努力は、ほんとうに報われるの?
努力という言葉は、少し明るすぎると菜根タンは思っていた。
もちろん、悪い言葉ではない。投げ出さずに続けること。昨日より少しでも前へ進もうとすること。そういうものが無意味だとは思わない。むしろ、たいていのことは一度や二度でうまくいかないのだから、努力が必要なのは当たり前だった。
ただ、それにしても「努力すれば報われる」という言い方には、どこか晴れた空の下でしか通じない軽さがある。
努力したのに、思ったところへ届かない時がある。
努力したぶんだけ、自分の足りなさが見えてしまう時もある。
それでもなお、同じ言葉を同じ明るさで言っていいのだろうかと、菜根タンはときどき思う。
その日の昼休み、返却された小テストを見ながら、菜根タンは小さく息を吐いた。
点数は悪くない。悪くはないのだが、よくもなかった。
前より勉強したつもりだった。まとめノートも作ったし、苦手なところも何度か見返した。少なくとも、前回よりは手ごたえがあると思っていた。けれど返ってきた紙に並んだ数字は、その手ごたえほどにはやさしくなかった。
「……上がってるけど、ちょっとだけか」
口に出してみると、余計に中途半端な結果に思える。
落ちたわけではない。大失敗でもない。
でも、がんばった実感に対して、返ってきたものが少しだけ薄い。
その薄さが、静かに胸に残った。
「どうしたの?」
声をかけられて顔を上げると、孟子ちゃんが立っていた。相変わらず、空気の中へ迷いなく入ってくる。
「ん……小テスト」
菜根タンが答案を見せると、孟子ちゃんは覗き込んだ。
「え、全然悪くないじゃん」
「悪くはないんだけどね」
「じゃあ、なにがそんな顔になるの?」
菜根タンは答案の端を指でなぞった。
「前よりやったつもりだったから」
「もっと上がるかなって、ちょっと思ってた」
孟子ちゃんは答案より先に、菜根タンの顔を見た。
「そっか」
その一言には、軽く流さない感じがあった。
「がんばったのに思ったほどじゃないと、ちょっとしょんぼりするよね」
菜根タンは苦笑した。
「うん。しょんぼり、かも」
孟子ちゃんは菜根タンの隣の席に腰を下ろし、答案をもう一度見た。
「でも、上がってるんでしょ?」
「まあ……ちょっとだけ」
「だったら、ちゃんと進んでるよ」
孟子ちゃんは、ごく自然にそう言う。
「努力ってさ、一回でどーんって報われる時ばっかりじゃないよ。ちょっとずつ積もる時だってあるもん」
その言葉はやさしかったし、たぶん間違ってはいない。
けれど菜根タンの胸に残っていた小さな引っかかりまでは、まだきれいにほどけなかった。
「……でも、がんばってもあんまり変わらない時って、あるよね」
「そういう時、努力ってなんなんだろって思う」
そこで、ぴしりと定規でも鳴らしたような声が入った。
「努力を美談にしすぎなのよ」
振り返ると、荀子ちゃんがいた。
髪も制服も隙なく整っていて、立っているだけで「姿勢を正しなさい」と言われたような気分になる。きちんとしているというのは、ここまで圧になるのかと菜根タンはたまに思う。
「出た」と、孟子ちゃんが言う。
「わたしは事実を言っているだけ」と、荀子ちゃんは答えた。
そのまま、二人の前に立つ。
「努力が報われない、と感じる時の多くは、努力の量ではなく方法が粗いの」
「やったつもり、頑張ったつもり、それだけでは足りないわ」
菜根タンは目を瞬いた。
「方法……」
「そう」
荀子ちゃんは菜根タンの答案を手に取った。
「たとえば、どこを間違えたのか見た?」
「分からなかったから落としたのか、勘違いしていたのか、時間が足りなかったのか」
「そこを分けない努力は、鍬も入れずに種だけまくようなものよ」
孟子ちゃんがむっとする。
「でも、やったこと自体はちゃんと前進でしょ!」
「前進は前進よ」
荀子ちゃんはうなずく。
「でも、前に進んでいるからといって、それが正しい方向とは限らない」
菜根タンは答案を見下ろした。
たしかに、見直しはした。
