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「足るを知る」って、どういうこと?

今回は、少し静かでやさしい話です。


人は、誰かの持っているものを見た瞬間に、昨日まで足りていたものが急に足りなく見えることがあります。


もっと欲しいと思うことは、悪いことではありません。

でも、まだ持っていないものばかりを見て、すでに手の中にあるものまで見失ってしまったら、少しさびしい。


今回は老子ちゃんが、「足るを知る」という言葉を、我慢ではなく“今あるものに気づくこと”として菜根タンに伝えます。

 昨日までは、なんとも思っていなかった。

 菜根タンの筆箱は、少し古い。

 角のところが擦れていて、表面には小さな傷もある。

 ファスナーも、新品の頃ほど滑らかではない。

 でも、ずっと使ってきたものだった。

 手になじんでいるし、必要なものはちゃんと入る。

 中には、使い慣れたペンと、友達にもらった消しゴムも入っている。

 だから昨日までは、それで十分だった。

 ところが今日、クラスメートが新しい筆箱を持ってきた。

 きれいな色。

 小さな飾り。

 開くと中が何段にも分かれていて、文房具がきれいに並ぶ。

「かわいいね」

 菜根タンも、素直にそう言った。

 実際、かわいかった。

 でも、そのあと自分の席へ戻って、机の上に置いてある筆箱を見ると、急に古びて見えた。

 昨日まで気にならなかった傷が目につく。

 少し色あせているようにも思える。

 新しい筆箱が欲しい。

 そう思った瞬間、今まで使っていたものが、なんだか急に足りないものになった。

 まだ使える。

 困ってもいない。

 昨日までは好きだった。

 それなのに、誰かの新しいものを見た途端、自分のものがつまらなく見える。

 菜根タンは、少しだけ変な気持ちになった。

 放課後、部室へ行くと、老子ちゃんが窓際の席に座っていた。

 机の上には、湯気の立つお茶。

 その隣には、小さな包みのお菓子が一つ。

 老子ちゃんは急ぐでもなく、お菓子を半分に割っていた。

「老子ちゃん」

「んー?」

 老子ちゃんは、ゆっくり顔を上げた。

「『足るを知る』って、どういうこと?」

 老子ちゃんはすぐには答えなかった。

 菜根タンの顔を見て、それから机の上の筆箱を見る。

「何か欲しくなったの?」

「……うん」

 菜根タンは、昼休みのことを話した。

 友達の新しい筆箱がかわいかったこと。

 それを見たあと、自分の筆箱が急に古く見えたこと。

「でも、これ、昨日までは普通に好きだったんだよね」

「まだ使えるし、困ってもいないし」

「なのに、急に新しいのが欲しくなって」

 老子ちゃんは、菜根タンの筆箱をじっと見た。

「それ、昨日までは足りてた?」

「うん」

「今日、壊れた?」

「壊れてない」

「入らなくなった?」

「ううん」

「じゃあ、足りなくなったんじゃないね」

 老子ちゃんは、お茶を一口飲んだ。

「誰かを見て、足りない気がしたんだね」

 その言葉に、菜根タンは少し黙った。

 たしかに、その通りだった。

 筆箱は何も変わっていない。

 変わったのは、自分の見方だけだ。

「でも、新しいものが欲しくなるのって、悪いことなのかな」

「悪くないよ」

 老子ちゃんは、あっさり言った。

「欲しいって思うのは、普通だよ」

「かわいいものを見たら、欲しくなることもあるし」

「便利そうなものを見たら、使ってみたくなることもある」

「じゃあ、『足るを知る』って、我慢することじゃないの?」

「我慢とは、ちょっと違うかな」

 老子ちゃんは、半分に割ったお菓子の一つを菜根タンへ差し出した。

「足るを知るってね」

「何も欲しがらないことじゃないよ」

 菜根タンは、お菓子を受け取る。

「今あるものを、ないことにしないってこと」

