地下線
昭和20年10月。
つまり第2次世界大戦が終わった2カ月後に、ある川べりで発見された若い娘の水死体については、最初から大きな注目が集まったとは言いがたい。
敗戦の混乱の中、大きな新聞記事になるべくもなかったのである。
事実、たった1枚きりしかない(全部で4ページ)片すみに、ごく小さく報じられただけであった。
しかも、限られた部数の地方版だけである。だが死体の発見者にとっては、非常に印象的な経験だったようである。
17歳のその娘は、まれに見る美貌だったからだ。
特に背が高いというのではないが、すらりとしており、水に洗われたせいか、それとも直前に自分で解いたものか、長い髪が、肩から背中を覆っている。
肌は白く、鼻は細く、目元はすっきりしている。目を閉じている今も、そのまつげの長さが、まるで夢のようなのである。
唇も白いチョークのように血色を失っているが、それでもその初々しさ、みずみずしさまでは失ってはいない。
彼女の身元は、すぐに知れた。死体の引き上げを見物していた者の一人が、たまたま顔を見知っていたのである。
「おや、これは鮫島のところの一人娘だ」
警察官がさっそくその鮫島という家に派遣されると、父子家庭であるらしく、早朝ということもあって、寝ぼけ顔の父親が応対に出た。
もとより大きな家ではないが、娘が寝ていたはずの部屋へ警官が行ってみると、もちろん娘の姿どころか、昨晩は布団を敷いた形跡すらない。そして、文机の上には遺書が残されていたのである。
娘の名は鮫島静。某女学校の4年生であった。
静の遺書は、和紙に毛筆で清書されたものだったが、その内容から、これが自死であることと、その原因はすぐに判明した。
祖国日本が戦争に敗れたことへの絶望。また、祖国を勝利させえなかった自分の力不足への、静なりの責任の取り方だったのである。
『戦争という大きな出来事の中で、一介の女学生に何ができるか』
という真っ当な議論になど、静は恐らく耳を貸しはしなかったであろう…、
というのが、この事件を耳にした大方の評判であった。
商都電鉄には、まるで地下鉄電車のように、地下を長く走る区間がある。
大阪市内には、Y川という大きな河が存在し、かつて線路はそれを大規模な鉄橋で渡っていたが、治水工事の関係で堤防が高くカサ上げされることになり、それでは鉄橋が通行不能になるので、その代わりに、河の下をくぐって渡る地下線が新たに建設されたのだ。
このトンネル工事は戦前に開始されたが、戦争に伴って資材の入手が困難になり、一時中止された。だが戦後に再開され、その完成が2年ほど前のことである。
その河底、真新しい地下区間で、電車が人をひいたのだそうだ。死人や死体が怖くて仕方のない大田警部にとっては、まったくもって困ったことである。
しかし今回も、上中・警部補が気をきかせて、
「大田さん、現場近くまで同道してもらえれば、細かいところは僕が一人で見てきましょう」
と言ってくれた。
「いや、すまんね…」
「いいんですよ」
とそれは、上中の正直な気持ちでもあった。あまり表には出さないが、上中は将来の出世を狙っており、そんなところが大田とは大きく異なる。
大田などは、
『管理職になんぞならずに、定年までこのまま刑事でいたい』
と思っている。
だが上中は、将来は警視正か、少なくとも警視までは行きたいと考えているのだ。警視ならば中小規模署の署長、警視正であれば、都会の大規模署の署長のイスを狙うことだってできる。
そのための第一歩として、まず上中は、警察大学校を卒業した。そして大阪府警に採用されたのだが、警察大学校の卒業生は、巡査ではなく、いきなり警部補の階級から警察官人生を始める。
このあたりは、士官学校卒業の軍人が、2等兵からではなく、いきなり少尉から軍人生活を始めるのと少し似ているのだ。
このように上中は、なかなかのエリートなのだが、大田は対照的で、巡査から始めて、警部にまでなった人物である。
さて、商都電鉄の人身事故のことである。
現場が現場であるから、営業時間中には実況見分を行うことができず、最終電車が行ってからということに決まった。死体の発見が、夕方ラッシュが始まる直前のことであり、それ以外に方法がなかったのである。
狭いトンネル内であるから、列車を止めないと見分ができず、かといって、まさか夕方のラッシュに列車を止めることはできない。
実況見分を深夜まで見送ったのには、もう一つ理由があった。見つかったのが新しいものではなく、少なくとも数日は経過した死体だったのだ。
東川署へ通報を行ったのは、商都電鉄の保線課長だったが、これがどういう人物であるのか、
『ねえ旦那方、そんなにお急ぎでなくても、仏さんは逃げやしませんぜ…』
と言ったとか。
深夜になり、現場までは、電鉄側が交通手段を用意してくれた。保線区のトロッコを出してくれたのである。
といっても立派な車両ではもちろんなく、小型トラックを黄色に塗って、線路に乗せたという程度のもの。大田たちに座席はなく、荷台の上に立ったまま、地下へと向かうことになった。
「大田さん、地下って、なんだかゾクゾクしませんか?」
と上中が言ったのは、トロッコがついにトンネルの入口を入ろうとした時である。ここまでは頭上に夜空が見えていたが、ここを過ぎればあと1・2キロメートル、空を拝むことはない。
「ゾクゾクどころか、ワシは神経がピリピリ、どうにかなりそうだよ」
ついにトンネルの中へと入ったが、明かりと言えるのはトロッコのヘッドライトと、20メートルおきに設置された頼りない電灯だけである。ゴロゴロと、エンジンの音を響かせてトロッコは進んだ。
トロッコが停車したのは、現場の少し手前である。現場を荒らさないようにという配慮からだったが、ここから先、大きな荷物を担いだ鑑識課員たちと上中が、懐中電灯で足元を照らし、暗闇の中を遠ざかってゆくのを、大田は見送った。
そのあとすぐに大田は、ポケットからタバコを取り出し、一本くわえて火をつけた。
大田が死体の詳細を知ったのは、報告書が上がってきてからである。
その日のうちに、猫坂に住む半田老人の元へ、大田は電報を打った。半田老人の家には電話など通じていないし、そもそも猫坂温泉の町自体が、いまだに公衆電話さえないところである。
大田の電文には時候の挨拶もなく、
『大阪市東川区 〇〇町 〇〇番地に居住する鮫島玉夫について、ご記憶はありや?』
