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期待って、してはいけないの?

 期待しない方が楽だ、という言い方を、菜根タンは何度か聞いたことがあった。

 たしかに、そうなのかもしれないと思う時もある。

 誰かに何かを期待して、思ったように返ってこなかった時。

 ちゃんと分かってくれると思ったのに、そうではなかった時。

 言わなくても察してくれる気がしたのに、伝わっていなかった時。

 そういう時、人はたぶん、相手に傷つけられたというより、

 自分の中で勝手に描いていた形が壊れたことに傷つく。

 だったら最初から期待なんてしなければいい。

 そう言われれば、理屈としては少し分かる。

 でも、期待しないままで人と関わるのは、どこかさみしい気もした。

 その日の放課後、菜根タンは机の引き出しを見つめていた。

「……ない」

 小さく呟いて、もう一度ノートの下を探る。

 けれどやっぱり、入れておいたはずのペンケースが見つからない。

 朝、たしかにここへ入れた。

 今日は帰りに図書室へ寄るつもりだったから、机の中に置いて移動したのを覚えている。

 なのに、ない。

 少ししてから、教室の前の方で「あっ」という声がした。

「ごめん、これ菜根タンのだった?」

 クラスメイトの女子が、菜根タンのペンケースを持ってこちらを見る。

 菜根タンはほっとした。

「それ、わたしの」

「ごめんごめん、同じ色だと思って間違えて鞄に入れてた」

 女子は悪びれた様子もなく笑いながら、ペンケースを返してくる。

 中身はちゃんと揃っていたし、壊れてもいない。

 だから、べつに怒るようなことではない。

 でも、菜根タンは受け取りながら、胸の中に少しだけ違うざらつきを感じた。

「……ありがと」

「ほんとごめんねー!」

 女子は軽い調子でそう言って、また友達のところへ戻っていく。

 菜根タンは手の中のペンケースを見た。

 べつに、盗られたわけじゃない。

 悪意もなかったのだろう。

 ただ、ちゃんと確認しないまま、自分のものだと思って持っていっただけだ。

 その程度のことだ。

 でも、少しだけ思ってしまう。

 ちゃんと見れば分かったんじゃないかな、と。

 人の物かもしれないって、一瞬くらい考えなかったのかな、と。

 そんなふうに思ってしまう自分の方が細かいのかもしれない。

 そう考えると、今度はその思いまで引っ込めたくなる。

「なんか、複雑そうな顔」

 振り向くと、楊子ちゃんがいた。

 相変わらず、最初の一言が遠慮なく本質に触る。

「複雑っていうほどでも……」

「あるでしょ。

別に怒るほどじゃないけど、ちょっと引っかかる顔」

 その言い方が妙に正確で、菜根タンは少しだけ苦笑した。

「……そうかも」

「なにがあったの」

 菜根タンはペンケースのことを話した。

 間違えて持っていかれたこと。悪気はなかったのだろうということ。

 でも、少しだけもやっとしたこと。

 楊子ちゃんは最後まで聞いてから、あっさり言った。

「期待しすぎね」

 菜根タンは目を瞬いた。

「期待?」

「ちゃんと確認してくれるだろうって期待」

「人の物かもって気づくだろうって期待」

 そう言われて、菜根タンは少しだけ黙った。

 たしかに、自分はそう思っていた。

 そこまで意識していなかっただけで、相手なら当然そこに気づくはずだと、どこかで勝手に思っていた。

「でも、それくらい普通じゃない?」

「普通って便利よね」

 楊子ちゃんは肩をすくめる。

「普通ならこうするって、たいてい自分の中の常識でしょ」

「それが外れたからって、相手に逆ギレするのは違うわ」

「逆ギレはしてないよ」

「顔がしてた」

「してない」

「してた」

 少しだけむっとして返すと、楊子ちゃんはごくわずかに口元をゆるめた。

「まあ、今回は大人しかったけど」

「でも根っこは同じでしょ。

このくらい分かるよねって勝手に置いて、外れたら苦くなる」

 その言葉に、菜根タンは言い返せなかった。

 図星だった。

 相手を責めるほどではない。

 でも、自分の中にあった「これくらいは分かるよね」が外れて、少しだけがっかりした。

 そのがっかりが、胸の中の苦さになっていた。

「じゃあ」と、菜根タンは少し意地になって言う。

「期待しない方がいいってこと?」

「少なくとも、勝手に置いた期待を相手が裏切ったみたいに思うのはやめた方がいいわね」

 楊子ちゃんの言い方は、やっぱり少し腹が立つ。

 でも、言ってることが全然ずれているとも思えない。

「でも、期待しないってさみしくない?」

 その声は、自分でも思ったより素直に出た。

 楊子ちゃんは一瞬だけ黙った。

 それから、少しだけ視線を外して言う。

