理想を守るために汚れるのは許されるの?
今回は、少し危ない話です。
理想はきれいなものだと思いたい。でも現実には、きれいごとだけでは守れないものがある、と言われることもあります。
その時に、「じゃあ少しくらい汚れてもいい」と軽く言ってしまっていいのか。それとも、その時点でもう何か大事なものが壊れ始めているのか。
今回はマキャベリちゃんがかなり本音に近いところまで踏み込みます。
理想は、きれいなものだと思う。
菜根タンはそう思う。
こうありたい。
こういう人でいたい。
こういうものは守りたい。
そういう願いは、少なくとも心の中では、なるべくきれいであってほしい。
だから本当は、理想を守るために“汚れる”なんて言葉は、あまり聞きたくなかった。
でも時々、現実はそういう言い方をしてくる。
きれいごとだけでは守れない。
正面から行けば潰される。
少し手を汚さないと、もっと大事なものが壊れる。
そういう話を聞くと、菜根タンはいつも少し苦しくなる。
それって本当に仕方のないことなんだろうか。
それとも、汚れることを言い訳にしているだけなんだろうか。
その日の放課後も、菜根タンは部室でノートを開いたまま、少し黙り込んでいた。
「今日はかなり重い顔してるね」と論子ちゃんが言う。
「うん……」
菜根タンは小さくうなずく。
「昼休みに、ちょっと聞いた話があって」
クラスで、ある子が言っていた。
面倒な相手には、正面から言っても通じない。
だから少し話を盛ってでも、少し誘導してでも、動かした方がいい、と。
「だって、こっちだってみんなのためにやってるんだし」
「きれいなやり方だけで通らないなら、ちょっとくらい仕方なくない?」
その言い方が、菜根タンはずっと引っかかっていた。
たしかに、相手が最初から不誠実なら、正面からだけでは通らないこともあるのかもしれない。
でも、“仕方ない”って言ってしまった時に、どこまで許していいのか分からなくなる。
「理想を守るために、少し汚れるのは許されるのかなって」
菜根タンは、ようやくそのまま口にした。
孟子ちゃんが、すぐに顔を上げた。
「わたしは、あんまり好きじゃない」
その声は、まっすぐだった。
「だって、理想を守るためって言いながら、やってることが汚かったら変じゃん」
「そんなの、だんだん理想の方まで濁っていきそう」
「うん……それは、わたしも少し思う」
菜根タンは苦笑した。
「でも、正しいやり方だけで本当に守れるのかって言われると、自信もなくて」
「そこが、一番いやなところよね」
やわらかい声が入った。
マキャベリちゃんだった。
今日も上品で、静かで、でもこの話題ではたぶん一番危ういところまで行ける子だった。
「理想は美しいわ」
「でも、理想だけで守れるほど現実がやさしいとは限らない」
「そこまでは、認めるしかないの」
部室が少し静かになる。
その言い方は、肯定でも否定でもなかった。
でも、逃げてもいなかった。
「じゃあ、やっぱり汚れてもいいってこと?」と孟子ちゃん。
「軽く言うなら、だめね」
マキャベリちゃんは即答した。
「“目的が正しければ何をしてもいい”になった瞬間、だいたい人は壊れるわ」
その一言は、かなり強かった。
「理想を守るため、みんなのため、正義のため。
そういう言葉は、汚い方法を正当化する時にとても便利なの」
「だから危ないのよ」
菜根タンは、その“便利”という言い方に少しぞっとした。
たしかにそうだ。
きれいな言葉ほど、人を安心させる。
そして安心したまま、少しずつ感覚が鈍る。
「じゃあ、やっぱり絶対だめなのかな」
その問いに、今度は管子ちゃん先輩が静かに答えた。
「絶対とは言わないわ」
その声は落ち着いていた。
でも、軽くはなかった。
「現実には、きれいな手だけでは守れないものもある」
「組織でも、国でも、人間関係でもね」
「ただし問題は、“汚れること”そのものじゃないの」
「それを誰が決め、何のためで、どこまで引き受けるのかよ」
菜根タンは少しだけ背筋を伸ばした。
誰が決めるのか。
何のためか。
どこまでか。
そこまで考えずに“仕方ない”だけで進むのが危ないのかもしれない。
論子ちゃんがやわらかく言葉を足す。
「たぶん、理想を守るために少し苦いことをしなきゃいけない場面はあると思う」
「でも、その時に“相手を雑に扱ってないか”は見ないといけないよね」
「方法が先に気持ちよくなり始めたら、かなり危ない気がする」
「気持ちよく?」と菜根タン。
「うん」
論子ちゃんは静かにうなずく。
「最初は仕方なくやっていたのに、だんだん“この方が楽だ”“この方が早い”になっていくことってあると思うんだ」
「そうなると、もう理想を守ってるんじゃなくて、自分が汚い方法に慣れてるだけになっちゃう」
