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どうして親を大切にするの?

 近いものほど、見えにくいのかもしれない。

 菜根タンは、ときどきそう思う。

 遠くのものは、意識して見る。

 大事な約束も、初対面の相手への言葉づかいも、外ではそれなりに気を配る。

 けれど、毎日そこにあるもの、いつでも手が届くところにあるものには、つい気持ちが甘くなる。

 甘くなる、という言い方がやさしすぎるなら、雑になると言ってもいい。

 その日の夕方、菜根タンはスマホの画面を見て、少しだけ眉を寄せた。

 母からの着信履歴が残っていた。

 その少し前には、短いメッセージも入っている。

今日、帰り少し遅くなる?

夕飯いるなら連絡ちょうだいね

 ただ、それだけだった。

 それだけなのに、菜根タンは返信をする前から、少し面倒くさい気持ちになっていた。

 今すぐ返せば済む。

 「いるよ」でも「いらないよ」でも、それだけでいい。

 なのに、なぜか指が止まる。

 理由ははっきりしていた。

 少し前に、家を出る時の言い方がきつかったのだ。

「今日プリントいるんだから、朝に言ってよ」

 自分ではそのつもりがなくても、声が尖っていた。

 母は「あ、ごめんね」と言って、引き出しの奥から慌ててプリントを探していた。

 その顔が、帰り道になってから急に思い出される。

 謝るほどのことだろうか、と先に考える。

 怒鳴ったわけでもない。ものを投げたわけでもない。

 ただ少し、不機嫌な声が出ただけだ。

 でも、その「少し」が、今はひっかかっていた。

 菜根タンはスマホを閉じて、ため息をひとつついた。

「ずいぶん苦そうな顔してるね」

 顔を上げると、荘子ちゃんがいた。

 いつものように、ふわりと現れたように見える。どこから来たのかよく分からないのに、最初からそこにいたみたいな顔で立っている。

「苦そう?」

「うん。渋柿を飲み込んだみたい」

 菜根タンは苦笑した。

「そんな顔してた?」

「してたよ」

 荘子ちゃんは菜根タンの隣に腰を下ろすでもなく、少し斜め前に立ったまま、スマホを指さした。

「それ、返さないの?」

「返すよ。返すんだけど……」

「だけど?」

 菜根タンは少し目を伏せた。

「ちょっと、朝の言い方がきつかったなって思って」

「それで、今さら普通に返すのも変かなって」

 荘子ちゃんは首をかしげた。

「変かなって考えてるあいだに、もっと変になりそうだけど」

「それは……そうかも」

「親?」

「うん」

 荘子ちゃんは「ふうん」とだけ言って、風の流れでも見ているみたいに木の上を見た。

「親ってさ、不思議だよね」

「近いから、つい後回しになる」

 菜根タンは、少しだけ目を見開いた。

「……うん」

「でもさ」

 荘子ちゃんは葉の影からこぼれる光を見ながら言う。

「近いって、そんなに偉いのかな」

「え?」

「親だから大事にしなさいって、よく聞くけど」

「なんで?」

 問い方があまりにまっすぐで、菜根タンはすぐに答えられなかった。

 なんで、と言われると、たしかに少し困る。

 そういうものだと思っていたし、そうであってほしい気もする。

 でも、言葉にしようとすると、思ったより足元がゆらぐ。

「……分かんない」

 菜根タンが正直にそう言った時、背後から明るい声が飛んできた。

「それなら、ちょうどいいよ!」

 振り向くと、孟子ちゃんが手を振りながらこちらへ走ってくるところだった。そのすぐ後ろを、もう少し落ち着いた足取りで一人の女の子が歩いてくる。

 菜根タンは、その子を見た瞬間に背筋が少し伸びた。

 派手さはない。声も大きくない。

 けれど、立っているだけで「ちゃんとする」という形が見えるような子だった。

 髪も制服も乱れなく整っていて、目元はやさしいのに、どこかすっと筋が通っている。

 孟子ちゃんがうれしそうに菜根タンの前へ来て、振り返る。

「紹介するね! 論子ちゃん先輩!」

 論子ちゃんは小さく会釈した。

「はじめまして。噂は聞いてるよ、菜根タンちゃん」

