正しいことを言うと、どうして嫌われるの?
正しいことは、もっときれいに通るものだと、少し前まで菜根タンは思っていた。
たとえば、誰かが困るようなことをしている人がいたら、それはやめた方がいいと言う。
順番を守らない人がいたら、ちゃんと並ぼうと言う。
提出物を忘れておいて人のせいにするようなことがあれば、それは違うと言う。
そういうのは、正しい。
少なくとも、間違ってはいない。
だから、正しいことを言って嫌な顔をされるたびに、菜根タンは少しだけ不思議だった。
その日の掃除当番の時間、教室の後ろでは、ほうきが一本床に置かれたままになっていた。
「それ、誰やるの?」
菜根タンがそう言った時、窓際でおしゃべりを続けていた男子二人が、面倒そうにこちらを振り向いた。
「えー、あとでやるって」
「ちょっとくらいよくない?」
ちょっとくらい。
その言葉が、菜根タンはあまり好きではなかった。
ちょっとくらい、の積み重ねで、いつも誰かの「まあいいか」が増えていく。
そして最後に片づけるのは、だいたい気づいた人か、言い返さない人だ。
「でも、もう終わりの時間だよ」
「今やった方が早いし」
菜根タンはできるだけ静かに言った。
責めるつもりはなかった。ただ、そのまま流れるのがいやだった。
けれど相手の顔は、みるみる「うるさいな」という色になった。
「菜根タンって、たまに細かいよね」
「別にお前だけが掃除してるわけじゃないじゃん」
その一言が、思ったより深く刺さった。
細かい。
たぶん、そう見えたのだろう。
自分では正しいことを言ったつもりでも、相手から見れば、空気を悪くする人に見えることがある。
結局、ほうきはその二人が片づけた。
だが空気は、きれいには終わらなかった。
教室を出たあとも、菜根タンの胸には小さなざらつきが残ったままだった。
正しいことを言ったはずなのに。
どうして、言った方が悪いみたいになるんだろう。
放課後。
屋上へ続く階段の踊り場に腰を下ろして、菜根タンは膝を抱えていた。
空は少し白っぽく、夕方の風が制服の裾をゆらしている。
静かで、考えごとにはちょうどいい場所だった。
「なんか、今日はしょっぱい顔してるね」
声の方を見ると、孟子ちゃんがいた。
まっすぐで、明るくて、悩んでいる人を見ると放っておけない顔をしている。今日もその通りの顔で、菜根タンの隣へ座った。
「しょっぱい顔ってなに」
「苦いよりちょっと怒ってる時の顔」
菜根タンは苦笑した。
「……怒ってるのかも」
「なにがあったの?」
菜根タンは掃除当番でのことを話した。
言いながら、自分の中にあった引っかかりの形が少しずつ見えてくる。
「ちゃんとやった方がいいって言っただけなんだ」
「べつに怒鳴ったわけでもないし、責めたわけでもないのに」
「なんか、わたしが空気悪くしたみたいになって」
孟子ちゃんは、最後まで聞いてから、きっぱり言った。
「それ、菜根タンは悪くないよ」
その言い方に迷いはなかった。
「だって実際、相手がさぼってたんでしょ?」
「だったらそれ違うよって言うの、当たり前じゃん」
菜根タンは少しだけ救われた気持ちになる。
孟子ちゃんは、こういう時に言葉を濁さない。
「でも、当たり前のこと言っただけなのに嫌な顔されると、ちょっと考えるよ」
「正しいことって、もっと……ちゃんと通るもんじゃないのかなって」
孟子ちゃんは眉をきゅっと寄せた。
「通らなくても、正しいことは正しいよ」
言い切ってから、少し前のめりになる。
「嫌われるから言わない、空気が悪くなるから黙る、ってしてたら、間違ってる方がどんどん楽になるじゃん」
「それって、もっとだめだよ」
その熱さは、菜根タンにはよく分かった。
分かるし、好きでもある。