とだけ書かれていたが、律儀にも、その日のうちに返信があった。
『鮫島玉夫は記憶にあり。事件ならば、すぐに来訪を乞う』
この返信文を見せられると、さすがの課長も首を縦に振るしかなかったのである。
猫坂を訪ねると、いつものように半田老人は上品な着物姿で、座布団の上に正座して大田を迎えた。
茶菓を運んできたのは、またいつものように細君で、
「ああ、これはどうも…」
と大田も頭を下げた。
「それで大田さん、鮫島の件とは、どんなお話なのです?」
と珍しく半田老人のほうから話を振ってくるので、大田は説明を始めた。
「鮫島玉夫の死体が発見されたのは、この月曜のことで、発見場所が少し変わっていましてな…」
大阪府警のOBといっても、半田老人は外部の人間である。
『部外者に死体検案書を見せるわけにはいかない』
と、持ち出しは課長が許可してくれなかったが、大田は内容をそらんじていた。頼りなく見えても、一応はプロの刑事なのである。
鮫島の死因は、感電死であった。半田老人は眉を上げ、
「感電死ですって?」
死因としては、珍しい部類に入るかもしれない。
「そうです。半田さんはご存知ですかね? 電車とは電気で走るものですが、その電気は、線路の真上に張ってある架線という電線から、パンタグラフを使って電車に取り込みます」
「なるほど」
「だけどそれ以外にもね、線路のわきには、高圧電気の流れている電線がいくつも設置してあるわけでして」
「鮫島は、その電線に接触したのですか?」
「死体が発見されたのは、点検作業のため、保線区員がトンネルに立ち入ったからです」
「…」
「検視の結果、死後2日ほど経過していると分かりましたが、これは鉄道会社の保線の記録とも一致しています。2日間の間、あのトンネルには一人の保線区員も足を踏み入れていないのです」
「ほう」
「うちの課長なんぞはね、電線を目当てにトンネルへ侵入した泥棒が、電気を止めるのを忘れたまま電線を切り取ろうとして、誤って感電死したのだというところで決着をつけるつもりでいます」
「確かに最近では、銅は高い値段で売れると言いますからな。それを目的に盗む者もおりましょうよ」
「ところがおかしいのです。東川署近隣の窃盗犯であれば、まさか友達づきあいはないまでも、ワシも顔だけは見覚えがあるか、少なくとも苗字ぐらいは知っているはずです。ところが『鮫島』なんて名前、ワシにはさっぱり記憶がない。それどころか…」
「なんです?」
「その同じ名前が、9年も10年も前の昔の古い記憶に、何かしら引っかかるのです。どこかで聞いたことがあって、だけど思い出せないとは、もどかしいものですな」
フフフと半田老人は笑い、
「私のような年寄りを前に、そんなことを言ってはいけませんよ。そのもどかしさは、私が解いて差し上げることができるかもしれません」
「やっぱり、ご存知なので?」
「ええ、鮫島玉夫という名に、大田さんが反応しないのも無理はありません。鮫島玉夫は、少なくとも大阪においては、何かの被疑者として名の上がったことはないのです。疑いを向けられたことはあるのですが…」
「それは、どういう事件だったんです?」
目の前に出されたまま、まだ茶に手も付けていなかった大田にもう一度すすめ、半田自身も、ひとのみ口に含んだ。半田老人の次の言葉を、大田は待っている。
「その前に大田さん、ひとつ教えてください。その死体の身元が、どうして鮫島玉夫だと分かったのでしょうか?」
なぜそんなことを質問するのだろう、と思い、大田も眉を上げかけたが、すぐに気が付いた。実況見分を何時間か遅らせても構わないと判断されるほど、感電死体の損傷は激しかったのである。
それがどれほどであったかというと、
『まったく、ワシの代わりに司法解剖に立ち会ってくれた上中君には、感謝してもしきれんわい』
と大田が思ったほどだ。
しわの多い顔で半田老人が見つめているので、大田は口を開いた。
「ご想像の通り、死体は身元も分からない状態でしたし、衣服もほとんど焼け、ポケットの中にはサイフや札入れなどもあったのかもしれませんが、全て焼けて失われておりまして」
「そうでしょうね」
「ところが、死体のそばには小さなキーが落ちておったのです。自転車のキーです。そこから身元が割れました。トンネルの入口から、ほど遠からぬところに自転車が止めてありまして、キーをカギ穴に差し込んでみたら、ピタリと合うじゃありませんか」
「その自転車が、鮫島玉夫のものであったと?」
「そうです。住所とともに、後ろのドロよけに名前が書いてありました」
「そうでしたか…。そして大田さんも、その鮫島という名前にどこか聞き覚えがあるような、ないようなというところなのですね?」
「はあ」
「ではお話ししましょう。大田さん、若い身空で入水自殺とは、気の毒なものだと思っていたのですがね。17歳ですよ」
「誰のことです?」
まだ大田は思い出せないようである。半田老人は説明をつづけた。終戦直後の昭和20年の10月。入水自殺を遂げた女学生のことだ。
「ほら、覚えていませんか? 秋とはいえ、まだ暑かった朝、流れの止まったような川べりに浮いていた…」
少し問答をして、やっと大田の記憶も刺激されたようである。
「ああ、そういえば…」
大田が関わった事件ではなかった。同僚の警官仲間からの噂話で聞いたのである。
「…そういえば、あの娘の名が鮫島でしたな」
半田老人はうなずき、
「あれは私が扱った事件だったのです。よく覚えています」
「はあ、半田さんが?」
「鮫島静には母親がおらず、父と娘だけの家でした」
「その父親というのが、今回死んだ鮫島玉夫なのですな…」
その言葉に、ちょっと奇妙なそぶりで半田老人は微笑んだが、大田は何も気が付かなかった。
「…それで半田さん、どうなりました? 本当に入水自殺だったので?」
「自殺であることは間違いないでしょう。家へ行き、静の死体が見つかったと私が知らせてやると、鮫島玉夫は心底、驚いたようでした。私も意地悪な人間で、父親は娘の死をすでに知っていたのではないかと、その表情を探っていたのですがね」
「ほう…」
「でも、あれは本当に驚いた顔でした。鮫島玉夫は、娘の死を知りませんでした」
「静の部屋には、遺書があったのでしたね?」
という大田の言葉に、半田老人は目を丸くし、
「おや、そこまでご存知でしたか。ええ、遺書は私もこの目で見ました。上等な和紙を用い、しっかりと濃くすった墨で、女学生ながら、よく鍛えられた美しい文字でしたよ…。まるで、本人の意思と決意の深さを表すかのようでした」