 声もきれいだった。

 大きくはないのに、耳に入ると姿勢が少し整うような、不思議な響きがある。

「は、はじめまして」

 菜根タンもあわてて頭を下げる。

 荘子ちゃんは横で、面白そうにその様子を見ていた。

 孟子ちゃんは論子ちゃんの隣に立つと、それだけで少しうれしそうだった。普段からまっすぐな子だが、今はそのまっすぐさに後輩らしい熱が混じっている。

「ちょうどね、菜根タンがどうして親を大切にするの?って考えてたの」

「へえ」と、論子ちゃん。

「いい問いだね」

 荘子ちゃんが口を挟む。

「でもさ、それって当たり前みたいに言うけど、ほんとになんでなの?」

「親ってだけで、そんなに特別?」

 論子ちゃんはすぐには答えなかった。

 少しだけ考えるように、菜根タンの手元のスマホへ目を落とす。

「親だから絶対、って言い方をすると、たしかに苦しくなる子もいると思う」

 その言い方が、菜根タンには少し意外だった。

 もっと真っ先に「親を大切にしなさい」と来るのかと思っていた。

 けれど論子ちゃんは、そう簡単に言い切らなかった。

「でもね」と、彼女は続ける。

「わたしは、親を大切にするって、命令だとは思ってないの」

 孟子ちゃんがうなずく。

 そのうなずき方ひとつで、この二人が普段からよく話していることが分かった。

「じゃあ、なに?」と荘子ちゃん。

 論子ちゃんは穏やかなまま答えた。

「いちばん近い相手への態度って、その人の根っこが出るから」

 菜根タンは、思わず顔を上げた。

「根っこ……」

「外でどんなに丁寧でも、家でだけ極端に乱暴な人っているでしょ」

「家族にはありがとうを言わないのに、外では礼儀正しい顔をする人もいる」

「そういうのって、やっぱりどこか歪むの」

 孟子ちゃんが勢いよく続ける。

「そうそう! 近い相手を雑にするのって、すごく悲しいことだよ」

「だって、いちばん最初に自分を育ててくれた人なのに」

「孟子ちゃん」

 論子ちゃんが少しだけ笑ってたしなめる。

「熱いのはいいけど、もう少し順番を」

「えへへ……すみません、先輩」

 孟子ちゃんが素直に引く。その様子に、菜根タンは少しだけ口元がゆるんだ。

 仲がいいんだな、と思う。

 しかも、ただ仲がいいだけじゃない。

 論子ちゃんの言葉を孟子ちゃんがほんとうに大事にしているのが、やりとりの端々から伝わってくる。

「でも」と、荘子ちゃんはまだ首をかしげている。

「親が立派とは限らないよね。近いからって、傷つけてくる人だっているし」

「うん」と、論子ちゃんはすぐにうなずいた。

「だから親なら何をしても敬えとは、わたしは言わないよ」

 その言葉に、菜根タンは少しほっとした。

 論子ちゃんは続ける。

「ただ、近い相手を当たり前にしないことは大事だと思う」

「親という存在を絶対化するんじゃなくて、近くで自分を支えてくれた人を、雑に扱わないこと」

「それができないと、たぶん外の人にも、本当の意味では礼を尽くせない」

 菜根タンはスマホを見た。

 母からのメッセージは、まだそこにある。

 ただ返信すれば済む話なのに、なぜこんなに引っかかっているのか。

 それはたぶん、相手が親だからだ。

 遠い人にならしない言い方を、近いからという理由でしてしまった。

 そして近いから、きっと分かってくれるだろうと甘えていた。

「……でも」

 菜根タンが口を開く。

「親を大切にするって、なんか大げさな言い方に聞こえる」

「もっと、ちゃんとした人だけが言えるみたいな」

「大げさにしなくていいんじゃないかな」

 論子ちゃんの声はやわらかかった。

「毎日ひざまずいて感謝しなさいって話じゃないもの」

「返事をする、とか」

「話をちゃんと聞く、とか」

「近いからって、言葉をぞんざいにしない、とか」

「そういう小さいことの積み重ねだよ」

 孟子ちゃんが大きくうなずく。

「そう! いきなり立派になれなくても、悲しませないようにするだけでも大事だよ」

「それ、ちょっと孟子ちゃんの方が言いそうな言い方だね」と、論子ちゃんが笑う。

