ずるいって、なに?
「ずるい」という言葉は、便利すぎるのかもしれない。
菜根タンは、ときどきそう思う。
それは卑怯だ、納得できない、不公平だ、自分は悔しい。
本当は別々の気持ちなのに、まとめて「ずるい」と言ってしまえば、少しだけ形になった気がする。
でも、形になったようでいて、その中身は案外ばらばらだ。
その日の放課後、教室の前の掲示板には、小テスト上位者の名前が貼り出されていた。
人だかりの中で、何人かが感心したり、悔しがったりしている。
菜根タンは少し離れたところからそれを見ていた。
「あー、またあの人だ」
「ていうか、要領いいよね」
「ずるくない?」
その言葉に、菜根タンは少しだけ首を傾げた。
ずるい。
掲示板の上位にいたのは、たしかに普段から効率のよさそうな子だった。授業中の話を全部きれいに拾うわけではなく、要点だけ押さえて、出そうなところを優先して見ている感じがある。
でも、不正をしているわけではない。誰かの答案を盗み見たわけでも、先生に取り入ったわけでもない。ただ、点の取り方がうまいのだ。
それを「ずるい」と呼ぶのは、いったい何に対してなんだろう。
「菜根タン?」
声をかけられて振り向くと、孟子ちゃんがいた。いつものように、まっすぐで、迷いなく人の感情のそばへ来る顔をしている。
「なに見てたの?」
「ん……あれ」
菜根タンが掲示板を指さすと、孟子ちゃんはすぐに状況を察したらしかった。
「ああ。上位のやつ」
その時、人だかりの中からまた聞こえた。
「なんかさ、ああいうのってずるいよね」
「ちゃんと全部やってる人の方が偉い気する」
孟子ちゃんの眉がぴくりと動く。
「……それ、違うと思う」
小さく、でもはっきりした声だった。
菜根タンはその横顔を見た。
孟子ちゃんは、こういう時に言葉を引っ込めない。
「違うって?」
「結果出してる人に、要領いいからずるいって言うの、なんか違う」
孟子ちゃんはまっすぐ掲示板の方を見ていた。
「不正してるなら別だよ? でも、ちゃんとルールの中で工夫してるだけなら、それはずるいじゃなくて努力とか知恵でしょ」
その言い方には熱があった。
義に反するものを見つけた時の、孟子ちゃんらしい熱だった。
「でも」と菜根タンは言う。
「そう思いたくなる気持ちも、少し分かるんだよね」
孟子ちゃんが振り向く。
「分かるの?」
「うん」
菜根タンは掲示板を見たまま答えた。
「自分は時間かけてやってるのに、相手はなんだか軽くやってるように見えて、それで上に行かれると……なんか置いていかれた感じがして」
「その悔しさを、ずるいって言いたくなるのかも」
孟子ちゃんは口を閉じた。
否定しなかった。
その時、すぐ後ろから、冷えた声が落ちてきた。
「それはずるいじゃなくて、悔しいね」
韓非ちゃんだった。
気配なく近づいてくるのはいつものことだが、その一言は特に容赦がなかった。
「混ぜると判断を間違えるわよ」
「また言い方が……」と孟子ちゃんが顔をしかめる。
「でも違わないでしょ」と、韓非ちゃん。
彼女は掲示板に貼られた順位表を一瞥した。
「不正をしていない。ルールも破っていない。結果も出している」
「それをずるいと言うのは、負けた側が気分を守るための言い換えでしかないわ」
菜根タンは少しだけ息を飲んだ。
たしかに言葉は冷たい。
けれど、変に濁されるより分かりやすい部分もある。
「でも!」と孟子ちゃんがすぐに言う。
「ほんとにずるいことってあるじゃん!」
「ルールの穴を使うとか、自分だけ得するように立ち回るとか!」
「あるわよ」と、韓非ちゃんはあっさり認める。
「でも、自分が嫌な気分になったと相手がずるいは別」
「そこを分けなさいって話」
その時、窓際の席のあたりから、落ち着いた声がした。
「ずるいかどうかは、勝ち方を見るといい」
孫子ちゃんだった。
彼女は席に座ったままこちらを見ている。
大きな動きはないのに、言葉だけで場の視線がそちらへ向く。
「勝ち方」
菜根タンが繰り返すと、孫子ちゃんは短くうなずいた。
「相手の努力を見えなくするやり方で勝ったのか」
「仕組みを壊して勝ったのか」
「それとも、同じ盤面の中で先に答えを見つけただけか」
少し間を置いてから続ける。
「後ろ二つは、同じ勝ちでも意味が違う」
菜根タンはその言葉を頭の中で並べた。
仕組みを壊して勝つ。
同じ盤面の中で先に答えを見つける。
たしかに、それは違う。
「じゃあ、要領がいいのはずるくないの?」と孟子ちゃん。
「要領がいい、だけならね」と、孫子ちゃん。
「限られた時間で、どこを優先すれば勝てるかを見ているだけなら、それは能力よ」
韓非ちゃんが小さくうなずく。
「要領のよさを嫌う人は多いけど、それはたいてい自分は苦労したのにが混ざってるの」
「苦労した量と勝ちの質が一致するとは限らないのに」
孟子ちゃんはまだ少し納得いかなそうだった。
「でも、ちゃんと全部やる人の方がえらい気持ちもあるよ」