けれど「今回はだめだったな」で止まっていたかもしれない。
どこがだめだったのか、どうだめだったのか、そこまで分けて見たわけではなかった。
「努力は大事よ」と荀子ちゃんは続けた。
「でも人は放っておくと、だいたい雑になるの」
「だから鍛え方がいるし、整え方がいるし、繰り返しが要るのよ」
その時、教室の後ろの窓際から、ため息のような声がした。
「努力ねえ」
韓非ちゃんだった。いつから聞いていたのか、外を眺めるみたいな顔でこちらを見ている。
「またずいぶん夢のある単語で集まってるわね」
「なによその言い方」と、孟子ちゃん。
「言い方はいつ孟子うよ」と、韓非ちゃん。
彼女は席を立ち、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「努力が報われるかどうかは、努力だけでは決まらないわ」
「評価する側が何を見るか。競争相手が誰か。仕組みがどうなっているか。そこを無視して頑張ればきっとなんて言うのは雑よ」
菜根タンは顔を上げた。
「……でも、努力が無駄ってこと?」
「そうは言ってない」
韓非ちゃんは即座に否定した。
「努力は材料よ。材料だけでは料理にならない、というだけ」
「自分が何を求められているかも見ずに努力して、報われませんでしたと嘆くのは、ただの確認不足」
荀子ちゃんが静かに口を挟む。
「方法を整えろという意味では、同じ結論ね」
「似ているようで違うわ」と、韓非ちゃんは肩をすくめた。
「あなたは人を鍛えればよくなると思っている。私は、先に盤面を見ろと言っているの」
孟子ちゃんが腕を組んだ。
「なんかもう、二人とも努力する人に冷たくない?」
「冷たく見えるのは、慰めていないからよ」と韓非ちゃん。
「泣きながら穴を掘る人に、すごいわね、えらいわねと言うより、そこ掘っても水は出ないと言った方がまだ親切でしょう」
そこまで言ったところで、教室の後ろの方から椅子の音がした。
孫子ちゃんだった。
彼女は普段から声が大きい方ではない。静かで、目立つ動きもしない。けれど一度こちらへ視線を向けると、場のあちこちが勝手に整列するような感じがある。
「努力するな、とは誰も言っていない」
短く、そう言った。
全員がそちらを見る。
「ただ、勝ちに繋がらない努力を続けるのは消耗だ」
孫子ちゃんは、教室前方の黒板を見ながら話している。誰かに聞かせるためというより、整理された事実をそこへ置くみたいな口ぶりだった。
「努力には三つある」
「量を積む努力。型を作る努力。勝てる場所を選ぶ努力」
「多くの人は最初の一つしか見ない」
菜根タンは、思わず聞き返した。
「勝てる場所を、選ぶ……」
「そう」
孫子ちゃんはうなずく。
「同じ点を取るにしても、全部をまんべんなくやるのか、出やすいところを先に固めるのかで結果は違う」
「自分の苦手を全部真正面から殴る必要はない」
「勝ちやすいところから取るのも戦い方だ」
孟子ちゃんは少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「でも、それってずるくない?」
「ずるくない」と、孫子ちゃんは即答した。
「勝つための工夫を、ずるいと言い始めたら、たいてい先に倒れる」
その言葉は、韓非ちゃんの冷たさとはまた違う温度で、菜根タンの胸に落ちた。
努力は、ただ量を積めばいいわけじゃない。
方法が要る。盤面を見る必要がある。勝ち方も考えなければならない。
言われてみれば、どれももっともだった。
もっともすぎて、かえって少し息が詰まりそうになる。
「……でも」
気づけば、菜根タンはそう口にしていた。
「でも、そんなに全部考えてたら、努力する前に疲れちゃわない?」
教室が一瞬だけ静かになった。
最初に反応したのは、孟子ちゃんだった。
「それ!」
机をばんと叩きそうな勢いで身を乗り出す。
「それなの!」
「頑張ろうとしてる子に、方法! 盤面! 勝ち筋! って全部のせたら、動く前にしんどくなるでしょ!」