 その言葉は、とても静かだった。

 でも、菜根タンの胸には、すっと入ってきた。

「ないことにしない……」

「うん」

「新しい筆箱が欲しいと思ってもいい」

「でも、そのせいで、今の筆箱が急に何の価値もないものになったわけじゃないでしょ」

 菜根タンは、自分の筆箱を見る。

 たしかに古い。

 でも、この中のペンで、たくさんノートを書いた。

 消しゴムは、友達がくれたものだ。

 少し擦れた角も、それだけ長く使ってきたということだった。

「昨日まで好きだったものを、今日になって急に嫌いにならなくてもいいんだね」

「うん」

 老子ちゃんは、少し笑った。

「欲しいものを見てもいいよ」

「でも、そのたびに今あるものを捨てなくていいんだよ」

 その時、孟子ちゃんが部室へ入ってきた。

「何の話?」

「『足るを知る』ってどういうことか聞いてたの」

「足るを知る?」

 孟子ちゃんは少し考えてから、眉を寄せた。

「でも、もっとよくなりたいって思うのは悪くないよね?」

「今で満足しろって言われたら、何も頑張れなくならない?」

「そうだね」

 老子ちゃんは否定しなかった。

「歩きたいなら、歩けばいいよ」

「じゃあ、いいんだ」

「うん」

「ただ、まだ着いてないからって、今いる場所を嫌わなくてもいいんじゃない?」

 孟子ちゃんは少し黙った。

 菜根タンも、その言葉を頭の中で繰り返した。

 まだ着いていない。

 まだ手に入っていない。

 まだなりたい自分になれていない。

 だからといって、今の自分に何の価値もないわけではない。

「じゃあ、『足るを知る』って、向上心を捨てることじゃないんだね」

「うん」

 老子ちゃんはうなずいた。

「もっと欲しいと思ってもいい」

「もっと上手になりたいと思ってもいい」

「でも、“それが手に入るまでは幸せじゃない”って決めなくてもいいんだよ」

 その時、楊子ちゃんが気だるそうに言った。

「欲しいものが増えるたびに不幸になるなら、増やさない方が得でしょ」

 いつの間にか、部屋の隅の椅子に座っていた。

「それ、足るを知るってこと?」と菜根タン。

「だいたい同じじゃない?」

 老子ちゃんは、少しだけ首をかしげる。

「楊子ちゃんは、たまに近いところまで来るね」

「たまにって何よ」

 楊子ちゃんがむっとした顔をする。

 菜根タンは、少し笑った。

 部室の空気が、やわらかくなる。

 そこへ、管子ちゃん先輩が静かに入ってきた。

「ただし、『足るを知れ』という言葉は、使い方を間違えない方がいいわね」

 菜根タンは顔を上げる。

「どういうことですか?」

「本当に足りない人に、我慢しろと言う言葉にしてはいけないということよ」

 管子ちゃん先輩は、いつもの落ち着いた口調で続ける。

「食べるものが足りない」

「休む時間が足りない」

「安全が足りない」

「必要な支えが足りない」

「そういう人に『足るを知りなさい』と言うのは違うわ」

「不足を改善することと、不満を増やし続けることは別だから」

 菜根タンは深くうなずいた。

 たしかにそうだ。

 足るを知るという言葉が、誰かを我慢させるために使われたら、優しい言葉ではなくなる。

「本当に足りないものは、足した方がいい」と管子ちゃん先輩。

「でも、十分にあるのに、比べ続けて不足を作るのは少し違う」

「まず、どちらなのかを見る必要があるわね」

「そっか」

 菜根タンは筆箱を手に取った。

「わたしの場合は、足りないんじゃなくて、足りない気がしただけなんだ」

「そうだね」と老子ちゃん。

 菜根タンは、筆箱のファスナーを開けた。

 中には、いつもの文房具が入っている。

 黒のペン。

 赤のペン。

 少し短くなった鉛筆。

 友達にもらった消しゴム。

 どれも昨日まで、ちゃんと自分の役に立っていた。

「人って、持ってないものを数えるのは上手なんだね」

