おべっかを喜ぶ人は、どうしてだめになるの?
褒められて、嫌な気持ちになる人は、たぶんあまりいない。
菜根タンだってそうだ。
頑張ってるね、と言われたら少しうれしい。
しっかりしてるね、と言われたら悪い気はしない。
助かったよ、頼りになるね、なんて言われたら、やっぱりちょっと心があたたかくなる。
だからたぶん、褒め言葉そのものが悪いわけじゃない。
でも時々、その“うれしい言葉”が、妙に気持ち悪く見えることがある。
その日の昼休み、菜根タンはそれを目の前で見た。
クラスで小さな話し合いがあった。
中心になっていたのは、学級委員の子だった。
その子は少し自信家で、悪い子ではないけれど、目立つことは嫌いじゃないタイプだった。
最初は普通だった。
でも、途中から周りの空気が少しおかしくなった。
「やっぱり、まとめるの上手だね」
「こういうの向いてるよね」
「さすがだなあ」
言われた本人は、まんざらでもなさそうだった。
最初は照れていたけれど、そのうち少しずつ顔つきが変わっていった。
誰かが少し違う意見を言いかけても、
「いや、でも今の流れだとこっちの方がよくない?」
「○○ちゃんもそう言ってたし」
と、すぐ“褒めてくれる側”の空気へ戻される。
そして気づけば、その子のまわりには、耳に心地いい言葉ばかりが集まっていた。
別に露骨な悪口が飛んだわけではない。
誰かが怒鳴ったわけでもない。
なのに、まともなことを言いにくい空気だけが、静かにできあがっていた。
放課後、部室でその話をすると、論子ちゃんが少し困ったように笑った。
「それ、あるよね」
「褒めること自体は悪くないのに、空気の流れが変わっちゃう時」
「なんか、変だったんだよね」
菜根タンは眉を寄せる。
「別に誰も間違ったことは言ってないっぽいのに」
「でも、だんだん“気持ちいいこと言う人”だけが残る感じで」
孟子ちゃんがすぐに言う。
「おべっかじゃん、それ!」
言い方は雑だけど、たぶん方向は合っていた。
「でも、褒められてうれしいのって普通じゃない?」と菜根タン。
「それだけでそんなにだめなのかな」
「褒められてうれしいのは自然よ」
静かな声が入った。
マキャベリちゃんだった。
「問題は、その気持ちよさのせいで、真実の方を嫌いになることなの」
部室の空気が少し締まる。
「おべっか使いがいること自体は、どこにでもあるわ」
「でも本当に危ないのは、上に立つ人間が“耳に心地いい言葉”を好み始める時よ」
菜根タンは、その言い方に少しどきりとした。
好み始める。
たしかに、今日の学級委員の子は、途中から明らかに“その空気”を気に入っていた。
「なんでそれがだめなの?」と孟子ちゃん。
「褒めてくれる人の方が感じよくない?」
「感じはいいでしょうね」
マキャベリちゃんは微笑む。
「でも、感じがいいことと、役に立つことは別よ」
「おべっかの怖いところは、気分を良くしながら、判断を鈍らせることなの」
その言葉は、かなり本質っぽかった。
菜根タンは思い返す。
たしかに、褒められていた子は、だんだん自分の考えが正しい前提で話し始めていた。
違う意見を聞くより、気持ちのいい空気を守る方へ寄っていた。
「じゃあ、おべっかを言う人が悪いの?」
「半分はそう」
マキャベリちゃんはあっさり言った。
「でも、半分は受け取る側の責任よ」
「だって、耳に痛い言葉を遠ざけて、気持ちいい言葉ばかり集めたのはその人自身なんだから」
その言い方は冷たかった。
でも、たぶん本当でもあった。
論子ちゃんが、やわらかく言葉を足す。
「たぶん、褒め言葉が悪いんじゃなくて」
「“褒めてくれる人の方を正しいって思い始めること”が危ないんだよね」
「うん……」
菜根タンは小さくうなずく。
「だんだん、“気持ちよくしてくれる人”と“ちゃんと見てくれる人”を間違える感じかも」
「そうよ」とマキャベリちゃん。
「おべっかって、嘘そのものより、“聞きたい形に整えられた言葉”なの」
「だから効くのよ」
その言い方は、妙にいやだった。
でも、それだけに実感もあった。
露骨におかしい嘘なら、たぶん誰だって警戒する。
