し、紙幣を一枚抜き出したのである。
「…いいってことよ。これじゃあ、お前の得た金の半分にしかならねえが、まあ受け取りな」
そうやって大田に手渡したのが、5000円札なのである。この時代、大学卒業者の初任給が1万円ほどだから、決して安い金額ではない。
『この男は、へんに気前がいいのか? それとも、受け取り予定の身代金が、それほどに高額なのか』
と大田は頭を働かせたが、文句は言わずに受け取っておくことにした。まるで寺院に参拝するときのように、片手ではあるが軽く拝み、自分のサイフの中にしまったのである。
「じゃあワシは、これで消えるよ」
と大田が言うのに、
「ああ、ご苦労だったな。沢口の親分には、よろしく言っといてくれ。子供の身柄は大切に扱うからな」
子供は、まだ不思議そうな顔をして、大人二人を見つめている。そこへ、
「おっと、そうだった」
とつぶやき、男がポケットから取り出したものがある。
大田はチラリと視線を走らせたが、白い紙に書かれた英文の手紙のようだ。手渡されると、折りたたんであるのを広げ、子供はむさぼるように読んだ。
「何の手紙だい?」
と大田が問うと、男は、
「母親からの手紙さ。もちろん筆跡は偽装したものだがね。子供にはバレっこない」
「ははあ、見ず知らずの大人に手を引かれて家出することを、どうやってこの子に納得させたのかと思っていたが、そういうカラクリか」
「ああ、屋敷から連れだす時にまず1枚。で、これが2枚目の手紙さ」
「なんて書いてある?」
「この手紙を持っているオジサンはママのお友達だから、信用してついていらっしゃいとね」
「ふうん…」
大田は眉を上げたが、無関心そうに続けた。
「…そうかい。まあワシには関係ないわな。じゃあワシは消えるが、あんたはここに残るのかい?」
「ああ、今から3等車まで行くには、もう足が痛すぎらあ。ここにいるよ。大阪まで、もういくらもありゃしねえ」
「そうかい? じゃあな」
「ああ、ご苦労だった」
子供に軽く手を振り、大田は通路を歩き始めた。もちろん、後ろ髪を引かれなかったわけではない。しかし、他にやりようがないのだ。
あの男は、銃を持っていた。
先ほどサイフを取り出すとき、ポケットの中にチラリと見えたのである。子供は気が付かなかっただろうが、あるいは大田に見せるため、わざとそうしてサイフを取り出したのかもしれない。
第二次世界大戦が終わってまだ長くないこの時代には、闇社会には大量の銃が残り、出回っていたのである。
ところが、今の大田は丸腰なのだ。姫路へは捜査活動ではなく、会議のために出かけていたにすぎない。
男と子供から離れて一人になり、大田は2等車の通路を突き進んだ。大変な急ぎ足なので、周囲にポツポツと座っている乗客たちが不思議そうに視線を向けてくるが、気にしてはいられない。
おそらく大田は、目を血走らせていただろう。
2等車を1両通りぬけ、やっと2両目にさしかかった時、そこにさっきの車掌の姿を見つけることができたのは、ただただ幸運というしかない。
「車掌さん、大変だ」
乗客の一人に向かって、乗り換えの案内をしていたが、ただならぬ声に、車掌はギクリと振り返った。
「どうしたんです、刑事さん?」
大田は、ポケットから取り出した自分のサイフを車掌の手に押し付け、
「あの子をほってはおけない。もしもワシが撃たれて死んだら、この中にある5000円札を警察に渡して、指紋を取ってもらってください。どうせ下っ端だろうが、誘拐犯の一味です。そこから主犯が割れるでしょう」
「なんですって?」
「黒幕の名は、沢口の親分というそうだ。ワシには見当もつかぬが、きっと岡山県警にきけばわかるだろう」
「それって…」
「この列車が大阪に到着するまでが勝負なんだ。ワシは一人だが、なんとかしなくちゃならん」
「何を言ってるのです? それだけでは、まったく意味が分かりませんよ」
車掌の言うことももっともなので、大田は説明を始めたが、この時ほど自分の口の動きの遅さ、言葉のまどろっこしさを恨んだことはない。だが幸いにも、車掌は察しの良い男だった。
「じゃあ刑事さん、さっきの外国人のお子さんが、岡山のどこかから誘拐されてきた子だと言うんですか?」
「本当は人違いなんだが、犯人はそう思い込んでる。これは本当は、1234列車じゃなくて、岡山の手前で折り返してきた別の列車でしょうが」
「ははあ」
「いやいや車掌さん、感心している場合ではありませんぞ」
と大田が言ったのは、その時の車掌の表情が、何とも奇妙だったからである。
車掌も、少しは深刻そうな顔をしていた。しかしその中に、ニヤリとした笑い顔を一瞬、走らせたのである。
「ねえ車掌さん…」
「いや刑事さん、私が笑ったのは、なにも面白いからではありません。ついさっき、須磨駅で停車した時なんですが、駅長からこんな電報を渡されましてね」
「なんです?」
「これを読めば、いくら子供を守るためとはいえ、銃弾の前に丸腰で立ちふさがる必要はない、と刑事さんもお分かりになりますよ」
そう言って上着の内ポケットから紙を取り出し、車掌は大田に手渡したのである。大田は受け取り、不信そうに目を通した。
あまり大きな書類ではない。縦に細長い書式は、国鉄内部でメッセージのやり取りに使われる正式のものである。
黒インクで走り書きされた文面だが、それを目で追い、驚きのあまり、大田は口を大きく開けた。
