信じたいけど、傷つきたくない
古典は固い。
でも、人の悩みは昔からあまり変わらない。
そんな気持ちから、この物語を書きました。
諸子百家の思想を宿した女の子たちが、悩み多き主人公・菜根タンと一緒に、
少し苦くて少しやさしい答えを探していきます。
気楽に読んでいただけたらうれしいです。
ノートをまとめるのは、菜根タンの好きな時間だった。
誰に言われたわけでもない。試験に出るところを整理して、先生の雑談を端に書き込んで、あとから見返した時に「ああ、こういう話だった」と思い出せるようにしておく。ただそれだけの作業だが、罫線の上に文字を並べているうちに、頭の中まで少しずつ整っていくのが好きだった。
放課後の教室は、昼間のざわつきが抜けて少し広く感じられる。窓の外では運動部のかけ声が風に混じって聞こえていた。菜根タンは机に向かい、緑色の細いしおり紐をノートの間に挟みながら、最後の見出しを書き込んだ。
「菜根タンちゃん」
声をかけられて顔を上げると、隣の列の女子が困ったように笑っていた。少し急いでいるのか、肩にかけた鞄の紐をぎゅっと握っている。
「その現国のまとめ、ちょっと見せてもらってもいい?」
菜根タンはきょとんとしたあと、すぐに笑った。
「え? あ、うん。いいよ」
「ほんと!? 助かる~! 明日すぐ返すから!」
勢いよく言われて、菜根タンは少しだけ迷った。迷った、というほどのことでもない。ただノートというのは、自分の頭の中をそのまま見せるようで、ほんの少しだけくすぐったい。
けれど相手の顔は本当に助かったというふうに見えたし、断る理由も見つからなかった。
「ぐちゃぐちゃなとこもあるけど……それでもよかったら」
差し出したノートを、彼女は宝物みたいに両手で受け取った。
「全然! むしろめちゃくちゃ分かりやすいし! ありがとー!」
そう言って小走りに去っていく背中を、菜根タンは小さく手を振って見送った。
信じた、というほど大げさなことじゃない。
ただ、困っていそうだったから貸しただけだ。
それだけのことだった。
翌朝、教室に入った時から、なんとなく空気がにぎやかだった。
「えっ、これ自分でまとめたの?」
「すごーい、めっちゃ見やすい!」
「こういうの作れる人ほんと尊敬する」
人だかりの向こうに、見覚えのあるノートの罫線と見出しの癖が見えた。赤線の引き方も、丸で囲む位置も、自分のものとそっくりだった。そっくり、というより、そのままだった。
昨日ノートを借りていった女子が、そのコピーらしい紙を手にして笑っている。
「いやー、まあ……ちょっと徹夜して」
菜根タンの足が、ほんの少しだけ止まった。
胸のあたりで、細い針みたいなものが静かに刺さる。
怒るほどのことだろうか、と先に考えた。ノートは返してもらった。盗まれたわけでもない。殴られたわけでもない。たぶん、ものすごく悪質なことをされたわけでもない。
でも、苦い。
その苦さだけが、先に舌に乗った。
「あっ、菜根タンちゃん!」
女子がこちらに気づいて、少しだけ気まずそうに笑った。
「その……昨日ありがとね!」
菜根タンは反射みたいに口元をやわらげた。
「……ううん。役に立ったなら、よかった」
「ほんと助かった! また今度お礼するね!」
軽い調子でそう言って、彼女はまた輪の中に戻っていく。
菜根タンはその場に少しだけ立ち尽くした。
役に立ったなら、よかった。
ほんとはたぶん、そう思いたい。
でも胸の底では別の言葉が、行き場をなくして小さく沈んでいた。
昼休み。中庭のベンチに腰を下ろして、菜根タンは閉じたノートを膝の上に乗せていた。
