勇気より狡さの方が強いって、本当なの?
勇気は、たぶん美しい。
菜根タンはそう思う。
怖くても前に出ること。
言いにくいことを言うこと。
逃げずに立つこと。
ずるいことをしないこと。
そういうまっすぐさを見ると、人はやっぱり少し胸を打たれる。
少なくとも菜根タンは、そういう人を嫌いになれない。
でも時々、その美しさがそのまま傷になることもある。
まっすぐな人が、ひねくれた相手に負ける。
正面から立った人が、横から話をずらす人に押し切られる。
正しいことを言った人が、なぜか空気の中で“細かい人”みたいに見えてしまう。
そういう場面を見るたびに、菜根タンの胸には小さく苦いものが残った。
勇気って、そんなに弱いのだろうか。
それとも、勇気だけでは足りないのだろうか。
その日の放課後、菜根タンは部室の机に肘をつきながら、少しだけ悔しい気持ちを抱えていた。
文化祭準備で、備品の確認をきちんとしていた子がいた。
でも別の子が、話を少しだけ都合よくずらして、その場の空気を持っていった。
結果として、まじめに確認していた方が、なぜか“話を止める人”みたいに見えてしまった。
「なんか、ずるい……」
小さく呟いた時、部室の扉が開いた。
「今日はかなり苦そうだね!」
明るい声と一緒に入ってきたのは孟子ちゃんだった。
その少し後ろから論子ちゃん、そして窓際には、いつの間にか孫子ちゃんもいる。
「何かあったの?」と論子ちゃん。
菜根タンは、さっきの出来事を最初から話した。
まじめだった方が空気の中で損をしたこと。
うまく話を運んだ方が、最後まで平然としていたこと。
それがどうしても、悔しかったこと。
「……勇気より、狡さの方が強いのかなって思って」
その言葉に、孟子ちゃんはすぐ眉を寄せた。
「そんなの、いやだよ」
その一言は、いつも通りまっすぐだった。
「だって、ずるい方が勝つってことでしょ?」
「そんなの正しくないし、認めたくない」
「うん」
菜根タンは小さくうなずく。
「わたしも認めたくない」
「でも、そう見える時あるよね」
「ちゃんとしてる人より、うまくごまかす人の方が得してるみたいな時」
孟子ちゃんは、言い返しかけて少しだけ黙った。
その沈黙に重なるように、孫子ちゃんが静かに言う。
「勇気だけでは、勝てないこともある」
短い。
でも、その一言には重みがあった。
「正面から行く方が正しい時もある」
「でも、正面から行くしか知らないと、消耗する」
「それって、ずるくなれってこと?」と孟子ちゃん。
「違う」
孫子ちゃんは即座に答えた。
「勝ち方を考えろ、ってこと」
菜根タンは、その言葉を胸の中で繰り返した。
勝ち方。
勇気を持つか持たないかではなく、どう勝つか。
「でもさ」
菜根タンは少し迷いながら言う。
「うまく立ち回るって、なんか狡く見えない?」
「まっすぐじゃない感じがして」
「いい問いね」
聞き慣れない声が、そこへすっと入ってきた。
部室の入口に、見慣れない少女が立っていた。
黒と深紅を基調にした装い。
派手というより、整えられた華やかさ。
立ち姿には品があるのに、その奥にうすく刃のような冷たさが見える。
少女は、やわらかく微笑んだ。
「はじめまして。
マキャベリちゃんと呼んでくださる?」
菜根タンは一瞬、返事を失った。
「……誰?」
「留学生よ」と、かんぴちゃんがいつの間にか後ろから言う。
「面倒そうなのが来たわね」
「失礼ね」
マキャベリちゃんは笑顔のまま返した。
「でも、だいたい合っているわ」
孟子ちゃんが少し警戒するように前へ出る。
「今の話、聞いてたの?」
「少しだけ」
マキャベリちゃんは部室の中へ入ってくる。
「“勇気より狡さの方が強いのか”でしょう?」
「その問い方だと、少し乱暴ね」
「乱暴?」
菜根タンが聞き返すと、マキャベリちゃんは静かにうなずいた。
「ええ。
勇気と狡さを並べて、どちらが強いかと問うのは分かりやすいわ」
「でも、本当はそう単純じゃないの」
論子ちゃんがやわらかく促す。
「どう違うの?」
マキャベリちゃんは、菜根タンの方を見て言った。
「勇気は尊いわ。
でも、勇気だけで生き残れるほど、現実は単純じゃないの」
その一言は静かだった。
でも、妙に強かった。
「まっすぐな人は美しい。
けれど、罠の前で美しさは盾にならない」
「だから大事なのは、“勇気より狡さが強い”と嘆くことじゃない」
「勇気しか持たないことの危うさを知ることよ」
菜根タンは、その言葉をゆっくり胸の中で転がした。
勇気しか持たないことの危うさ。
それは、さっきの場面にもたしかに当てはまる気がした。
まじめだった子は、正面からしか立てなかった。
だから、話を横へずらす相手に対して無防備だった。
「でも!」と孟子ちゃんが言う。
「狡いのはやっぱりいやだよ!」
「人をだましたり、話をねじ曲げたりするのって、よくないじゃん!」
「ええ、下劣ね」
マキャベリちゃんはあっさり答えた。
「人を陥れるための狡さは、私も褒めないわ」