「そこには何が書かれていたのです?… いえ、内容はワシも噂で聞いてはいるんですが」
和服のフトコロから半田老人は突然、一枚の白い紙を取り出した。
「あまりに印象的な遺書だったので、私は書き写して、残しておいたのです。大田さんがおいでになるので、古い書類の束から探し出しておきました」
大田の目の前に、半田老人は紙を広げて置いた。西洋紙の上に、万年筆を用いて、几帳面で丁寧な文字がつづられている。
「これはこれは面倒をおかけしまして…。ほう…」
「私の手書き文字では、あの娘の文字の格調の高さは伝えるべくもありませんが、参考にはなりましょう」
どれどれ、と手に取り、大田は目をこらした。
父上様へ、つたなき娘より、一筆申し上げ候。
これまで妾をお育ていただいたご恩は、どの山と比ぶるべくもなく高くあるものを、このような道を選びしこと、お許し願いたく…
といった文章が続いているのは、大田の予想していた通りであったが、
「あれれ半田さん、この遺書には、戦争に負けたことのお詫びで死ぬなんて、一言も書いてありませんぞ…」
大田が顔を上げると、半田老人も見つめ返し、うなずいた。
「静が死んだのは、戦争が終わってすぐのことで、戦争に負けたことに責任を感じて切腹した人が、あのころには本当に何人もおりましたから」
「そうでしたな。だから、静の死もそういう理由だと解釈されたので?」
「あの頃の社会は乱れに乱れ、泥棒やカッパライなど当たり前すぎて、捜査しようにも、とても手が回りません。だから事件性のない自殺ということで、静の件は終わってしまったのです」
大田が公衆電話に飛びついたのは、猫坂を離れて、人車から下車してすぐのことである。
市電やバス、自動車が走り回る都会の喧騒に比べると、猫坂の静かさはまるで江戸時代の町のようだが、今日ばかりは大田も、その静かさを離れたことを残念には感じなかった。大急ぎで、東川署に電話しなくてはならなかったのである。
刑事部屋への直通番号をダイヤルすると、幸いにも上中が受話器を取ってくれたが、これが課長だった日には、目も当てられない。まず大田は、いろいろクドクドと言い訳を並べなくてはならないのだ。
「ああ上中君か、ちょうどよかった。この間の鮫島の件な。検視報告書をもう一度見てくれんか?」
「はい…」
上中は、もちろん大田に従った。
「…検視報告書のページを開きました。何を見るんです?」
「うん、そうだ上中君。鮫島の家の詳しい捜索は済んだかい? 何か出たかな?」
トンネル内での死体発見後、鮫島が一人暮らしをしていた小さな借家の捜索はもちろん行われたのだが、その結果も待たずに、大田は猫坂へと出かけていたのである。
「鑑識も動員したんですが、何も出ませんでした」
と上中は言った。
「そうかい? 鮫島の写真はあったか?」
「写真ですか?」
「そうさ。鮫島玉夫自身のと、死んだ娘。それから女房のとか。アルバムとは言わんが、古写真なんて、何かの箱にまとめて入れてありそうなもんじゃないか」
受話器の向こう側で、上中は少しの間、黙っていたが、やがて答えた。
「いいえ、そんなものは全く見つかりませんでしたよ」
「仏壇の中も見たかい? 死んだ娘と女房だ。遺影ぐらいありそうなものだが」
「いいえ、仏壇の中にもありませんでした。写真が必要なんですか?」
「必要かどうかは、まだ分からんがね。それじゃあ上中君。検視報告書を見てくれ。例の感電死体からは、指紋は取れなかったのだね?」
「ええ、でも鮫島の指紋が必要なんですか?」
「それがさ、『その死体は鮫島とは違うのではないか』と半田さんは言うんだよ」
「どうしてです? だってあの自転車のキーが…」
「半田さんは、その死体は田辺二郎という男ではないかと疑ってるんだ」
「田辺二郎? 田辺二郎って誰です?」
「ワシもよくは知らないが、府警本部へ行って、資料を当ってみてくれないか? 半田さんの想像が正しければ、田辺二郎は、ここ10年ばかりどこかの刑務所に服役していたはずなのだがね」
「はあ…」
と上中はもう一つよく分かっていないようであるが、大田は構わず続けた。
「それからな、上中君。ご苦労だが検視局へ電話して、感電死体をもう一度調べてもらってくれ。死体の右肩には、小さなものだが花の刺青があるのではないかとね」
「刺青ですか? そんなものがあれば、報告書に記載してあるはずですよ」
「まあ、そう言わずに問い合わせてくれ。なにしろ感電死体ときたら、体の表面がみんな燃えてしまっているんだ。見落とすことだって十分あり得るよ」
「そうでしょうか…」
「ワシは今から署へ戻るから、よろしく頼むよ」
そう言われてしまうと、上中も逆らうわけにはいかない。一度、受話器を置き、検視局の番号をダイヤルしたのである。
そのころ大田は、公衆電話から駅のホームへと、改札口を駆け抜けようとしていた。
東川署の刑事部屋へと入ってきた大田を、上中は少し興奮した表情で迎えた。
「ああ大田さん、死体の右肩には刺青がありましたよ」
「あったかい? 花か? 梅か桜か?」
「直径1センチほどだから分からなかったのだと、検視官は言い訳をしています…。梅でした。ワンポイントというか、体の他の部分には、刺青なんか一つもないんです」
上着を脱ぎ、大田はイスにドカンと腰かけた。その騒がしい音に課長がこちらを向きかけたが、口は開かなかった。
そもそも課長は、大田をあまり評価していないし、大田は大田で、当てにされない員数外という立場を楽しんでいたのである。
「大田さん…」
と上中は少し困った顔をするが、大田は気にしない。
「上中君、刺青が梅の花だというなら、死体の正体は田辺二郎だな」
「梅じゃなかったら、誰なんです?」
「田辺二郎には、双子の兄弟がいる。田辺一郎というやつで、こいつは右肩に桜の刺青をしているんだ」
「へえ」
「田辺兄弟といって、東京ではちょっと名の知れたギャングだったそうだ」
「それも半田さんから聞いてきたんですか?」
と上中は呆れた顔だが、大田は全く気に留める様子もない。手柄を立てて出世することに、これほど興味のない人物も珍しいかもしれない。
半田老人によると、田辺たちは東京生まれで、関西にはあまり縁のない人生を送ったように見える。兄弟2人で、ケチな窃盗や小さな強盗事件を繰り返していたが、戦争中は2人とも、うまく徴兵の目を逃れたようだ。
