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人の痛みがわかる人って、どういう人?

 やさしい人になりなさい、ではなくて。

 人の痛みのわかる人になりなさい。

 菜根タンは、子どものころに親からそう言われたことを、今でもときどき思い出す。

 言葉としては、きれいだと思う。

 人の痛みがわかること。

 苦しそうな人を見て、何も感じないままでいないこと。

 困っている相手に、少しでも手を伸ばそうとすること。

 そういうのは、たしかに大事なのだろう。

 だから菜根タンも、その言葉を悪いものだと思ったことはなかった。

 むしろ、ちゃんと大事にしてきたつもりだった。

 ただ、その言葉を大事にしようとするたびに、少しずつ自分が削れていく日があることを、最近の菜根タンは知り始めていた。

 放課後、教室の窓の外はやわらかい夕方の色に染まっていた。

「菜根タン、悪いんだけど、このプリントまとめるの手伝ってくれない?」

 そう声をかけられて、菜根タンは反射みたいに「いいよ」と答えた。

 ほんとうは、そのあとに図書室へ行くつもりだった。

 借りていた本の返却日が今日で、帰る前に寄っておきたかった。

 でも、相手は少し困った顔をしていたし、手伝うくらいならたいした時間はかからないと思った。

 実際、最初の十分くらいはそうだった。

 プリントを科目ごとに分けて、順番に並べて、ホチキスで留める。

 単純な作業だし、二人でやればすぐ終わる。

 そう思っていたのに、途中からもう一人「これもお願い」と別の束を持ってきて、さらに「ついでにこっちも」と言われて、気づけば菜根タンの机の上には自分のものではない紙がいくつも積み上がっていた。