春の風が葉を鳴らしている。空は青いし、日差しもやわらかい。たぶん何も悪い日じゃない。なのに、午前中から胸の奥に残ったざらつきだけが取れなかった。
そんなに大きなことじゃない。
ノートを貸した。それだけ。
返してくれなかったわけでもない。
ただ、少しだけ――苦い。
「いたいた!」
明るい声と一緒に、ベンチの前へ影が差した。
顔を上げると、もうこちゃんが立っていた。陽の光をそのまま連れてきたみたいな笑顔だったが、菜根タンの顔を見た途端、その目が少しだけまっすぐになる。
「こんなとこでなにしてるの?」
「ん……ちょっとね」
「ちょっとねって顔じゃないよ」
即答だった。
菜根タンは思わず苦笑した。
「そんなに分かりやすい?」
「うん」
もうこちゃんはそう言って、ためらいなく隣に腰を下ろした。相手の距離に入り込むのがうまい。けれど乱暴ではない。不思議と、押しつけられた感じがしない。
「で、なにがあったの?」
菜根タンは少しだけ迷った。こんなことを口にしても、自分が細かい人間に見えるんじゃないかという気持ちがあった。けれど孟子ちゃんの顔は、「話してもいいよ」と先に言っていた。
「昨日、ノート貸したの。困ってそうだったから」
「うん」
「そしたら今日……なんていうか、自分でまとめたみたいにされてて」
言ってしまうと、ますます小さな話に思えた。もっとひどいことなんて世の中にいくらでもある。これくらいで引っかかる自分の方が狭いのかもしれない。
けれど、孟子ちゃんは笑わなかった。
「……それ、いやだったね」
その一言で、胸のつかえが少しだけほどけた。
「うん。たぶん、いやだった」
「たぶん?」
「怒るほどでもないのかなって思って。わたしが勝手にもやもやしてるだけかなって」
孟子ちゃんはすぐに首を振った。
「勝手じゃないよ」
きっぱりした声だった。
「困ってる人を助けたのに、その気持ちを雑に扱われたら、そりゃ苦いよ」
菜根タンは目を落とした。膝の上のノートの角を指でそっとなぞる。
「……でも、次から誰にも貸さないって思うのも、ちょっとさみしい」
「でしょ?」
孟子ちゃんは、そこでようやく少し笑った。
「だったら、そこで心まで閉じちゃだめだよ」
菜根タンはゆっくり顔を上げた。
孟子ちゃんの目は、まっすぐだった。まっすぐすぎて、時々まぶしいくらいに。
「一回いやなことがあったからって、人を信じるのやめるなんてもったいないよ! 人の心って、そんなに捨てたもんじゃないから」
その言葉はあたたかかった。胸の苦さに、少しだけ湯気が立つみたいだった。
「……でも、また同じことになったら?」
そう問うた時、自分でも少し情けないと思った。あたたかい言葉をもらっているのに、まだ怖がっている。
けれど孟子ちゃんは笑わなかった。
「それでも、信じる価値はあるよ」
そう言い切った瞬間、背後から冷たい声が降ってきた。
「ずいぶん温かい話ね」
空気がすっと変わる。
木陰の方から、かんぴちゃんが歩いてきた。表情は静かで、声も大きくないのに、不思議と場の温度だけが数度下がる。
「でも、そういう温かさって、たいてい再発防止には役立たないわ」
孟子ちゃんがむっと眉を寄せた。
「……出た」
韓非ちゃんは気にも留めず、ベンチの背に軽く寄りかかった。
「困ってる人を助けるのは勝手よ。でも、その結果で傷ついたなら、方法が雑だったの」
「雑ってなによ!」と孟子ちゃんが噛みつく。「菜根タンは親切にしただけでしょ!」
「親切と無防備は違うわ」
その一言に、菜根タンの胸がぴくりとした。
「無防備……」
「貸すなら条件を決める。返す日、使い方、複製の可否。それだけで防げた話よ」