この2人がある時、ちょっとした噂を耳にした。それが昭和20年の夏のことで、すでに戦争は終わっていたが、どこからともなく伝わってきたその内容というのが、
『戦争中に閉鎖されたある銀行支店の金庫の中に、20キログラムの金塊が手つかずのままで眠っている』
だったのである。
戦争中から終戦直後にかけては、様々な噂話が話され、社会を駆け巡ったであろう。
その中には、
『ある町で、妊婦の胎内から牛頭の怪物が生まれ出た』
といった信じがたいものなどもあったが、それはともかく、『金庫とその中の金塊』の話は、利にさとい田辺兄弟の心を強くとらえたであろう。
さっそく2人は下調べを始めたが、その時点で9月の中旬を過ぎており、街中では米兵の姿をよく見かけるようになっていたが、2人とも情報収集の手を休めることはなかった。
その結果、噂の内容はどうやら本当らしいと思われるに至ったのである。
その根拠はいくつか存在し、まず2人は、トラックを運転したという男を見つけ出すことに成功した。
金庫の中に隠された金塊というのは、要するに軍の隠匿物資だったのである。この運転手が、
「8月15日の数日後の19日か20日の真夜中、例の閉鎖された銀行支店の前までトラックを運転した」
と証言したのだ。
隠匿物資というのは、この場合、戦争中に日本軍が海外から持ち帰った金銀財宝のことをさしている。
終戦時には、やがてやってくるであろう米軍の目をくらますため、これをあちこちに隠すということが行われたのだ。この話も、その一つであろう。
トラック運転手の証言以外にも、金塊の存在が事実であることを裏付ける手がかりが、いくつか得られた。
都合の良いことに、この金塊の存在は、ごく一部の人間の間だけの秘密だったようで、世間からは完全に見過ごされていたのである。もちろん、進駐軍も夢にも知らないことだった。
だから田辺たちは決意したのである。
「ようし、ひとつ俺たちの手で金庫を開いてやるか」
ところが問題があった。なんとこの銀行支店が建っているのは、警察署のすぐ隣なのだった。東川署である。
閉鎖されて廃墟も同然の建物ではあるが、金庫をたたき破るといっても、大きな音を立てるわけにはいかない。昼間はもちろん、真夜中においてもである。
「そこで目をつけたのが、腕のいい金庫破りの男というわけですか…」
と上中も少しは感心した様子なので、大田も鼻が高い。
「半田さんによると、鮫島玉夫というのは、その世界でも知られた金庫破りだったそうだ。本職は、まじめな時計職人なのだがね」
「へえ」
いつの間にか大田の周囲には刑事たちが集まり、数人の人垣ができている。そんな風景、課長には面白かろうはずはないが、幸いにも数分前から席を外しているようだ。
「ああそうだ、上中君。田辺二郎について、府警本部に照会した返事はあったかい?」
上中は、一枚の紙を大田の目の前にサッと滑らせて寄こした。
「ここにあります。大田さんの言う通り、なかなか派手な経歴の兄弟ですね」
大田は受け取った紙に目を通しているが、聴衆の一人が声をかけた。
「大田さん、それでさっきの金庫破りの話は、どうなったんですか?」
「うん、それね…。おや待ってくれ。もうこんな時間かい? 外の明るいうちに行かなくちゃならない場所があることを、きれいに忘れてたよ…。上中君は一緒に来てくれ。他の諸君はそれぞれの仕事に戻って、ワシの話の続きはお預けだな…」
東川署から上中を連れだし、大田が向かったのは、C時計店という店である。東川署からも、市電に乗って遠くはなかった。
市電の車内で、空いている座席に大田がヨイショと腰かけると、上中はその前に立ち、つり革をつかんだ。
「ねえ大田さん、あんまり秘密にばかりしないで、そろそろ話してくださいよ。僕もだんだんしびれが切れてきました」
その言葉に大田はニヤリと笑ったが、口を開いた。すいた電車で、小声の会話なら、他の乗客の耳に入ることはない。
「君は、鮫島静という娘の噂を聞いたことがあるかい?」
「鮫島静? 鮫島玉夫の娘なんですか?」
「それはいいから、噂を聞いたことは?」
上中は少しの間、天井を見上げていたが、
「ええ、あるように思います。府警に入って、最初の研修の時だったかな。研修生の緊張をほぐすため、教官がいくつか披露してくれたヨモヤマ話の中にありましたよ」
「そう…、第二次世界大戦が終わった直後、敗戦の責任を取って自害した忠義な娘という触れ込みで、最初は大きな新聞記事にもならなかったが、次第に人々の口に上るようになって、その行動のあまりの激しさから『烈女』とも呼ばれ、美貌も相まって、広く大阪中の噂になったものだよ」
「それが鮫島玉夫の娘なんですね?」
「そうさ。だけど静の死の真相は、噂とはだいぶ違うのだよ。第1に、静が自殺したのは、戦争が終わって2ケ月も過ぎたころだ。戦争に勝てなかった責任を取るにしちゃあ、間が開きすぎているとは思わないかい?」
「…」
「第2にというか、これが決定的なんだが、ちゃんとした自筆の遺書があるのだよ。半田さんが発見し、写しも取ったから、ワシも文面を読ませてもらったがね。戦争ウンヌンなんてのは、一言もなかった」
ここで電車が突然ガクンと大きく揺れたので、体のバランスを崩しかけ、つり革をつかみなおし、上中は姿勢を立て直した。
「じゃあ、自殺の本当の原因は何だったんです?」
「腕のいい金庫破りとして、鮫島玉夫は若いころ、ずいぶんと鳴らしたのだそうだ。誰の支配下にも属さず、フリーの一匹狼だった。仕事のたび、あちこちの盗賊団と組んで雇われてね」
「へえ」
「もちろん戦前の話だよ。本職は時計職人なんだが、金庫破りは裏の顔で、相当に儲けたそうだ。もちろんアブク銭で、貯金なんて殊勝なことはしなかったらしい」
「静は、自分の父親がそんな悪人だと知っていたんでしょうかね?」
「知っていたらしい。静が10歳かそこらの頃、何かの拍子にバレてしまった。もちろんその何年も前から、玉夫は金庫破り稼業はやめていたのだがね。半田さんの話によると、結婚を機に足を洗ったらしい」
ここで大田は気が付いたのだが、話を聞いている上中の表情が、どうもさえないのだ。
「どうしたね上中君。ワシの話が信じられないかい?」
居心地悪そうに、上中は何回か咳ばらいをし、
「お話を信じないわけじゃありませんが…、服役して罪を償ってもいない者が、たかだか結婚を機に、突然、真面目になるなんてのは…」