けれど、今日みたいな小さな摩擦のあとでは、そのまっすぐさが少しまぶしすぎた。
「でも、正しいことを言えばいいってだけでもない気がする」
声がした方を見ると、論子ちゃんが階段を上ってくるところだった。
姿勢のよさは相変わらずで、静かなのに、不思議と場が少し整う。
「先輩!」と、孟子ちゃんの顔が明るくなる。
「二人とも、ここだったんだね」と、論子ちゃんは穏やかに笑った。
菜根タンが今日のことをもう一度話すと、論子ちゃんは少し考えてから言った。
「菜根タンちゃんの言ってること自体は、たぶん間違ってないよ」
「ほら」と孟子ちゃんがすぐ言う。
「でも」と、論子ちゃんは続けた。
「正しいことって、ときどき刃物みたいになるの」
菜根タンは目を瞬いた。
「刃物……」
「うん。切るべきものを切る時には必要だけど、持ち方を間違えると、相手も自分も傷つける」
論子ちゃんは階段の手すりに軽く指を置いた。
「人って、自分が間違ってると分かっていても、みんなの前でそれを突かれると、まず恥ずかしさが先に立つことがあるの」
「そうすると、正しさそのものより、責められたって感覚だけが残ってしまう」
菜根タンは、掃除当番の二人の顔を思い出した。
面倒そうだった。
でもそれだけじゃなく、たしかに少しだけ、ばつの悪さを隠すような顔でもあった気がする。
「じゃあ、言わない方がいいってことですか?」
孟子ちゃんがすぐ聞く。
論子ちゃんは首を横に振った。
「違うよ。言わない方がいいんじゃない」
「どう言うか、を考えた方がいいってこと」
その時、階段の下の方から、冷えた声がした。
「ようするに、正しさだけでは人は動かないって話ね」
韓非ちゃんだった。
いつものように、どこか最初からそこにいたみたいな顔で立っている。
孟子ちゃんが露骨に顔をしかめる。
「また聞いてたの?」
「聞こえてきただけよ」
韓非ちゃんは気にした様子もなく、数段上で立ち止まった。
「正しいことを言って嫌われるのは簡単だわ」
「だって、相手を動かすことより、自分が正しいと示すことの方が、ずっと楽だから」
菜根タンは、思わず顔を上げた。
「……それ、どういうこと?」
「それ違うよって言う時、本当に相手を変えたいのか、それとも私は間違ってないって確認したいのか」
「そこが混ざると、たいてい言葉はきつくなる」
菜根タンは返事ができなかった。
自分が今日言った言葉を、頭の中でなぞる。
今やった方が早いし。
たしかに、それは本心だった。
でもその奥に、少しだけいらだちがなかったかと言えば、たぶんなかったとは言い切れない。
ちゃんとしてよ、という気持ち。
どうして気づかないの、という気持ち。
その小さないらだちが、言葉の先に混じっていたかもしれない。
「でも!」と孟子ちゃんがすぐに反論する。
「正しいことを言う側に、そこまで完璧さを求めたら、誰も何も言えなくなるよ!」
「完璧さなんて求めてないわ」と、韓非ちゃん。
「ただ、相手を動かしたいなら、自己満足の正義感だけでは足りないって言ってるの」
「自己満足じゃないもん!」と孟子ちゃん。
「その言い方」と、論子ちゃんがやさしく割って入る。
「孟子ちゃんのまっすぐさは大事。でも、相手の顔を立てる工夫もまた、同じくらい大事だよ」
孟子ちゃんは口を尖らせたまま、でも論子ちゃんには逆らわない。
「……先輩が言うなら」
その素直さに、菜根タンは少しだけ笑いそうになった。
けれど、笑って流していい話でもない気がした。
「じゃあ」と、菜根タンはゆっくり言った。
「正しいことを言う時って、どうしたらいいの」
論子ちゃんが答える前に、韓非ちゃんが言う。
「まず、みんなの前で言う必要があるかを考えることね」
論子ちゃんもうなずく。
「うん。人前だと、正しさより恥ずかしさが勝つことがあるから」
