表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/36

勇気より狡さの方が強いって、本当なの?

 勇気は、たぶん美しい。

 菜根タンはそう思う。

 怖くても前に出ること。

 言いにくいことを言うこと。

 逃げずに立つこと。

 ずるいことをしないこと。

 そういうまっすぐさを見ると、人はやっぱり少し胸を打たれる。

 少なくとも菜根タンは、そういう人を嫌いになれない。

 でも時々、その美しさがそのまま傷になることもある。

 まっすぐな人が、ひねくれた相手に負ける。

 正面から立った人が、横から話をずらす人に押し切られる。

 正しいことを言った人が、なぜか空気の中で“細かい人”みたいに見えてしまう。

 そういう場面を見るたびに、菜根タンの胸には小さく苦いものが残った。

 勇気って、そんなに弱いのだろうか。

 それとも、勇気だけでは足りないのだろうか。

 その日の放課後、菜根タンは部室の机に肘をつきながら、少しだけ悔しい気持ちを抱えていた。

 文化祭準備で、備品の確認をきちんとしていた子がいた。

 でも別の子が、話を少しだけ都合よくずらして、その場の空気を持っていった。

 結果として、まじめに確認していた方が、なぜか“話を止める人”みたいに見えてしまった。

「なんか、ずるい……」

 小さく呟いた時、部室の扉が開いた。

「今日はかなり苦そうだね!」

 明るい声と一緒に入ってきたのは孟子ちゃんだった。

 その少し後ろから論子ちゃん、そして窓際には、いつの間にか孫子ちゃんもいる。

「何かあったの?」と論子ちゃん。

 菜根タンは、さっきの出来事を最初から話した。

 まじめだった方が空気の中で損をしたこと。

 うまく話を運んだ方が、最後まで平然としていたこと。

 それがどうしても、悔しかったこと。

「……勇気より、狡さの方が強いのかなって思って」

 その言葉に、孟子ちゃんはすぐ眉を寄せた。

「そんなの、いやだよ」

 その一言は、いつも通りまっすぐだった。

「だって、ずるい方が勝つってことでしょ?」

「そんなの正しくないし、認めたくない」

「うん」

 菜根タンは小さくうなずく。

「わたしも認めたくない」

「でも、そう見える時あるよね」

「ちゃんとしてる人より、うまくごまかす人の方が得してるみたいな時」

 孟子ちゃんは、言い返しかけて少しだけ黙った。

 その沈黙に重なるように、孫子ちゃんが静かに言う。

「勇気だけでは、勝てないこともある」

 短い。

 でも、その一言には重みがあった。

「正面から行く方が正しい時もある」

「でも、正面から行くしか知らないと、消耗する」

「それって、ずるくなれってこと?」と孟子ちゃん。

「違う」

 孫子ちゃんは即座に答えた。

「勝ち方を考えろ、ってこと」

 菜根タンは、その言葉を胸の中で繰り返した。

 勝ち方。

 勇気を持つか持たないかではなく、どう勝つか。

「でもさ」

 菜根タンは少し迷いながら言う。

「うまく立ち回るって、なんか狡く見えない?」

「まっすぐじゃない感じがして」

「いい問いね」

 聞き慣れない声が、そこへすっと入ってきた。

 部室の入口に、見慣れない少女が立っていた。

 黒と深紅を基調にした装い。

 派手というより、整えられた華やかさ。

 立ち姿には品があるのに、その奥にうすく刃のような冷たさが見える。

 少女は、やわらかく微笑んだ。

「はじめまして。

 マキャベリちゃんと呼んでくださる?」

 菜根タンは一瞬、返事を失った。

「……誰?」

「留学生よ」と、かんぴちゃんがいつの間にか後ろから言う。

「面倒そうなのが来たわね」

「失礼ね」

 マキャベリちゃんは笑顔のまま返した。

「でも、だいたい合っているわ」

 孟子ちゃんが少し警戒するように前へ出る。

「今の話、聞いてたの?」

「少しだけ」

 マキャベリちゃんは部室の中へ入ってくる。

「“勇気より狡さの方が強いのか”でしょう?」

「その問い方だと、少し乱暴ね」

「乱暴?」

 菜根タンが聞き返すと、マキャベリちゃんは静かにうなずいた。

「ええ。

 勇気と狡さを並べて、どちらが強いかと問うのは分かりやすいわ」

「でも、本当はそう単純じゃないの」

 論子ちゃんがやわらかく促す。

「どう違うの?」

 マキャベリちゃんは、菜根タンの方を見て言った。

「勇気は尊いわ。

 でも、勇気だけで生き残れるほど、現実は単純じゃないの」

 その一言は静かだった。

 でも、妙に強かった。

「まっすぐな人は美しい。

 けれど、罠の前で美しさは盾にならない」

「だから大事なのは、“勇気より狡さが強い”と嘆くことじゃない」

「勇気しか持たないことの危うさを知ることよ」

 菜根タンは、その言葉をゆっくり胸の中で転がした。

 勇気しか持たないことの危うさ。

 それは、さっきの場面にもたしかに当てはまる気がした。

 まじめだった子は、正面からしか立てなかった。

 だから、話を横へずらす相手に対して無防備だった。

「でも!」と孟子ちゃんが言う。

「狡いのはやっぱりいやだよ!」

「人をだましたり、話をねじ曲げたりするのって、よくないじゃん!」

「ええ、下劣ね」

 マキャベリちゃんはあっさり答えた。