「ありえないかい? ところが、そうでもないんだな。半田さんの受け売りばかりで、また君に嫌われてしまうが、玉夫の結婚相手というのが、たまたま腕時計の修理を依頼するために来店した若い令嬢でね。そそとして、いかにも優しげであったそうだ」
「その令嬢に、金庫破りが一目ぼれでもしたんですか?」
「金庫破りだって人の子さ。令嬢のほうでも、玉夫を憎からず思い、数カ月後には、将来を約束する仲となった。その時に玉夫は、自分の裏稼業について彼女に告白し、許しを乞うたそうだよ。『もう二度と金庫破りには手を染めない』とね」
「とんだメロドラマですね」
その言葉に大田は笑い、
「君のシニカルな物言いには、気が付かなかったことにしようよ。それ以来、玉夫は、悪事はきっぱりと…」
「だけどそれも全部、半田さんから聞いたことなんでしょう?」
「そう言われれば、身もフタもないがね。静の遺書が見つかった時、鮫島玉夫本人からすべて聞いたのだそうだ。田辺兄弟の名が出たのも、そのときだったそうだよ…」
目的の停留所で電車が停車したので、大田と上中は下車した。
C時計店は電停の真ん前にあり、話をつけるのに何の不都合もなかった。鮫島玉夫の職場ということで、すでに別の刑事がここを訪れ、一応の事情聴取は済んでいたが、その時に、
『万が一にも玉夫の写真を持っていないか、同僚や周囲の人々にきいてみてくれ』
と依頼がしてあり、その返事を聞きにやって来たのである。
果たして、玉夫の写真を一枚、発見することができた。数年前に、わざわざ店を休業して、全員で花見に出かけたことがあり、その時に撮影された記念写真のすみに、小さく不鮮明だが玉夫の姿を見ることができたのである。
玉夫は中肉中背だが、少しやせている。服装は作業着で、クシの通っていない髪ともども、身なりに気を使わないタイプに見えるが、いかにも職人風で、嫌な感じの人物ではない。
思いがけずカメラに前に引っ張り出され、はにかんでいるのが伝わってくる写真だ。
大田は、もちろんこの写真を借り受けた。
C時計店からの帰り道、大田が話し始めた。
「上中君。問題は、玉夫よりも先に田辺一郎を見つけ出さねばならないということさ」
「どういうことなんです? 僕にはさっぱり…」
「ワシは静の遺書を読んだのだよ。その一節を今でも思い出すことができる。前半は格調の高い候文で、伝統に従って自分のことを『妾』と書いているんだが、
『もう二度と金庫破りのお仕事はしないという、亡きお母さまとの約束を、お父様にお破りいただくわけにはまいりません。そのための障害になるというのですから、静は喜んで、おそばを離れ、母上のところへまいりましょう』
と続くんだ」
どう反応していいやら分からず、上中は困った顔をするが、大田は続けた。
「…と、この部分だけ候文が破れ、現代文に変わっているところなど、静の悲しみを如実に表しているじゃないか」
「…」
「上中君、これは復讐劇なのだよ。金庫破りをやれ、という話を田辺兄弟から持ち込まれても、もちろん玉夫は断った。『結婚以来、足を洗ったのだ』とね。だが、そんなことであきらめるギャングたちではない」
「どうしたんです?」
「田辺たちは、静に目をつけたのさ。『お前の娘はべっぴんだな。もしも娘の身がかわいければ…』とね。そうなったら、玉夫も首を縦に振るしかない。なにしろ田辺たちときたら、相当なワルでね…。若い娘を相手に何をしでかすか、分かったもんじゃない。もしも君が玉夫の立場だったら、どうするね?」
「娘を守ればいいんじゃないですか?」
「どうやって? 警察へ行って、訴えるかね?」
「それも方法でしょう」
「どうかな? そんなことをすれば町の噂になって、『金庫破りの娘』と言われ、静が一生、後ろ指をさされるのは間違いない。父親として、それは耐えられることじゃない」
「ははあ」
「だから警察には言えないだろ? だけど娘の身は案じられる。ギャングたちは美貌に目をつけているのだから」
「…」
「そういう父親の悩みは、娘にとっても痛いほど感じられるさ。なにしろギャングたちは『金庫破りを再開しろ』と、娘がいる目の前でねじこんだらしいからね…。だとしたら、娘はどうする? あの混乱した時代、警察を始め、どこの誰も頼ることはできない。もしも父親を悪の道へ戻したくなければ、どうするべきか。娘なりに考え、答えを出したのさ…」
東川署へ帰り付くと、すぐに若い巡査が話しかけてきた。
「大田さん、トンネル内の感電死体事件の捜査主任は、大田さんですよね?」
すると、とたんに大田の表情は渋く変わる。
何かの責任者という役が、嫌でたまらない性分なのだ。どうにかして、責任の少ない『その他大勢』の中に埋没する方法はないかと、常に苦心しているような男なのである。
そのあたりは野心に満ちた上中とは正反対で、
『階級の差さえなければ、今すぐにでも捜査主任の座を譲ってやるのだがな』
と腹の底で、いつも大田は思っている。
だが、物事はそううまくはいかない。警部と警部補、階級の差は1ランクしかないが、例えば逮捕状の請求は警部以上でなければできないなど、職能にはいささかの差がある。
しかも警察大学校出で、22歳の若さで、警察庁からポンと落下傘のように大阪府警へ降りてきた上中に、巡査からたたき上げてきた一般の刑事たちが気持ちよく従うものであるか、という問題もある。大田は大田で、悩み多き職業人なのである。
大田は答えた。
「ああ、それは多分ワシが責任者だよ」
「面会人です。なんでも死体を引き取りに来たとか」
「死体?」
「例の感電死体ですよ」
その言葉に、大田と上中は顔を見あせた。
「その人は名前を言ったかい?」
「男です。田辺一郎だとか」
「なんだって?」
田辺一郎は、大田よりも10ばかり年上に見えた。
小さく意地悪そうな目がギロリと光っているし、顔つきや髪形も異なるが、中肉中背で痩せているところなどは、鮫島玉夫に似ていなくもない。
双子ということだから、田辺二郎もこの一郎とそっくりだったに違いなく、感電死体が鮫島玉夫と取り違えられたのも無理はない、と大田は思った。
同時に田辺一郎は、一目見るだけで大田ですら、
『おっとっと、こういう相手には気をつけにゃあ』
と感じるタイプでもあるのだ。
普段は取り調べなどに使う小部屋に入れられ、田辺一郎はイライラと待ちくたびれた風に、何本目かの煙草に火をつけたところだった。
大田と上中の顔を見るなり、