孟子ちゃんが少しだけ意外そうな顔をする。
「……褒めないんだ」
「当然でしょう」
「でも、そこで全部ひとつにまとめるから話が浅くなるのよ」
マキャベリちゃんは椅子に腰を下ろした。
「人をはめる狡さと、はめられないための狡さは違う。
責任から逃げる狡さと、無駄に消耗しないための知恵も違う」
孫子ちゃんが短く言う。
「近い」
「ええ。あなたとは少し話が合いそうね」
マキャベリちゃんはわずかに口元をゆるめた。
「獅子の勇だけでは足りないの。
罠を見抜く狐の眼があって、ようやく生き残れる」
その比喩は、部室の空気にすっと入った。
勇敢な獅子。
罠を見抜く狐。
菜根タンは、その二つを頭の中に並べてみる。
「……じゃあ」
菜根タンはゆっくり言った。
「狡さって、全部悪いわけじゃないのかな」
「そうね」
マキャベリちゃんはうなずく。
「問題は、何のために使うかよ」
「自分だけ得するために使うなら醜い」
「でも、自分や大事なものを守るための身のかわし方まで捨てるのは、少し無防備だわ」
孟子ちゃんは、まだ納得しきれない顔で言った。
「でも、まっすぐでいたい気持ちは大事だよ」
「ええ、もちろん」
マキャベリちゃんの声は意外なほど穏やかだった。
「まっすぐでありたい気持ちは、美しいわ」
「ただ、その美しさのまま折られて終わるなら、守れたはずのものまで一緒に落とすことになる」
その言葉は、菜根タンの胸に重く入った。
勇気を持つこと。
正しさを曲げないこと。
それはやっぱり大事だ。
でも、その大事なものを守るために、少し横へよけることや、先に罠を見ることまで卑怯と呼ぶのは違うのかもしれない。
「……わたし」
菜根タンは小さく息を吐いた。
「勇気が負けるのが悲しいんだと思ってた」
「でも、ほんとは」
「勇気しか持たない人が、狡い相手の前で無防備になるのが怖かったのかも」
論子ちゃんが静かにうなずく。
「うん。それは大きい違いかもね」
「勇気を捨てろって話じゃないもの」と論子ちゃんは続けた。
「勇気がちゃんと届く形を考える、って話に近いんだと思う」
かんぴちゃんが腕を組んだまま言う。
「正面からしか行かない人間は、正面を塞がれた時に終わるのよ」
「言い方」と孟子ちゃん。
「でも、ちょっと分かる」と菜根タンは苦笑した。
マキャベリちゃんは、そこで少しだけ微笑んだ。
「勇敢なライオンは美しいわ。
でも、生き残るのは狐の顔を持つ者よ」
その言葉は、部室の中に妙に静かに落ちた。
孟子ちゃんは、まだ少し不満そうだった。
けれど前より、ちゃんと考えている顔をしていた。
「……わたし、ずるい人にはなりたくない」
「ならなくていいわ」
マキャベリちゃんは即答した。
「ただ、ずるい人に毎回食われる必要もないの」
「それは美徳じゃなくて、準備不足よ」
菜根タンは、その一言に目を伏せた。
準備不足。
たしかに、その方が近い気がした。
勇気が足りなかったわけではない。
でも、狡い相手に対して、勇気を守る準備が足りなかった。
それなら学ぶべきは、“狡くなること”ではなく、
狡さに食い破られないための知恵なのかもしれない。
ノートを開く。
白いページに、少しだけ迷ってから書く。
勇気は大事。
でも、勇気だけでは守れないものもある。
その下に、もう一行。
狡さが強いというより、
勇気しか持たない人が、狡い相手の前で無防備になるのかもしれない。
文字を見つめながら、胸の中の苦さが少しずつ形になっていく。
「……じゃあ」
菜根タンは小さく言う。
「知恵って、臆病とは違うんだね」
「違う」
孫子ちゃんが短く答える。
「消耗しないための判断」
「ええ」とマキャベリちゃん。
「守るために見ること、避けること、構えること。
それまで卑怯と呼ぶなら、世の中は少し雑すぎるわ」
孟子ちゃんは、まだ少しだけ悔しそうだった。
でも、その悔しさはもう、最初みたいに単純ではなかった。
「……でも、最後はやっぱり正しい方でいたいよ」
その言葉に、マキャベリちゃんは小さく笑った。
「その願いは捨てなくていいの」
「ただ、正しくありたいなら、正しさが折られない形まで考えなさい」
その一言が、今までの中でいちばん菜根タンの胸に残った。
正しさを捨てるのではない。
正しさが折られない形を考える。
それなら、まっすぐでいたい気持ちも少しは守れる気がした。
菜根タンは、ノートの下へさらに一行書き足した。
知恵まで捨てた勇気は、
時々きれいなまま折れてしまう。
窓の外はもう、夕方から夜へ変わりかけていた。
部室の空気も、少しだけ深くなっている。
勇気より狡さの方が強いって、本当なのだろうか。
たぶん、そう言い切るのは少し違う。
でも、勇気しか持たないままで狡い相手に向かうのは、やっぱり危うい。
だから必要なのは、勇気を捨てることではない。
勇気を無駄に折らせない知恵を持つこと。
それは少し苦いけれど、
それでもきっと、ただ狡くなるよりはずっとましな学び方なのだろう。