でも、おべっかはそうじゃない。
少し本当っぽくて、少しうれしくて、少し自分の欲しい形をしている。
だから、気づいた時にはもう遅い。
「じゃあ、どうしたらいいの?」と菜根タン。
今度は管子ちゃん先輩が答えた。
「気分がよくなる言葉ほど、一度遅らせて聞くことね」
「遅らせる?」
「そうよ」
管子ちゃん先輩は落ち着いた声で言う。
「その場で気持ちよく受け取らない」
「“それは本当に役に立つ情報か”“ただ私を喜ばせているだけか”を、一度分けて考えるの」
「そうしないと、判断が全部“気分のいい方”へ流れるわ」
その言葉は、かなり実務的だった。
でも、そういう話が今はありがたかった。
「あと」と管子ちゃん先輩は続ける。
「耳の痛いことを言う人を、すぐ“感じが悪い”で切らないこと」
「そこを切り始めると、最後は本当に使える人から離れていくわ」
孟子ちゃんがむっとする。
「でも、言い方がひどい人もいるじゃん」
「ええ、いるわね」
論子ちゃんが苦笑する。
「だから、“正しいことを言ってるか”と“言い方が上手か”も分けて見ないとね」
マキャベリちゃんが、小さくうなずく。
「まさにそこよ」
「真実を言える相手は必要なの」
「でも、何でも好き勝手に言わせればいいわけでもない」
「大事なのは、気持ちのいい言葉だけに囲まれない仕組みを自分で持つことよ」
その言い方は、いかにもマキャベリちゃんだった。
人を信じる話ではなく、仕組みの話になる。
でも、それが妙に納得できた。
信じる、信じない、だけでは足りない。
耳に入る言葉そのものを、どう管理するかの問題なのだ。
「……なんか」
菜根タンは少し考えてから言った。
「おべっかを喜ぶ人って、褒められるのが好きだからだめになる、っていうより」
「気持ちよくしてくれる言葉の方を、真実より上に置いちゃうから危ないのかな」
「かなりいいわね」とマキャベリちゃん。
「その通りよ」
「耳に心地いい言葉は、判断を鈍らせる」
「そして、都合の悪い真実を言う人間から順に遠ざけるの」
「それって、ちょっと怖いね」と菜根タン。
「怖いわよ」
マキャベリちゃんは淡々と言った。
「だって、敵の嘘より先に、味方のおべっかで腐ることもあるんだから」
その一言は、かなり強かった。
敵の嘘より、味方のおべっか。
たしかにその方が、近いぶん気づきにくい。
菜根タンはノートを開いた。
白いページに、少し迷ってから書く。
おべっかを喜ぶ人がだめになるのは、
褒め言葉が悪いからじゃない。
その下に、さらに一行。
気持ちよくしてくれる言葉の方を、
真実より上に置いてしまうからだ。
文字を見つめながら、昼休みの教室の空気を思い出す。
だれも怒鳴っていなかった。
だれも露骨には悪くなかった。
でも、あの場にはたしかに、少しずつ考えを腐らせる空気があった。
論子ちゃんが、最後にやわらかく言った。
「褒められること自体は、うれしくていいんだと思う」
「でも、その言葉のせいで、言いにくいことを言ってくれる人を失ったら、たぶんすごく危ないんだよね」
「うん」と菜根タンはうなずく。
「それ、今日すごく分かった気がする」
管子ちゃん先輩も静かに言う。
「上に立つ人ほど、気分のいい言葉に酔わないことね」
「判断を守るのは、だいたいそういう地味な自制よ」
マキャベリちゃんは、少しだけ笑った。
「耳に心地いい言葉ばかり集める人間は、だいたい滅びるのが早いの」
「それだけは、昔からあまり変わらないわね」
菜根タンは、ノートの最後にもう一行だけ書き足した。
褒めてくれる人より、
ちゃんと見てくれる人を失わない方が大事なのかもしれない。
窓の外は、夕方のやわらかい色になっていた。
おべっかを喜ぶ人は、どうしてだめになるのだろう。
たぶん、褒められることそのものが悪いわけじゃない。
でも、気持ちよさに寄りかかり始めると、真実はだんだん耳に痛くなる。
そして耳に痛い真実を遠ざけた時、
人は少しずつ、自分の見たい世界の中だけで判断するようになる。
それがきっと、静かに腐るということなのだろう。