「おい、どっちが警部だい?」
と声をかけてきた。
上中が黙って大田を指さすと、
「そりゃ良かった。若造とじゃ話にならねえ」
ところが、
「そうでもないぜ…」
と大田は向かい合う椅子に腰かけたのである。
「…年上でも、ヘボはいくらでもいる」
「へっ、おまえがかい?」
「そうかもしれんね」
「けっ…」
田辺一郎はしばらく黙っていたが、また言った。
「…弟に会わせてくれ。その権利があるはずだ。親もなく、天涯ふたりきりの兄弟でね」
それを聞いているのか、いないのか、大田は自分も煙草をくわえ、火をつけようとしている。
「弟には、会わんほうがいいかもしれないよ」
「どうしてだい?」
「実を言うと、ワシもまだ死体は見ていない。怖くてな…」
「なんだと…?」
と、そのセリフが終わる前に、大田は上中を指さしていた。
「詳しいことは、この上中君にきいてくれるかい?」
上中は口を開いた。
「死体はひどい状態だよ。高電圧に接触したんだ。実のところ右肩の刺青で、やっとやっとあんたの弟だと分かったぐらいでね」
「二郎のやつは、なんだって真夜中、そんな地下トンネルなんかへ行ったんだ?」
上中はそれに答えようとしたが、とっさに手を振って大田が止めた。そのしぐさに、
「なんでえ、内緒ごとかい?」
と田辺の鼻息は荒いが、大田の返事を聞くと顔色が変わった。
「田辺さんよ、あんたは一昨日、やっと刑務所から釈放されてきたところだろう?」
「なぜ知ってる?… そうさ。弁護士の野郎がドジ踏みやがって、同じ罪状なのに、俺のほうだけ一ケ月、懲役が長かった。しかも釈放される当日、刑務所まで迎えに来るかと思ってたが、二郎のやつ、来てもいやがらねえ。どこへフケやがったかと思っていたら、死体を引き取りに来いと、やぶから棒に警察から通知だ。何がどうなってんだ?」
「弟はな、あんたを出し抜いて、例の金塊を引き取りに行ったのだよ。全部、独り占めするつもりだったと思うぜ」
「まさか…」
「まさかなもんか。山分けにする気なら、お前さんが釈放されてから、二人仲良く出かければいいじゃないか。それを、なぜ一人で出かけたか」
「くそっ」
「それはそうとさ…」
と突然、大田の声の調子が変わるものだから、田辺も驚いたようである。
「なんでえ?」
「あんたと弟は、どうして警察に逮捕されて、10年も服役する羽目になったんだね? 金庫を破ろうって、鮫島玉夫に声をかけていたところなんだろう?」
「そのことか。くそつまんねえ話よ。確かに鮫島に声はかけたさ…。いや、あれは声をかけた、なんてもんじゃねえな。俺と違って、弟は気が短い。おかしなもんだろ? 双子なのにさ」
「そうかい?」
「俺は、弟と一緒に鮫島の家へ行き、とうとうと理性的に説得しようとした。けっ、死んだ女房に義理を立てて、『もう二度と悪事はしねえと決めた』なんて、鮫島が言いやがるもんでよ」
「鮫島の細君が死んだのは、戦争が終わる直前だそうだ。お前さんたちは、まだ喪も明けないうちに押しかけたことになるねえ」
「そんなこと知るかよ。とにかく俺は、冷静に話をしようとした。娘は隣の部屋にいたが、フスマ越しに会話は全部聞こえたに違いねえ。小さな家だからな。ところがだ」
「うん」
「弟の次郎は気が短え。ついに言っちまったのよ」
「どう言ったね?」
「『おう鮫島よ、昔からの仲間だからって、いつまでもナメてんじゃねえ。お前の娘はベッピンだな。そのベッピンが、どうなってもいいのかい?』」
先の短くなったタバコを灰皿に押し付け、大田は火を消した。
「それはまあ、立派な脅迫だな」
「おいおい、誤解しちゃいけねえぜ。俺と弟は金庫破りをしなかった。鮫島にウンと言わせる前にムショ送りになったんだからな。しかも脅迫的文言を弄したのは弟だ。俺じゃないぜ」
「弟はもう死んでるから、弁解もできんしな」
「けっ、これだからデカは嫌いだよ。はなっから人を信用しやがらねえ」
メモを取りつつ、上中はじっと会話を聞いているが、何を考えているのか、大田の表情からは何も読み取ることができない。
大田は続けた。
「なあ田辺さんよ、それであんたら兄弟は、鮫島が首を縦に振る前に、どうして服役なんか、することになっちまったんだい?」
「鮫島の家へ行き、いろいろと話をしたが結局は断られ、『また来らあ』とその場を後にしてからのことさ。ちょっと景気づけにと、弟と一杯やりに行った。ところがだ…」
「ところが?」
「この一杯ひっかけに行った先で、俺と弟は、変な酔っ払いに因縁をつけられちまって…。こっちは何も悪くないのによ。仕事が近いから、酒量も抑えてたんだ。それが…」
「どうなったね?」
「売り言葉に買い言葉。話をつけようと店の表に出たところが、なんといっても2対1だ。ちょっとこづいただけだが、酔っ払いは頭から倒れ、道路の縁石で頭を打った」
「それで兄弟そろって、10年食らったのかい?」
「まあ、それ以外にもいろいろやってたからな…」
と会話は続いたが、田辺一郎を長く署に引き留める理由はなかった。田辺たちは金庫を破ってはいないのだ。
だから、
『死体の引き渡しには、もう少しかかる』
ことだけを伝え、上中は不満顔を見せたが、大田としても、そのまま帰らせるほかなかったのである。
ただその時、大田は一言だけ田辺に警告をした。
「なああんた、弟みたいに殺されないように気を付けるんだよ」
すると、
「どうしてでえ?」
と、もちろん田辺は目をむいたのである。
「あのな、銀行支店だったあの古ビルな。ほら、あんたらが金庫破りをするつもりでいた」
「それがどうしたい?」
「この警察署の隣にあったろ? 数年前に解体されて、今は別のビルが建ってるが、その時には何もなかったぞ。解体中に金庫の中から金塊が見つかったなんて、ニュースにもならなかった」
「だから?」
「あんたら二人が逮捕された後で、鮫島は一人で金庫を破ったのだろうよ。腕のいいプロだったらしいからな。無人の廃墟の中でする仕事なんて、朝飯前だったろうぜ」
「くそっ、あの野郎め…。廃墟内部の見取り図も含めて、下調べは全部、俺たちが済ませてたんだぜ。ただ乗りしやがったな…。あれ? だけどよ、死んだ女房と約束したなんて言いやがったのに、鮫島のやつ、どうして急に宗旨がえをしたんだ?」
「鮫島の娘、鮫島静が入水自殺したことは知っているよな?」
「ああ、国に殉じた忠義な娘ってやつだろ?」
違う違う、と大田は目の前で手を激しく振った。