 菜根タンが言うと、老子ちゃんは静かにうなずいた。

「持ってるものは、慣れると見えなくなるからね」

 健康でいること。

 家へ帰れること。

 話せる相手がいること。

 毎日使っているもの。

 当たり前になったものは、なくならないと気づけないことが多い。

「でも、いちいち全部ありがたいって思ってたら、疲れない?」

 楊子ちゃんが言った。

「思わなくてもいいよ」と老子ちゃん。

「ただ、ないことにはしない方がいい」

「それだけ?」

「それだけ」

 老子ちゃんは、あっさり答えた。

 その軽さが、菜根タンには心地よかった。

 何もかもに感謝しなければならないわけではない。

 欲を消さなければならないわけでもない。

 ただ、今あるものを、ないことにしない。

 それなら、できるかもしれない。

「老子ちゃんは、何か欲しいものないの?」

 菜根タンが聞くと、老子ちゃんは少し考えた。

「あるよ」

「あるんだ」

「お茶のおかわり」

 菜根タンは思わず笑った。

「すぐ手に入るじゃん」

「うん」

 老子ちゃんも少し笑う。

「だから、取りに行こうかな」

 立ち上がった老子ちゃんの背中を見ながら、菜根タンは思った。

 欲しいと思う。

 取りに行く。

 手に入ったら、ちゃんと受け取る。

 それでいいのかもしれない。

 もっと、もっとと追いかけ続けて、手元にあるものを見失わなければ。

 菜根タンはノートを開いた。

 白いページに、ゆっくり書く。

 「足るを知る」というのは、何も欲しがらないことではない。

 その下に、もう一行。

 今あるものを、ないことにしないということなのかもしれない。

 菜根タンは、自分の筆箱をもう一度見る。

 新品ほどきれいではない。

 でも、手になじんでいる。

 傷もある。

 でも、その傷まで急に嫌いになる必要はない。

「新しい筆箱、まだ欲しい?」と孟子ちゃん。

「うん、ちょっと欲しい」

 菜根タンは正直に答えた。

「でも、今すぐじゃなくてもいいかな」

「これが壊れた時に、また考える」

「それなら、我慢してる感じもしないね」

「うん」

 菜根タンは笑った。

「今のも、まだ好きだったって思い出したから」

 老子ちゃんが、お茶を持って戻ってきた。

「それでいいんじゃない?」

 菜根タンは、ノートの最後にもう一行だけ書き足した。

 もっと欲しいと思ってもいい。

 でも、まだ持っていないもののせいで、もう持っている幸せまで見失わなくていいのかもしれない。

 窓の外には、やわらかな夕方の光が差していた。

 足るを知るって、どういうことなのだろう。

 たぶん、欲しいものを全部あきらめることではない。

 成長することをやめることでもない。

 今の自分に無理やり満足することでもない。

 ただ、まだ手に入っていないものばかりを見て、

 すでに手の中にあるものを消してしまわないこと。

 人は、持っていないものを数え始めると、簡単に足りなくなる。

 だから時々、手元を見る。

 昨日まで好きだったもの。

 当たり前に使っていたもの。

 そばにいてくれる人。

 それらを、ちゃんと「ある」と思い出すこと。

 それが「足るを知る」ということなのかもしれなかった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


「足るを知る」という言葉は、ときどき「今のままで我慢しなさい」という意味で使われることがあります。


でも本当は、何も欲しがらないことでも、向上心を捨てることでもなく、

まだ持っていないもののせいで、もう持っているものまで消してしまわないことなのかもしれません。


時々、手元を見てみる。

それだけで少し息がしやすくなる。


そんな回になっていたらうれしいです。

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