「人を陥れるための狡さは、私も褒めないわ」

 孟子ちゃんが少しだけ意外そうな顔をする。

「……褒めないんだ」

「当然でしょう」

「でも、そこで全部ひとつにまとめるから話が浅くなるのよ」

 マキャベリちゃんは椅子に腰を下ろした。

「人をはめる狡さと、はめられないための狡さは違う。

 責任から逃げる狡さと、無駄に消耗しないための知恵も違う」

 孫子ちゃんが短く言う。

「近い」

「ええ。あなたとは少し話が合いそうね」

 マキャベリちゃんはわずかに口元をゆるめた。

「獅子の勇だけでは足りないの。

 罠を見抜く狐の眼があって、ようやく生き残れる」

 その比喩は、部室の空気にすっと入った。

 勇敢な獅子。

 罠を見抜く狐。

 菜根タンは、その二つを頭の中に並べてみる。

「……じゃあ」

 菜根タンはゆっくり言った。

「狡さって、全部悪いわけじゃないのかな」

「そうね」

 マキャベリちゃんはうなずく。

「問題は、何のために使うかよ」

「自分だけ得するために使うなら醜い」

「でも、自分や大事なものを守るための身のかわし方まで捨てるのは、少し無防備だわ」

 孟子ちゃんは、まだ納得しきれない顔で言った。

「でも、まっすぐでいたい気持ちは大事だよ」

「ええ、もちろん」

 マキャベリちゃんの声は意外なほど穏やかだった。

「まっすぐでありたい気持ちは、美しいわ」

「ただ、その美しさのまま折られて終わるなら、守れたはずのものまで一緒に落とすことになる」

 その言葉は、菜根タンの胸に重く入った。

 勇気を持つこと。

 正しさを曲げないこと。

 それはやっぱり大事だ。

 でも、その大事なものを守るために、少し横へよけることや、先に罠を見ることまで卑怯と呼ぶのは違うのかもしれない。

「……わたし」

 菜根タンは小さく息を吐いた。

「勇気が負けるのが悲しいんだと思ってた」

「でも、ほんとは」

「勇気しか持たない人が、狡い相手の前で無防備になるのが怖かったのかも」

 論子ちゃんが静かにうなずく。

「うん。それは大きい違いかもね」

「勇気を捨てろって話じゃないもの」と論子ちゃんは続けた。

「勇気がちゃんと届く形を考える、って話に近いんだと思う」

 かんぴちゃんが腕を組んだまま言う。

「正面からしか行かない人間は、正面を塞がれた時に終わるのよ」

「言い方」と孟子ちゃん。

「でも、ちょっと分かる」と菜根タンは苦笑した。

 マキャベリちゃんは、そこで少しだけ微笑んだ。

「勇敢なライオンは美しいわ。

 でも、生き残るのは狐の顔を持つ者よ」

 その言葉は、部室の中に妙に静かに落ちた。

 孟子ちゃんは、まだ少し不満そうだった。

 けれど前より、ちゃんと考えている顔をしていた。

「……わたし、ずるい人にはなりたくない」

「ならなくていいわ」

 マキャベリちゃんは即答した。

「ただ、ずるい人に毎回食われる必要もないの」

「それは美徳じゃなくて、準備不足よ」

 菜根タンは、その一言に目を伏せた。

 準備不足。

 たしかに、その方が近い気がした。

 勇気が足りなかったわけではない。

 でも、狡い相手に対して、勇気を守る準備が足りなかった。

 それなら学ぶべきは、“狡くなること”ではなく、

 狡さに食い破られないための知恵なのかもしれない。

 ノートを開く。

 白いページに、少しだけ迷ってから書く。

 勇気は大事。

 でも、勇気だけでは守れないものもある。

 その下に、もう一行。

 狡さが強いというより、

 勇気しか持たない人が、狡い相手の前で無防備になるのかもしれない。

 文字を見つめながら、胸の中の苦さが少しずつ形になっていく。

「……じゃあ」

 菜根タンは小さく言う。

「知恵って、臆病とは違うんだね」

「違う」

 孫子ちゃんが短く答える。

「消耗しないための判断」

「ええ」とマキャベリちゃん。

「守るために見ること、避けること、構えること。

 それまで卑怯と呼ぶなら、世の中は少し雑すぎるわ」

 孟子ちゃんは、まだ少しだけ悔しそうだった。

 でも、その悔しさはもう、最初みたいに単純ではなかった。

「……でも、最後はやっぱり正しい方でいたいよ」

 その言葉に、マキャベリちゃんは小さく笑った。

「その願いは捨てなくていいの」

「ただ、正しくありたいなら、正しさが折られない形まで考えなさい」

 その一言が、今までの中でいちばん菜根タンの胸に残った。

 正しさを捨てるのではない。

 正しさが折られない形を考える。

 それなら、まっすぐでいたい気持ちも少しは守れる気がした。

 菜根タンは、ノートの下へさらに一行書き足した。

 知恵まで捨てた勇気は、

 時々きれいなまま折れてしまう。

 窓の外はもう、夕方から夜へ変わりかけていた。

 部室の空気も、少しだけ深くなっている。

 勇気より狡さの方が強いって、本当なのだろうか。

 たぶん、そう言い切るのは少し違う。

 でも、勇気しか持たないままで狡い相手に向かうのは、やっぱり危うい。

 だから必要なのは、勇気を捨てることではない。

 勇気を無駄に折らせない知恵を持つこと。

 それは少し苦いけれど、

 それでもきっと、ただ狡くなるよりはずっとましな学び方なのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