「さみしいわよ」

 菜根タンは、思わず顔を上げた。

「え?」

「期待しない方が、傷は浅い」

「でも、そのぶん人との間に何か一枚挟んでる感じになる」

「だから、楽ではあるけど、べつに楽しいわけじゃない」

 その言い方は、いつもより少しだけ温度があった。

 菜根タンはその横顔を見て、胸の中で何かが小さく動くのを感じた。

「……楊子ちゃんって、ほんとは期待したいんだ」

「したくない人なんて、そんなにいないでしょ」

 返事はすぐだった。

「ただ、勝手に期待して、勝手に外れて、勝手に相手を憎むのがみっともないってだけ」

 そこへ、元気な声が割り込んできた。

「期待するの、悪いことじゃないよ!」

 孟子ちゃんだった。

 いつものように勢いよく二人の間へ入り込んでくる。

 後ろからは論子ちゃんも歩いてきていた。

「また聞いてたの?」と、楊子ちゃん。

「聞こえてきたの」と、孟子ちゃんは悪びれない。

「期待するって、信じることの一部じゃん」

「この人なら大丈夫かな、とか、ちゃんと向き合ってくれるかな、とか」

「そういうのまで全部やめたら、ちょっとさみしすぎるよ」

 論子ちゃんもうなずいた。

「うん。期待そのものが悪いんじゃないと思う」

「ただ、言わなくても伝わるはずを置きすぎると、関係は崩れやすいよね」

 菜根タンはその言葉を受けながら考えた。

 期待してはいけないわけじゃない。

 でも、期待の置き方には違いがあるのかもしれない。

 勝手に心の中だけで置く期待。

 相手とちゃんと交わして、少しずつ育てる期待。

 その二つは、似ているようでたぶん違う。

「だからさ」と孟子ちゃん。

「期待するなら、ちゃんと向き合えばいいんだよ」

「これ大事なんだとか、こうしてくれるとうれしいとか」

「何も言わずに、分かるよね、って置いちゃうと苦しいけど」

「それは、たしかにそうね」と論子ちゃん。

「期待って、本当は相手との間に置くものなんだと思う」

「自分の心の中だけで勝手に膨らませると、外れた時に相手が悪者になりやすい」

「ほらね」

 楊子ちゃんが腕を組む。

「結局、勝手に期待するなって話よ」

「ちがうよ!」と孟子ちゃん。

「期待するならちゃんと向き合えって話!」

「言い方の差ね」と楊子ちゃん。

「大きい差だよ!」

 二人が言い合い始める横で、菜根タンは少しだけ考え込んだ。

 期待しない方が楽かもしれない。

 でも、それだけでは少しさみしい。

 期待するなら、勝手に置いて勝手に失望しないこと。

 ちゃんと伝えて、ちゃんと確かめて、それでも外れたら、その時初めて相手を見る。

 そういう順番があるのかもしれない。

 ノートを開く。

 白いページに、少し迷ってから書く。

 期待は、勝手に置くと重くなる。

 その下に、もう一行。

 信じたいなら、黙って当てるより、少しだけ言葉を渡した方がいい。

 書いてから、その文字をしばらく見つめる。

「……わたし」

 菜根タンはゆっくり言った。

「期待しない方が傷つかないっていうのは、たぶん本当なんだと思う」

「でも、それだと少し寒い」

「だから、期待しないんじゃなくて」

「勝手に相手の中に置かないようにしたいな」

 論子ちゃんがやわらかく笑う。

「うん。いいと思うよ」

 孟子ちゃんもうれしそうにうなずく。

「それなら、信じることもやめなくていいね!」

 楊子ちゃんは少しだけ視線をそらした。

「……まあ」

「最初から人の頭の中に、自分の都合のいい答えが入ってると思わないなら、それでいいんじゃない」

「素直じゃないなあ」と孟子ちゃん。

「うるさい」

 菜根タンは、少しだけ笑った。

 期待は、してはいけないわけじゃない。

 ただ、黙って置くと、勝手に育って、勝手に重くなる。

 それなら、少しずつ言葉にして渡した方がいい。

 その方がたぶん、外れた時も、相手をただ憎まずに済む。

 ノートの下へ、さらに一行書き足す。

 期待は悪くない。

 でも、黙ったまま相手の中へ置くと、たいてい苦くなる。

 風が窓から入ってくる。

 遠くで、部活帰りの笑い声が響いている。

 孟子ちゃんはまだ楊子ちゃんに何か言っていた。

「だから、少しくらい信じてもいいんだって!」

「信じるのは勝手よ。でも、説明を省くなって言ってるの」

「言い方!」

「中身!」

 そのやりとりを聞きながら、菜根タンはノートを閉じた。

 人を信じたい気持ちと、傷つきたくない気持ち。

 たぶんその二つは、どちらかを捨てれば済むものではない。

 だからこそ、間に言葉を置く。

 そのひと手間が、期待をただの苦さにしないための、小さな橋になるのかもしれなかった。



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