荀子ちゃんは少しだけ眉をひそめた。
「だからこそ、指導がいるのよ」
「いやいや、最初の一歩ってそういうことじゃなくない?」と、孟子ちゃん。
「やってみようって気持ちも大事じゃん!」
「気持ちだけでは形にならないわ」と、荀子ちゃん。
「形にならない気持ちを、どうやって形にするかを考えるのが先でしょう」と、韓非ちゃん。
「最初の火を消しては意味がない」と、孟子ちゃん。
「火力だけでは料理はできない」と、荀子ちゃん。
「燃料切れする前に計算しろ」と、韓非ちゃん。
「弱い火でも鍋の置き方はある」と、孫子ちゃん。
四人の言葉が、少しずつ違う方向から重なっていく。
菜根タンは答案を見つめた。
努力すること自体は、たぶん悪くない。
でも、努力しているという感覚だけを抱きしめていても、前には進まない。
かといって、勝ち方ばかりを計算していたら、今度は始める前に心がすり減る。
努力という言葉の明るさと、その下にある地味な苦さ。
その両方が、今なら少しだけ見える気がした。
「……わたし」
菜根タンが口を開くと、四人の言葉が止まった。
「たぶん、努力すれば絶対報われるって言葉が、ちょっと苦手だったの」
自分でも、言いながら少し驚いた。
でも、口にしてみるとしっくりきた。
「頑張ってもすぐには変わらない時、あるし」
「ちゃんとやったつもりでも、方向が違う時もあるし」
「そういう苦いところを飛ばして、努力って明るいよねって言われると……なんか、置いていかれる感じがして」
孟子ちゃんが黙って聞いている。
荀子ちゃんも、韓非ちゃんも、孫子ちゃんも、口を挟まない。
「でも」
菜根タンは答案を裏返した。
「だからって、やらない方がいいとも思わない」
「努力って、たぶん約束じゃないんだよね。やれば必ず報われるっていう」
「でも、何も積まないまま、いい結果だけ待つための言い訳にもしたくない」
そのまま、ノートを開く。
新しいページに、しばらく考えてから書いた。
努力は願いじゃない。
届く形に、少しずつ整えること。
自分でも、その文字をしばらく見つめる。
「願うだけじゃ届かない」
「でも、届かなかった時に全部無駄だったって言うのも、ちょっと違う」
菜根タンは小さく息を吐いた。
「だからわたし、頑張ったかどうかだけじゃなくて」
「次はどこをどう変えるか、そこまで見ようと思う」
「でも、最初のやってみたいって気持ちは、あんまり冷やしたくない」
最初に笑ったのは、孟子ちゃんだった。
「うん。それ、いい」
荀子ちゃんも、静かにうなずいた。
「気分論だけで終わっていないなら、悪くないわ」
「ずいぶん上からね」と、孟子ちゃんが言う。
「あなたほどではないわ」と、韓非ちゃんが返す。
孫子ちゃんは黒板の方を見たまま、短く言った。
「次は、伸ばしやすいところから取るといい」
菜根タンは、少し笑った。
努力はきっと、きらきらした言葉ではない。
土みたいに地味で、たまに思ったより固くて、掘ってもすぐ水が出るとは限らない。
それでも、土に触れなければ芽は出ないのだろう。
ノートのさっきの一行の下へ、もう一つ書き足す。
急に咲かなくても、根が伸びている日がある。
その文字を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
報われるかどうかは、まだ分からない。
でも、今日は少なくとも、昨日の自分と同じ場所にいるわけではない。
そのことまで無かったことにしてしまうのは、たぶん少しだけ、自分に失礼だ。
教室の窓から、午後の風が入ってくる。
「でもやっぱり、最初の火は大事なんだからね!」
「火だけで鍋は煮えないわ」
「鍋を置く場所も見なさい」
「弱火でも時間を味方につければ勝てる」
四人がまた言い合いを始めるのを聞きながら、菜根タンはノートを閉じた。
努力は、明るいだけの言葉じゃない。
でも、苦いだけでもないのかもしれない。
そのあいだを、今日も少しずつ噛んでいけばいい。