「ほんと助かる~」

「菜根タンいると早いね」

 そう言われるたびに、悪い気はしない。

 役に立てているのだと思えば、やっぱり少しうれしい。

 でも、作業が終わった頃には、図書室の閉館時間はとうに過ぎていた。

 帰り道、鞄の中の返却期限の紙が少しだけ気になった。

 明日返せば済む話だ。

 べつに、大ごとではない。

 それでも、胸の中にはうっすらと疲れた布みたいなものが残った。

「……なんか、今日もやっちゃったな」

 誰に聞かせるでもなく呟いて、菜根タンは駅までの道をゆっくり歩いた。

 家に着くと、母が台所に立っていた。

「おかえり。遅かったね」

「ただいま」

「何かあった?」

 菜根タンは靴を脱ぎながら、少しだけ迷った。

 迷ってから、別に隠すほどのことでもないと思い直す。

「ちょっと手伝い頼まれて」

「で、終わったら遅くなってた」

 母は台所から顔だけ出して笑った。

「そっか。あんたは昔からそういうとこあるもんね」

「でも、自分のこともちゃんと大事にしなさいよ」

 その言葉に、菜根タンは一瞬だけ動きを止めた。

 ああ、と思う。

 子どものころから言われてきた言葉が、頭の中でつながる。

 人の痛みのわかる人になりなさい。

 でも、自分のこともちゃんと大事にしなさい。

 その二つは、同じ方向を向いているはずなのに、時々うまく重ならない。

 夕食のあと、自室でノートを開いても、今日はなかなか言葉が整わなかった。

 人の痛みがわかる人になりたい。

 それは今でも本当にそう思う。

 でも、人の痛みに気づくたびに、自分の予定や疲れや気持ちを後ろへ押しやっていたら、それはほんとうに“やさしいことなのだろうか。

 窓の外はもう暗くなっていて、部屋の中の明かりだけがやけに白く見えた。

 考えてもまとまらなくて、菜根タンは翌日の昼休みに中庭へ出た。

 ベンチに腰を下ろし、ぼんやりと手元のノートを見ていると、ぱたぱたと駆けてくる足音がした。

「菜根タン!」

 孟子ちゃんだった。

 まっすぐで、明るくて、人の顔を見るなり「なにかあったでしょ」と分かってしまうような顔をしている。

「どうしたの? 元気ないよ?」

 菜根タンは苦笑した。

「そんなに分かりやすい?」

「うん」

 即答だった。

 孟子ちゃんは隣に座ると、両手を膝の上に置いて菜根タンを見る。

「で、なにがあったの?」

 菜根タンは少し迷ってから、昨日のことを話した。

 頼まれて手伝って、断れなくて、自分の予定が崩れて、なのに相手は軽く「助かったー」で終わってしまったこと。

 それ自体は小さなことなのに、なぜか自分の中に疲れが残っていること。

 孟子ちゃんは最後まで聞いて、すぐに言った。

「でも、困ってる人を助けるのは大事だよ」

「うん、それは分かる」

「人の痛みに気づけるのって、いいことじゃん」

「そこで“面倒だからやめとこにならないの、菜根タンのいいとこだと思う」

 その言葉はうれしかった。

 うれしいけれど、それだけだと胸の中のもやもやがまだ消えない。

「……でも」

 菜根タンは膝の上の指を見た。

「そのたびに、自分の方が少しずつ減っていく感じがする時がある」

「それでも“人のためだからって思う方が、いいのかな」

 孟子ちゃんはすぐには答えなかった。

 少し考えてから、ゆっくり口を開く。

「人の痛みがわかるって、大事だよ」

「それはほんと」

 そこで、やわらかい声が入った。

「でも、“わかることと“全部背負うことは同じじゃないよ」

 振り向くと、論子ちゃんが立っていた。

 相変わらず、きちんとしているのに堅苦しすぎず、そこにいるだけで空気が少し整う。

 孟子ちゃんの顔がぱっと明るくなった。

「論子ちゃん先輩!」

「こんにちは」

 論子ちゃんは二人の前まで来て、孟子ちゃんの隣に立った。

「少し聞こえちゃった」

 菜根タンが事情を話すと、論子ちゃんは静かにうなずいた。

「人の痛みに気づけることは、たしかに大事」

「でもね、菜根タンちゃん」

「相手のつらさに気づくことと、そのつらさを毎回自分が引き受けることは、別なんだよ」

 菜根タンはその言葉を繰り返すみたいに小さく言った。

「別……」

「うん」

 論子ちゃんは穏やかな目で菜根タンを見る。

「痛そうだな、困ってるな、って気づくことはできる」

「でも、そのたびに“じゃあ私が全部ってなると、今度は自分の方が雑に扱われるようになることがあるの」

 孟子ちゃんも少し真剣な顔になっていた。

「でも、見て見ぬふりはしたくないよ」

「もちろん」と論子ちゃん。

「見て見ぬふりをしろって話じゃないの」

「ただ、自分の中の境界線までなくすと、たぶん長く続かない」

 その時。

「ようやく、まともな話が出てきたわね」

 低くも高くもない、少しだけ気だるい声がした。

 菜根タンがそちらを見ると、ベンチの背の向こうに、一人の女の子が腕を組んで立っていた。

 初めて見る顔だった。

 派手ではない。でも目を引く。

 何より、その目つきに、最初から少し「こっちを試してる」感じがある。

 孟子ちゃんが露骨に顔をしかめた。

「だれ?」

「楊子ちゃん」

 女の子は自分でそう名乗った。

「べつに覚えなくてもいいけど」

 言い方が、いきなり少し感じ悪い。

「なにそれ」と孟子ちゃんが言う。

「感じたままでしょ」と楊子ちゃんは肩をすくめた。

 論子ちゃんは少し困ったように笑った。

「楊子ちゃん、そこから入るのやめた方がいいと思うよ」

「別に好かれに来たわけじゃないもの」

 そう言ってから、楊子ちゃんは菜根タンを見る。

「で、人の痛みがわかる人になりたい、だっけ?」

 菜根タンは少しだけ身構えた。