「それから、あなたが悪いより、こうしてくれると助かるの方が通りやすい時もある」
「甘い」と、韓非ちゃん。
「通りやすい方がいいでしょ」と、論子ちゃん。
「結果が同じならね」と、韓非ちゃん。
「結果のために礼があるんだよ」と、論子ちゃん。
孟子ちゃんがそのやりとりを見ながら、少しだけ身を乗り出す。
「でも、どうしても言わなきゃいけない時ってあるよね」
「嫌われても、空気悪くなっても、それは違うって言わなきゃだめな時」
その声には熱があった。
論子ちゃんは、それを否定しなかった。
「あるね」
静かな声だった。
「礼を考えても、言い方を整えても、それでも通らないことはある」
「そういう時まで黙っていたら、たしかに違うと思う」
韓非ちゃんが腕を組む。
「ただ、その時は嫌われないで勝つことは捨てた方がいいわね」
「正しさを取るのか、好かれることを取るのか、両方は無理な時がある」
その言い方は冷たいのに、妙に分かりやすかった。
菜根タンは階段の下へ目をやった。
掃除当番の時の自分を思い返す。
自分はたぶん、全部欲しかったのだ。
正しいことを言えて、空気も悪くならなくて、相手もすぐ納得して、自分も嫌な顔をされない。
でも、そんなふうにきれいに収まることばかりではない。
正しさには、ときどき角がある。
礼には、ときどき遠回りがいる。
そして人は、正しいだけでは動かない。
「……難しいね」
菜根タンがそう言うと、論子ちゃんは少しだけ笑った。
「難しいよ」
「だから、考える価値があるんだと思う」
その言葉が、妙にやさしく残った。
菜根タンはノートを開いた。
白いページを前にして、少し考える。
正しいことを言って嫌われた。
そのこと自体は、たぶんもう変えられない。
でも、次にどう言うかは、まだ選べる。
ペンを置く。
正しさだけでは、人は動かない。
でも、嫌われるのが怖いだけの沈黙も、たぶん違う。
書いてから、少しだけ考えて、さらに続けた。
切るためじゃなく、届くための言葉を選びたい。
「……たぶんわたし」
菜根タンは自分の書いた文字を見ながら言った。
「今日は、ちゃんとしようよっていう気持ちは本当だったけど」
「同時に、なんで気づかないのっていらだちも少しあったんだと思う」
韓非ちゃんが短くうなずく。
「あるでしょうね」
「うわ、容赦ない」と孟子ちゃんが言う。
「でも」と、菜根タンは続けた。
「だから全部だめだった、っていうより」
「次はもう少し、届く言い方を考えたい」
「それでもだめな時は……その時は、嫌われても言うしかないのかも」
孟子ちゃんの顔が少し明るくなる。
「うん! それでいいと思う!」
論子ちゃんも、静かにうなずいた。
「正しさを捨てないことと、礼を捨てないこと」
「その両方を考えられるなら、きっと前よりずっといいよ」
「少なくとも」と、韓非ちゃんが言う。
「今日よりは、無駄に敵を増やさずに済むかもしれないわね」
「ほんと、その言い方だけなんとかならないかな」と孟子ちゃん。
夕方の風が、階段の踊り場を抜けていく。
菜根タンはノートの文字を見つめた。
正しいことは、たぶんそれだけで十分ではない。
でも、十分ではないからといって、黙ってしまえばいいわけでもない。
そのあいだにある、少し不格好で、でも人に届こうとする言葉。
たぶん必要なのは、そういうものなのだろう。
ノートの下に、もう一行だけ書き足す。
相手を負かすより、伝わる方がむずかしい。
その文字を見て、菜根タンは小さく息を吐いた。
空気はまだ少しだけ苦い。
でも、苦いままで終わらせない方法も、きっとある。
それを考えるのは、正しさを捨てることではなくて、
正しさをちゃんと人の中へ置き直すことなのかもしれなかった。