その言葉は、かなり本質っぽかった。
最初は仕方なく。
でも、だんだん慣れる。
だんだん感覚が薄くなる。
たしかに、それが一番怖い。
孟子ちゃんが、少し強めに言う。
「わたし、理想のためなら何してもいい、みたいなのはやっぱりいや」
「それって最後、理想が残るんじゃなくて、汚いやり方だけ残りそうだもん」
「その警戒は正しいわ」とマキャベリちゃん。
「だからこそ、“汚れてもいいか”じゃなくて、“何を失うか分かった上で、それでもやるのか”を問わなきゃいけないの」
その言葉に、菜根タンは少し息をのんだ。
何を失うか。
そうか。
この問いは、許されるかどうかだけじゃない。
そのやり方を選んだ時に、自分の中の何が削れるのかまで含んでいるのだ。
「……たとえば?」
菜根タンが聞くと、マキャベリちゃんは静かに答えた。
「信用」
「自分の手のきれいさ」
「相手をまっすぐ見る感覚」
「時には、自分が自分を好きでいられる感じさえ、少し削れるかもしれないわね」
部室がしんとした。
それは、思っていたよりずっと重い話だった。
“少し汚れる”という言い方が、急に軽く見えなくなる。
「それでもやるなら」
管子ちゃん先輩が続ける。
「せめて、必要最小限で止めることよ」
「広げない。慣れない。正義の顔をして常用しない」
「そこまで崩れたら、もう理想を守っているんじゃなくて、理想を口実にしてるだけだわ」
「理想を口実にする……」
菜根タンは小さく繰り返した。
たぶん、それが一番怖い。
理想のためだと思っていたのに、気づけば理想は看板だけになっていて、中身はただの都合になっている。
韓非ちゃんがいればもっと冷たく切っただろう。
でも今日は、マキャベリちゃんと管子ちゃん先輩の二人が、少し違う角度から同じ危うさを見せていた。
「じゃあ、どう考えればいいんだろう」
菜根タンはぽつりと言った。
「汚れるな、でも守れ、って言われても難しいし」
「汚れてもいい、って言われるのも怖いし」
論子ちゃんが小さく笑った。
「その“怖い”が消えないうちは、まだ大丈夫なんじゃないかな」
「え?」と菜根タン。
「だって、本当に危ないのは」
論子ちゃんはやさしく言った。
「そういうことを、平気で軽く言えるようになる時だと思うから」
その言葉に、菜根タンは少しだけ救われた。
怖い。
苦い。
嫌だ。
そういう感覚がまだあるなら、まだ全部は鈍っていない。
「そうね」とマキャベリちゃんも珍しくやわらかく言った。
「“汚れること”を誇らしげに語り始めたら終わりよ」
「本当に必要な汚れは、たいてい少し苦いものだもの」
菜根タンはノートを開いた。
白いページに、ゆっくり書く。
理想を守るために、きれいごとだけでは済まない時はあるかもしれない。
その下に、少し迷ってから、さらに書き足す。
でも、それを軽く許した瞬間に、
理想そのものが少しずつ壊れ始めるのかもしれない。
文字を見つめる。
理想を守りたい。
でも、守るために何をしてもいいわけじゃない。
そして、どこかで苦さを感じなくなったら、たぶんもう危うい。
「……つまり」
菜根タンはゆっくり言った。
「許される時も、たぶんある」
「でも、それを平気な顔で言えるようになったら、もう少し危ないんだね」
「かなりいいわね」とマキャベリちゃん。
「ようやく入口よ」
「入口なんだ……」と菜根タンは苦笑した。
「そうよ。
こういう問いに、きれいな正解なんてないもの」
管子ちゃん先輩が落ち着いて言う。
「だからこそ、安く答えを出さないことね」
その言葉は、すごくしっくりきた。
安く答えを出さない。
たぶん、こういう話ではそれが一番大事なのだろう。
菜根タンは、ノートの最後にもう一行だけ足した。
理想を守りたいなら、
汚れることより先に、汚れたままで平気にならないことを恐れた方がいいのかもしれない。
窓の外は、夕方の光が少しやわらかくなっていた。
理想を守るために汚れるのは、許されるのだろうか。
たぶん、簡単には答えられない。
でも少なくとも、理想のためだからといって、何でも軽く許してはいけない。
そのやり方で、自分の中の何が削れていくのかを、見ないまま進んではいけない。
理想は、きれいなものだ。
だからこそ、その理想を守るための方法まで、
何も感じなくなるほど汚れてしまったら、たぶんもう、守れていないのかもしれなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
理想を守るために、きれいごとだけでは済まない場面は、たしかにあるのかもしれません。
でも、それを平気な顔で語れるようになった時、たぶん理想の方も少しずつ濁り始めるのだと思います。
簡単に答えを出したくない題だからこそ、少し苦いまま残る回になっていたらうれしいです。