 なんとなく、この子は話をやさしくまとめるタイプではないと分かる。

「……なりたい、というか」

「そういうふうに言われてきたから」

「大事なことなんだと思う」

「へえ」

 楊子ちゃんはそれ以上の相槌を打たず、少し間を置いた。

 それから、あっさり言う。

「まず自分のことを大切にしなさい。自分を大切にできて、それから他人よ。」

 空気が一瞬だけ止まった気がした。

 孟子ちゃんがすぐに反応する。

「なにそれ! 人のこと考えるのが後回しみたいじゃん!」

「後回しでいいのよ」

 楊子ちゃんは平然としている。

「自分の輪郭も守れない子が、他人の痛みまで背負おうとすると、だいたい潰れるわ」

 菜根タンは、思わず何も言えなくなった。

 その言い方は冷たい。

 でも、どこかで否定しきれない。

「人の痛みがわかるのは結構」と楊子ちゃんは続ける。

「でも、その前に自分の痛みに鈍くなるのはやめなさい」

「疲れてるのに笑って引き受けて、あとから一人でしんどくなるの、あれ、全然きれいじゃないから」

 孟子ちゃんはまだ納得していない顔だった。

「でも、困ってる人がいたら……」

「助けたいなら助ければいいじゃない」

 楊子ちゃんは言う。

「でも、そのたびに自分が削れてるなら、やり方が悪いのよ」

「“人のためって言葉、便利なのよね」

「そう言えば、自分を雑に扱う癖まで美徳っぽく見えるから」

 その言葉に、菜根タンの胸が少しだけ痛んだ。

 自分を雑に扱う癖。

 その表現が、思った以上にしっくりきてしまった。

「……でも」

 菜根タンはやっと声を出した。

「それだと、人のことを考えない人みたいにならない?」

 楊子ちゃんは少しだけ目を細めた。

「考えなくていいなんて言ってないわ」

「順番の話をしてるの」

「自分を捨てる癖まで“思いやりって呼ぶなって言ってるだけ」

 論子ちゃんが静かにうなずいた。

「それは、たしかにそうかもしれないね」

 孟子ちゃんが驚く。

「先輩まで!?」

「人の痛みに気づけるのは大事だよ」

「でも、そのたびに菜根タンちゃんだけが減っていくなら、それは長く続かない」

「長く続かない優しさは、たぶん少し苦しい」

 孟子ちゃんは口を閉じた。

 反論したい気持ちは残っているのに、論子ちゃんの言葉を無視はできない、そんな顔だった。

「……じゃあ、どうすればいいの」

 菜根タンは自分でも、少し子どもみたいな声でそう聞いていた。

「人の痛みに気づきたい」

「でも、自分ばっかり減っていくのも、たぶん違う」

 楊子ちゃんは少しだけ肩をすくめる。

「まず、自分がどこまでなら平気で、どこからしんどいのか知ること」

「それを知らないまま“優しくなきゃって突っ込むから、あとで勝手に傷つくのよ」

 論子ちゃんが続ける。

「それから、全部を自分だけで引き受けないことかな」

「助ける方法は、背負うことだけじゃないよ」

 孟子ちゃんも、しばらくしてから小さく言った。

「……困ってる人を見ると、放っておけない気持ちは大事だと思う」

「でも、そのせいで菜根タンがつらくなるのは、たしかに少し違うかも」

 菜根タンは、三人の言葉を順番に受け取った。

 人の痛みに気づくこと。

 自分の痛みに鈍くならないこと。

 全部を背負うことだけが優しさじゃないこと。

 きれいにひとつにはまとまらない。

 でも、そのまとまりきらなさの中に、今の自分に必要な順番がある気がした。

 ノートを開く。

 白いページに、しばらく迷ってから書く。

 人の痛みがわかることと、

 自分の痛みを無視することは違う。

 その下に、もう一行。

 まず自分を雑にしない。

 それができて、それから他人。

 書いた文字を見つめていると、胸の中の疲れが少しだけ言葉の形になる。

「……わたし」

 菜根タンはゆっくり言った。

「人の痛みがわかる人にはなりたい」

「でも、そのために自分の痛みを見ない人には、なりたくないな」

 論子ちゃんがやわらかく笑う。

「うん。いいと思う」

 孟子ちゃんも、少し迷ったあとでうなずいた。

「わたしも、たぶんそっちの方がいい」

 楊子ちゃんは腕を組んだまま、少しだけ目をそらした。

「最初からそう言えばいいのよ」

「感じ悪い!」

 孟子ちゃんが即座に言う。

「でも……ありがとう」

 菜根タンがそう言うと、楊子ちゃんは一瞬だけ黙った。

「別に」

「私は、勝手に潰れて勝手に世界を恨む顔が嫌いなだけ」

 その言い方はやっぱり少しむかつく。

 でも、さっきよりは冷たく聞こえなかった。

 風が中庭を抜ける。

 遠くで運動部の声がして、校舎の窓が光っている。

 菜根タンはノートを閉じた。

 人の痛みがわかる人になれ。

 その言葉は、たぶん今でも大事だ。

 でもそれは、自分を削って空っぽになることではない。

 むしろ、自分の痛みもちゃんと見える人の方が、長く、深く、他人の痛みに近づけるのかもしれない。

 そう思うと、昔より少しだけ、その言葉を苦しくなく受け取れる気がした。

 その横で、孟子ちゃんがまだ楊子ちゃんに食い下がっている。

「でも言い方ってものがあるよね!?」

「本音を言うのに飾りはいらないでしょ」

「いるよ!」

「いらないわよ」

「論子ちゃん先輩ー!」

「ふふ、二人とも落ち着いて」

 菜根タンは、そのやりとりを聞きながら小さく笑った。

 やさしさも、自分を守ることも。

 どちらか一つだけで生きられるほど、人は単純じゃない。

 だからこそ、その順番を間違えないことが、たぶん大事なのだろう。



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