「自殺は自殺だが、あれは国に殉じたんじゃない。父親に犯罪を犯させないために、自ら身を引いたのさ。あの娘がいなきゃ、あんたらも玉夫を脅迫できなくなるもんな…」
「ま、まさかお前…」
「そうさ。静が自殺したのは、あんたたちが一杯ひっかけて、逮捕されたその同じ夜のことだったのさ…」
田辺一郎が帰っていった後、少しの間、取調室の外へは出ずに、大田はタバコをふかし続けた。隣には上中がいる。
「大田さん、それにしても田辺一郎の顔は見ものでしたね」
「うん。だが田辺のやつ、本当に信じたかな?」
「娘の敵討ちとして、鮫島玉夫が二郎を殺したという説ですか?」
「筋が通るとワシは思うよ。刑期を終えてシャバに出てきた二郎に、鮫島玉夫はこう言って接近すればいい。
『娘は死んだ。もう誰に遠慮することもなく、あんたらが刑期を務めている間に、私は金塊を盗み出しておいた。それを山分けにしてやるから、隠し場所へ来い』
とね…」
「それで真夜中、例の地下トンネルへ誘い出したんですか? どうかなあ…」
「10年間も刑務所暮らしで、田辺たちは世間のニュースにうとい。すぐに信じたさ。それに戦争中から最近まで、あのトンネルは工事が中途半端で中止され、放置されてたんだ。隠し場所として、うってつけではあろうよ」
「じゃあそうだとして、どうやって二郎を感電させるんです?」
「報告書を読んだが、線路わきの砂利に深く穴が掘ってあり、その中へ上半身を突っ込むようにして、二郎は死んでいただろう? だからさ、
『この穴の下に金塊をうずめておいた』
とでも言えばすむじゃないか」
「ははあ。ツルハシでも手渡して、二郎にガンガン掘り進めさせるが、その底にあるのは金塊ではなく、高圧電線というわけか」
「そういうことさ…。トンネルの中だ。足元は常に濡れているよ」
「ねえ大田さん、もしそうだとしたら、盗み出した金塊を、鮫島のやつ、本当はどこへやったのでしょうね?」
珍しくも色めき立っている上中の様子に、大田も思わずクスリと来た。
「おや、君でも気になるかい?」
「そりゃそうですよ。僕だって人の子ですもん」
「ならば、深窓の令嬢に一目ぼれした金庫破りの心情も、同じ人の子として感じてやってくれよ」
そう言われて、『なんだ?』という顔を上中がするであろうことは、大田も計算済みであった。
「なあ上中君、君は覚えていないかな? これも半田さんの考えなんだが、4、5年前のこと、匿名の誰かさんが、赤十字へとんでもない金額の寄付を申し出たことがあったろう? ちょっと新聞をにぎわせたじゃないか」
「ああ、そういえばそんなことが…」
「赤十字の近くに知り合いがいるらしくて、半田さんは聞いたそうだ。あれって札束が届いたのではなく、銀行口座に振り込まれたのでもなく、丸々の金塊が小包で届いたのだそうだよ…。豪勢なもんだ。差出人の記されていない木箱を開けたら、金塊がゴロンだとさ」
「へえ…、それは知りませんでした。差出人は鮫島ですかね?」
短くなったタバコを灰皿に置き、大田は大きくあくびをした。
「証拠はないがね…。ああ疲れた」
「それで、これからどうします? 鮫島玉夫を逮捕しますか? 田辺一郎の身柄はどうやって守ります? 護衛でも付けますか?」
何秒かの間、上中は返事を待ったが、大田は何も答えなかった。それどころか、もう一度あくびをしたのだ。
「ワシは何もせんよ、上中君」
「どうして?」
「鮫島玉夫が殺人犯だなんて、ワシの想像にすぎん。一郎をも殺害しようと企んでいるなんて、証拠もない。ワシは何もせんね。きっと課長も同じことを言うだろう」
「ですが…」
「じゃあ上中君、君は今から課長のところへ行って、説得してごらん。うさんくさそうな目で見返されるばかりだろうから」
「…」
それは上中にも十分理解できる話だった。同じキャリア組ではあるけれど、課長は上中でも時々あきれるほどの凡人で、想像力のカケラもない人物なのだ。
そんな課長に嫌われてまで、防犯に努める義理は上中にもない。
しかも大田も認めている通り、全てが証拠のない、ただの想像なのである。
あきらめて、上中もこの件は自分の胸にしまっておくことに決めた。
「環状線というのは、本当に線路が丸くなっているのだな…」
愚かなことかもしれないが、大田は今さらのように、そう感じたのである。
なぜなら大田と上中は、この電車には大阪駅から乗車し、グルリと半時計まわりに走りづめ、南端の天王寺駅を過ぎて、再び大阪駅へと巡ってきたところだからだ。
大阪環状線といっても、現在のステンレス製の電車ではなく、その前のオレンジ色の電車でもなく、さらにその前の茶色の電車の時代である。
車内の床も壁も天井も、みな木でできており、ニスが塗られているから、木目をはっきりと見ることができる。
電灯も蛍光灯ではなく、丸い形の白熱灯で、もちろん冷房などはカケラも存在しない。座席の布は、深い青色をしている。
小声で、上中が話しかけてきた。
「ねえ大田さん」
「どうしたね?」
「いつまでこんな電車に乗っているんです? もう環状線を1周してしまいましたよ」
「退屈かい?」
「そうじゃなくて、署へ戻らなくていいんですか? あと1時間で会議が始まりますよ。遅刻なんかしたら、課長になんて言われるか…」
大田はぼんやりと窓の外を眺めていたふうだが、上中の若い顔に視線を向けた。
「いやいや上中君、電車に乗って環状線を1周してきたのは、君とワシだけではないようだよ」
「そりゃあ、そうでしょう。電車の運転手と車掌だって…」
大田は少し指を上げ、
「声が大きいよ。そっと目立たないようにして、あそこにいる男を見てごらん…。そう、2つ向こうのドアのわきをね。後頭部をガラスに寄りかからせて、眠っている男がいるじゃないか」
不信そうな顔だが、大田に従い、上中は目をこらした。大田の言う男は、すぐに見つけることができた。
「寝ている男は見つかりましたけど、帽子を目深にかぶっているから、顔は見えません…。もしかして我々は今、あの男をつけてるんですか?」
「それはそうだが、ちょっと違うとも言えるね」
「いったいどうしたんです?」
訳が分からない、という顔で上中がこちらを見るので、大田はニヤリと笑い、
「覚えがないかい? あれからもう10日になるかな? あの寝ている男、さっきから身動き一つしないあの男は、田辺一郎じゃないかね?」
「えっ?」
「きっとそうさ。あのアゴの形には見覚えがある。それでだ、上中君。一つ頼まれてはくれんかね?」