その言葉に、ふわりと笑う声がした。
「えらい、って誰にとって?」
荘子ちゃんだった。
いつものように、どこから話を聞いていたのか分からない顔で、窓辺によりかかっている。
「全部やるのがえらいって、だれの物差し?」
「点を取る試験なら、点を取るのが先でしょ」
「そこで美しく努力した人が勝ちって言い出すと、なんか別の競技始まってない?」
孟子ちゃんがむっとする。
「荘子ちゃん、それ言い方がずるい」
「ほら」と、荘子ちゃんは肩をすくめる。
「今のずるいは、たぶん言い返しにくいって意味でしょ」
菜根タンは思わず小さく笑ってしまった。
たしかにそうだった。
今のずるいは、卑怯というより、自分の気持ちをうまく言い返せないもどかしさに近かった。
そう思った瞬間、「ずるい」という言葉が、さっきより少しだけ透けて見えた気がした。
「……ずるいって」
菜根タンがゆっくり口を開く。
「ほんとに相手が卑怯な時もあるけど」
「悔しいとか、納得いかないとか、自分が負けた感じがするとか」
「そういうのをまとめて入れちゃう時もあるんだね」
「そう」と、韓非ちゃん。
「だから便利なのよ。便利だけど雑」
孟子ちゃんは腕を組んで、少し考える顔になった。
「でも、ほんとに卑怯な時まであなたが悔しいだけでしょって言われるのも違うよね」
「そこは見分けるしかないわね」と、韓非ちゃん。
「だから勝ち方を見るのよ」
孫子ちゃんが続ける。
「ルールの中で工夫したのか」
「他人の足を引いて得をしたのか」
「その差を見ないままずるいで済ませると、次に自分が学べるものも消える」
その言葉は、菜根タンの胸に静かに残った。
ずるいで終わらせた瞬間、相手を見るのも、自分を見るのも止まってしまうのかもしれない。
ほんとうは悔しかったのに。
ほんとうは、自分に足りないものを認めたくなかったのに。
その苦さを、ひとつの乱暴な言葉で包んでしまう。
それは楽だけど、たぶん前には進みにくい。
「……じゃあ」
菜根タンは掲示板から目を離して、四人を見る。
「ずるいって言いたくなった時は、まず何を見るのがいいんだろ」
孟子ちゃんはすぐに答えた。
「まず、本当に卑怯なことをしてるのかどうか!」
論子ちゃんはいない回だったが、そのまっすぐさは変わらない。
韓非ちゃんは少しだけ肩をすくめる。
「それと、自分が何にいらついてるのかね」
「不公平なのか、悔しいのか、置いていかれた感じがするのか」
孫子ちゃんは短く言う。
「勝ち方と盤面」
荘子ちゃんは、窓の外を見ながら笑った。
「あと、そのルールってほんとに絶対?って疑うのもありかもね」
菜根タンは、ノートを取り出した。
新しいページを開いて、少しだけ考える。
ずるい。
便利な言葉。
でも、便利すぎる言葉。
ペンを置く。
ずるいには、悔しいが混ざる。
書いてから、少し考えて、もう一行足す。
ほんとうに卑怯なのか、ただ負けて苦いのか。
そこを分けないと、学べるものまで見えなくなる。
その文字を見ていると、さっきまで曖昧だった引っかかりが、少しだけ整理される気がした。
「……わたし」
菜根タンは小さく息を吐く。
「たぶん、ずるいって言う前に」
「ほんとは何がいやだったのか、少し考えた方がいいんだね」
「うん!」と孟子ちゃん。
「そこをちゃんと見るの、大事!」
「そこを見ないと、次も同じ言葉で止まるわ」と、韓非ちゃん。
「止まるのが好きなら、それでもいいけど」と、荘子ちゃん。
「止まるのは非効率だ」と、孫子ちゃん。
四人の答えは、いつものように少しずつ違った。
でも今日は、その違いが、菜根タンには前より分かりやすく感じられた。
ずるいという言葉で相手を切るのは簡単だ。
けれど、その前に少しだけ立ち止まって、中身を分けてみる。
それはたぶん、簡単ではないけれど、自分のためにはなる。
ノートの下へ、菜根タンはさらに一行書き足した。
相手を悪者にする言葉は、だいたい自分を守るのがうまい。
書いたあとで、少しだけ苦笑する。
きっと自分も、これからまた「ずるい」と言いたくなることはあるだろう。
そのたびに今日みたいにきれいに考えられるとは限らない。
でも、言葉の中身を少しでも見る癖がつけば、
苦さをそのまま投げるより、少しましな形で飲み込める気がした。
掲示板の前の人だかりは、少しずつ散っていく。
「でもさ、全部ちゃんとやる人が報われてほしい気持ちはあるよね」
「気持ちは分かる」と、菜根タン。
「それと勝敗は別よ」と、韓非ちゃん。
「美しさと勝利は同じじゃない」と、孫子ちゃん。
「でも、きれいに負けるのも物語としては悪くないよ?」と、荘子ちゃん。
「よくないよ!」と孟子ちゃん。
そのやりとりを聞きながら、菜根タンは少しだけ笑った。
勝つこと、負けること。
きれいであること、ずるくないこと。
それぞれは似ているようで、たぶん少しずつ違う。
だから面倒で、だから考える意味があるのかもしれなかった。