「えっ、そうですか?」

「うん。わたしはもう少し崩さないって言うかな」

「うわ、先輩っぽい……!」

 二人のやりとりに、荘子ちゃんがくすりと笑う。

「やっぱり仲いいね、儒家コンビ」

「コンビって」と論子ちゃんが少し困ったように笑い、孟子ちゃんは「いいじゃないですか!」と嬉しそうにする。

 菜根タンはその光景を見て、胸の奥の苦さが少し形を変えるのを感じた。

 親だから、絶対に正しい。

 親だから、何をされても敬わなければいけない。

 そう言われたら、きっと苦しかったと思う。

 でも今、論子ちゃんが言ったのはそういうことではなかった。

 近い相手だからこそ、つい雑になる。

 その雑さに、自分の根っこが出る。

 だからこそ、近い相手への言葉づかいや態度を、当たり前と思わないことが大事なのだと。

「……わたし」

 菜根タンはスマホを握り直した。

「今朝、ちょっとだけきつい言い方したんだ」

「たいしたことじゃないと思ってたけど……たぶん、近いからって甘えてた」

 論子ちゃんはすぐに何か言わず、ただ静かに待った。

 孟子ちゃんも、いつもの勢いで励ます前に、いったん菜根タンの言葉を受け止めている。

「謝るの、変かな」

 菜根タンがそう言うと、論子ちゃんは首を横に振った。

「変じゃないよ」

「むしろ、近い相手にほど言いにくいごめんねを言える方が、たぶんずっとちゃんとしてる」

 孟子ちゃんが笑う。

「うん! それ、すごく大事!」

 荘子ちゃんは肩をすくめた。

「まあ、親だから大事、っていうより」

「近いから雑にしない方がいい、って話なら分かるかも」

「そうだね」

 論子ちゃんはうなずいた。

「大切にするって、従うことでも、飾ることでもなくて」

「当たり前にしないこと、なのかもしれない」

 その言葉が、菜根タンにはすとんと落ちた。

 スマホの画面を開く。

 母からの短いメッセージの下に、菜根タンは返事を書いた。

ごめん、朝ちょっときつかった

夕飯いるよ

ありがとう

 送信のボタンを押すまで、少しだけ勇気がいった。

 けれど送ってしまうと、胸の中に詰まっていたものが、ほんの少しだけほどけた気がした。

 そのまま、ノートを開く。

 新しいページに、菜根タンはゆっくり書く。

 近いからって、雑でいい理由にはならない。

 その一行を見つめてから、もう一つ、下へ書き足した。

 大切にするって、当たり前にしないことかもしれない。

 風が吹く。

 木の葉が揺れて、その向こうで孟子ちゃんが論子ちゃんに何か話しかけている。

「でも先輩、わたしはやっぱり恩って言葉も大事だと思うんです!」

「うん、それも分かるよ。孟子ちゃんはそこから話した方が似合うね」

「えへへ、やっぱりそうですか」

「そういうところ、嫌いじゃないよ」

「先輩~!」

 その声を聞きながら、菜根タンは少しだけ笑った。

 親だから、無条件に正しいとは思えない。

 でも、近いからといって雑にしていいわけでもない。

 そのあいだにある、少し苦くて、でもたしかに人を支える礼。

 たぶん、論子ちゃんが言いたかったのは、そういうことなのだろう。

 スマホが小さく震えた。

こちらこそごめんね

気をつけて帰っておいで

 それだけの短い返事だった。

 菜根タンは画面を見つめてから、そっとスマホを閉じた。

 すぐには立派になれない。

 きっとまた、近い相手に甘えてしまう日もある。

 でも、当たり前にしないように気をつけることなら、今日からでもできる。

 それはたぶん、遠い徳より少し地味で、でもずっと本当のことだった。

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― 新着の感想 ―
何より感動したのは、複雑な問いに対して「どちらも間違っていない、バランスが大事」という大人のアプローチを示してくれるところです。信じるけれど備える、努力するけれど現実的に、親を大切にするけれど無理をし…
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