それから車掌と同じように、大田もニヤリと笑ったのである。
「それで大田さん、その先はどうなったのです?」
大阪府警へ戻り、上中・警部補の前で大田は、特急『さいごく』改め、代走普通・第1234列車での出来事を話してやっているところである。
事件はつい昨日のことなのであるが、身振り手振りに加えて、大田の表情は輝き、その顔つきは、いささか自慢がかっているが、そういうことも、上中なら今さら、どうこうは思わないだろう。
大田は続けた。
「列車はそのまま東へと走り続け、ついに神戸駅へ滑り込んださ。そこで停車するのも待ちきれず、ワシは車掌と一緒にホームに飛び降り、鉄道公安官たちを呼び寄せたのだよ」
「鉄道公安官ですって? よくもまあ近くにいたもんだ。それで犯人を逮捕できたわけですね。公安官たちはうまくやってくれましたか?」
「そりゃあ2名の公安官と合わせて、3名で男を取り囲むのだもの。客車の狭い通路の中じゃ、暴れまわることもできんしね。子供ももちろん無事だった」
「だけど不思議だな。よくも公安官が、運よく近くのホームにいたものですね」
その発言に、嬉しくてたまらないというように、大田はウフフ笑いが止まらない。どう見たって子供のような顔つきである。
「いやいや上中君、その直前に車掌から見せられた電報に、秘密があるのだよ」
「ああ、そういえば…。何が書いてあったんですか?」
「あんまりうれしかったから、後で車掌から借りて、そっくり書き写したのがあるよ。これさ…」
そう言って胸ポケットから取り出した紙を、大田は机の上に広げたのである。
上中は目をこらした。
まず紙の上部に、日付を書き入れる欄があり、電報の『宛先』は、
第1234列車・常務車掌殿とある。
『差出人』は、
大阪鉄道管理局の列車指令であり、経由した須磨駅・電信手のサイン付き。
内容は、
『姫路駅にて発生した迷子(男子1名 外国人 白人 8歳)の車内捜索のため、神戸駅より鉄道公安官が2名、貴列車に乗車する予定。必要な援助、便宜を与えられたい』
事情はこうであった。
大田が手を引いた子供は、もちろん例の誘拐被害者ではなく、全くの別人だったのである。大阪駅から『さいごく』に乗車し、父親とともに旅行中だった。
アメリカ人の一家で、九州に住む友人を訪ねるための旅行だったが、体調の良くない母親は大阪の家に残り、父親と息子だけだった。
『さいごく』が姫路駅に停車した時、子供は座席で眠りこけていたが、父親はいささか酒癖の悪い人物で、これ幸いとホームに降り、酒を買い足そうとしていた。
ところが、その間に『さいごく』は発車してしまったのである。ホームを出て遠ざかってゆく汽笛に酔いもいっぺんにさめ、父親は駆け出したが、もう遅い。
『さいごく』は行ってしまった。
すぐに駅員をつかまえて事情を説明し、父親は助けを得ようとした。しかし運の悪いことに、息子と同じくこの父親も、まったく日本語が話せなかったのである。
だから意思の疎通に時間がかかり、鉄道公安官の手配が大きく遅れてしまった。
「すると大田さん、その間に『さいごく』は、ガケ崩れに行く手をふさがれ、上り普通列車として代走することが決定したわけですね」
「それ以外に幸運もあったのさ。『外国人の乗客ならきっと2等車だろう』と考えて、神戸駅の公安官たちが、2等車の停止位置近くに待機してくれていたのが一番助かったよ」
「だけど、車内で犯人から渡された手紙があったでしょう。それをその子はどう読んだんですかね? その子の両親は離婚なんかしていないわけでしょう? 体調が悪くて、母親は大阪の家に残っただけで」
「ああ、そのことかい。その子の母親は、何でもタイプライターでタイプする人なので、子供は、母親の手書き文字をほとんど見たことがなかったという落ちだそうだ」
「へえ…」
「見知らぬオジサンについて行けと手紙で突然言われても、子供だから、あまり不思議にも思わなかったらしいしな」
「へえ…」
ところがここで上中は、突然何かに気づいたような顔をした。
「…でも大田さん、岡山のほうの件はどうなったんですか?」
「んー、なんだって?」
と何が気になるのか、壁の時計を眺めていたが、大田は面倒くさそうに振り返った。
「もう一つの誘拐事件ですよ。岡山県内に住んでいる別の白人の子供が誘拐されて、一味の者に連れられて、1234列車に乗っていたのでしょう? 山陽本線が不通になったから、結局、誘拐は不成功に終わったはずですが」
「ああそれ? ワシは知らんよ」
「どうしてです?」
「拳銃の不法所持で逮捕されたバリトン男は、神戸の兵庫県警が捜査するし、岡山の件は岡山県警の管轄さ。ワシは大阪府警だ。関係ないね」
「えっ?」
「気にすることはないさ。岡山県警と兵庫県警がヨロシクやって、きっと明日の新聞にでも載るさ」
「でも大田さん、それって…」
ところがもはや、大田は聞いてもいないのである。
「なあ上中君、腹が減ったな。時計を見ると、もう12時じゃないか。ウドンでも食いに行かんかね?」
と上中の肩を2、3回たたき、大田は立ち上がった。
普段ののんびりした行動に似合わず、大田にも頑固だったり、意固地だったりするところがある。
それをよく知っているからこそ上中も、
『ああ、これはもういくら質問してもダメだな』
と、あきらめざるを得なかった。ひそかにタメ息をついて上着を手に、お供をするほかなかったのである。