「何をです?」
「行って、あの男の肩をちょっとたたいてもらいたいんだ。きっと面白いぞ」
「どうしてです?」
「どこへ行くつもりか知らんが、環状線を一周する間、ずっと眠り込んでいるなんて、相当にお疲れだな。『ここはどこだ?』って、目を白黒させるのを眺めようじゃないか…」
「はあ…」
まったく気乗りのしないまま、上中は出かけていった。そして大田の言う通り、田辺の肩のあたりに2、3回触れたようだが、結局、相手を起こすことはせず、すぐに大田のところへ戻ってきたのである。
しかも、上中は顔色を変えているではないか。
「どうした、上中君? なぜ田辺を起こさないんだい?」
近くまで戻ってきた上中の様子は、やはりただ事ではない。震える小声で言うのである。
「大田さん、あの男、死んでますよ」
「なんだって?」
「肩がグニャリと柔らかいんです。息もしていません。そばへ行けば分かりますよ」
「本当かい?」
そう言いながら、大田は車内を見回している。幸い平日の午後のすいた列車で、一両あたりに数人の乗客が、それぞれ離れて座っているだけだ。
大田たちの動静に気づいている者はいない。みな新聞か本を読むか、ぼんやりと窓の外を眺めているばかりである。
「どうしましょう?」
と言う上中の顔を、大田は眺めた。
しっかりしているようで、やはりまだ若いな、と大田は思った。冷静さを失いかけているではないか。
「上中君、あの男は田辺一郎で間違いないかい?」
「はい。それは近くまで行くと、はっきり分かりました」
「本当に死んでいるのだね?」
「それも間違いありません。そばまで行って、上から見下ろすと、上着の内側が少し見えました。心臓にナイフが突き刺さっているんです」
「だのに血は見えない?」
「ええ、それが少し不思議なんですが」
だが大田には、出血の少なさは奇妙とは思えなかった。
確かに心臓とは、人間の体内にあって、血液を絶えず送り出している強力なポンプであり、血管が破れた時には、その駆出力によって、大きく出血する場合もある。しかし…。
「犯人は鋭いナイフで、心臓を一撃にしたのだな」
と、つぶやく大田の声が耳に入ったのであろう。上中が言った。
「そんなことで出血が見られないなんて、ありえるんですか?」
「あるよ。もちろんワシもこの目で見たわけじゃないが、検視報告書では何度か読んだことがある。心臓を突かれて即死して、血液を送り出す駆出力が、一瞬でゼロになってしまうんだ」
「はあ…。でも誰が殺したんでしょう?」
「もちろん犯人は、鮫島玉夫に決まっているさ。静の敵を討ったのだよ」
「次の駅で連絡して、鑑識を呼びましょうか?」
すると非常にゆっくりではあるが、大田は上中を振り返ったのである。そして、その時の表情は、上中でさえまだ一度も見たことのないものであった。
「どうしてだい? どうして上中君、そんなことをするんだい? あの死体については、このまま知らん顔をすればいいんだよ」
「えっ?…」
驚きのあまり、上中は両目を大きくむいた。
「…殺人事件なんですよ。すぐさま報告しないと」
「じゃあきくが、どこの署に報告するつもりだい? この電車は走り続けているんだよ。どこの署の管轄内にいた時、殺人が行われたのだね? 福島署かい? 城東署かい? それとも天王寺?」
「…」
「だからさ、ほっておけばいいんだよ。いずれ乗客の誰かが見つけて悲鳴を上げるか、車掌がやってきて、あの男を起こそうとするだろう。『お客さん、起きてください。この電車は車庫に入りますんで』とね」
「だけど…」
「その時点で通報がされるさ。阿倍野か住之江か、はたまた此花署か。どこの署に通報されるかは知らんが、とにかくワシとしては、それが東川署でなければいいのだよ。仕事が増えて、かなわんじゃないか」
「ですが…」
「さあ上中君、ワシらは次の駅で下車しないと、大事な大事な会議に間に合わなくなるよ。ワシはもう、課長から小言を食らうのは御免だからね。君もついてきたまえ。ほら駅に着いた。お出口は右側でございますよ…」
と、事件はこれで終わったかに見える。
大田にとっては、そうであろう。田辺一郎の死体が発見され、通報を受け取ったのは、東川署ではなかったのだ。そうであれば上中も、この件は、グッと腹の底にのみこむしかなかった。
日本では毎日、何十もの事件が発生する。
犯罪の露見でなくても、日本国土は狭いようで広くもあり、一日のうちに発見される死体はそれなりの数に達するのである。
もちろんその中には、殺人事件の被害者も含まれようが、病死者や行き倒れ、自殺というケースもある。
つまり警察には、日々それだけの数の死体が届けられるわけで、そのすべてが事件として扱われるわけではないし、全ての死体に行政解剖が行われるのでもない。
死体の中には、身元が不明な場合も多くある。
たとえ事件性がなくても、身元を照会して、全国の警察へ連絡がされるし、行旅死亡人として官報に掲載される場合もあるが、それにしても、すべての死体の身元が判明するわけではない。
今から述べるある死体については、東川署へも書類が回っては来た。しかし発見場所が遠い県だったことと、死体に特徴がなかったこともあって、注目されることのないまま、ファイルの中へ埋もれてしまったことも事実なのである。
ある岬で発見された男の水死体である。
遺書はなかったが、本人が飛び込んだとおぼしき海岸の岩場には、クツとカバンがそろえて置かれ、前夜までは近在の宿屋に宿泊していたのだが、朝になってきちんと支払いを済ませ、この海まで歩いてきたものらしい。
ほんのわずかの着替えを除いて、カバンの中身はほぼ空であったが、2点のみ目立つものがあった。
2枚の写真である。どちらにも若い女が一人ずつ写っているが、この二人は同一の人物ではなく、服装の感じから、一枚は戦争の初めごろ。もう一枚はその前の、まだ日本が平和だった時代に撮影されたものと思われた。
カバンの中にも男の死体にも、身元を示すものは本当に何も見つからなかったのである。やせ形の中年男で、特徴のない顔形。
唯一の手がかりと思われる2枚の写真は複写され、全国の警察へと送られた。
「おや、この女学生の娘はなかなかきれいじゃないか」
「もう一枚もきれいな女だぞ。年齢からみて、この二人は母娘かもしれんな。顔つきがどこか似ているから」
しかし残念なことに、この2枚が大田の注意を引くことは、ついになかったのである。