韓非ちゃんの言葉は短い。けれど短いぶん、刃物みたいにすっと入る。
孟子ちゃんは立ち上がった。
「そんなの、最初から相手を疑ってるみたいじゃない!」
「疑うんじゃない」
韓非ちゃんは淡々と言う。
「人は都合で動くって理解しておくの」
「それじゃ、誰にもやさしくできなくなるよ!」
「逆よ。壊れない仕組みがあるから、やさしくできるの」
菜根タンは二人を見比べた。
孟子ちゃんの言葉はあったかい。
韓非ちゃんの言葉は冷たい。
でも、冷たいのに少しだけ、痛いところに触る。
貸すなら条件を決める。返す日、使い方、複製の可否。
そんなこと、考えもしなかった。ただ助けたいと思って、そのまま渡しただけだった。たしかに、親切ではあったのかもしれない。けれど親切であることと、自分を守ることは、別の話だったのかもしれない。
「菜根タンは悪くないよ」
孟子ちゃんがこちらを振り返る。
「いやな思いしたからって、そこでもう誰も信じないなんて、もったいない」
「信じるのは好きにすればいいわ」
韓非ちゃんが被せる。
「でも、信じたのに裏切られたって毎回泣くのは滑稽よ」
「言い方!」
孟子ちゃんが怒る。
菜根タンは小さく手を出した。
「……待って」
二人の声が止まる。
菜根タンは少し息を吸った。すぐに何かを言えるほど、頭の中は整っていない。けれど黙ったままでは、また誰かの言葉だけで自分の気持ちが上塗りされてしまう気がした。
「孟子ちゃんの言うこと、分かるの」
そう言ってから、一度目を伏せる。
「一回いやなことがあったからって、すぐ心を閉じるのは……たぶん、少し寒い」
孟子ちゃんの表情がやわらぐ。
「でも、韓非ちゃんの言うことも分かる」
今度は韓非ちゃんを見る。
「わたし、信じるって言いながら、何も考えてなかったのかもしれない」
二人が黙る。
菜根タンは膝の上のノートを開いた。新しいページをめくる。まっさらな紙面に、少しだけ震える手でペンを置いた。
迷いながらも、書く。
信は捨てない。
でも、鍵はかける。
書き終えたその一行を、自分でもしばらく見つめた。
「信じるのをやめたくはないよ」
菜根タンは静かに言った。
「でも、信じるなら……次はちゃんと、守り方も考える」
孟子ちゃんが目を丸くして、それからふっと笑った。
「……そっか。それなら、心は閉じてないね」
韓非ちゃんは腕を組んだまま、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「ようやくまともな言葉が出たわね」
「感じ悪っ!」
孟子ちゃんが即座に返す。
「褒めてるのよ、一応」
菜根タンは思わず小さく笑った。
苦い。たしかに苦い。けれど、苦いからといってすぐに吐き出してしまうより、ちゃんと噛んだ方が少しだけ自分の味になるのかもしれない。
ノートのさっきの一行の下に、もう一つ書き足す。
人を信じることと、何も備えないことは、同じじゃない。
文字を見つめながら、菜根タンはそっと息を吐いた。
甘いだけじゃ、たぶん続かない。
苦いだけでも、きっと寂しい。
だったらわたしは、苦いものもちゃんと噛める人でいたい。
風が中庭を抜ける。孟子ちゃんと韓非ちゃんは、その後ろでまだ小さく言い合っていた。
「でも言い方ってものがあるでしょ!」
「温度で問題は解決しないわ」
「だからって冷やせばいいってもんじゃないの!」
菜根タンはその声を聞きながら、ノートを閉じた。
胸のざらつきが消えたわけではない。
でも、さっきよりは少しだけ、飲み込みやすくなっていた。
菜根タンと諸子百家ガールズの物語は、まだ始まったばかりです。
次回もお付き合いいただけたらうれしいです。




