ほんとは嫌なのに笑うのって、やさしさ?
笑って流すのは、少しだけ上手になってしまう。
菜根タンは、ときどきそう思う。
ほんとは引っかかった。
少しいやだった。
できればやめてほしかった。
でも、そこで顔を曇らせるほどでもない気もする。
空気を止めるのも面倒だ。
相手に悪気がないなら、なおさら言いにくい。
そうやって迷っているうちに、口元だけ少しやわらかくして、
「もう、やめてよ」
と笑って済ませることがある。
その場は丸く収まる。
相手も深刻に受け取らない。
だから、いちおう何も壊れてはいない。
でも、帰り道になってから胸の奥に小さな棘みたいなものが残ることがある。
笑った。
でも、ほんとは少しいやだった。
そのずれが、あとからじわじわ効いてくる。
その日の昼休み、教室では文化祭の衣装の話で盛り上がっていた。
「菜根タンってさ、こういうの似合いそう」
そう言って、クラスの子が冗談半分に、少し派手すぎる小物を菜根タンの頭に乗せた。
まわりが笑う。
悪意のある笑いではない。
むしろ“いじっても大丈夫な空気”の軽さだった。
「えー、ちょっとやめてよ」
菜根タンも笑ってそう言った。
言った瞬間、自分でも分かった。
今の“やめてよ”は、半分しか本気じゃない。
本当はもう少し、ちゃんとやめてほしかった。
でもそこで真顔になるのは重い気がしたし、
相手も楽しそうだったから、それ以上は言えなかった。
「似合うって!」
「ちょっと見てみたい!」
さらに笑いが重なる。
菜根タンもまた笑った。
笑ったまま、その小物を自分で外して机の上に置いた。
それで話は流れた。
みんなも別の話題へ移った。
何も起きていないように、ちゃんと前へ進んだ。
進んだのに、胸の中には小さく、
“ああいうの、ほんとはちょっと苦手なんだけどな”
という感じだけが残った。
放課後、中庭のベンチに座って、菜根タンはノートを開いたまま空を見ていた。
笑って流した。
その場は丸くおさまった。
じゃあ、それはやさしかったのだろうか。
それとも、ただ言えなかっただけなのだろうか。
「今日は、笑ったあとで少し疲れた顔してるね」
声がして顔を上げると、論子ちゃんがいた。
「そんな細かいとこまで見えるんだ」
「今日は分かりやすいよ」
論子ちゃんは隣に腰を下ろした。
菜根タンは、昼休みのことをそのまま話した。
小物のこと。
まわりの笑い。
自分も笑って返したこと。
でも、本当は少しだけいやだったこと。
「……ほんとは嫌だったのに笑うのって、やさしさなのかな」
論子ちゃんは少しだけ考えた。
「やさしさの時もあると思う」
その答えは、菜根タンには少し意外だった。
「あるんだ」
「うん」
「相手に恥をかかせないために、その場をやわらげる笑いって、たしかにあるから」
「いきなり場を固めないための、やさしい受け方っていうのかな」
菜根タンは、その言い方に少しだけ安心した。
笑ったこと全部が、だめだったわけではない。
そう思えるだけでも少し呼吸がしやすい。
「でも」と論子ちゃんは続ける。
「その笑いで、自分の“嫌だった”まで毎回消してるなら、少し苦しいかもしれないね」
その言葉が、かなり静かに入ってきた。
その場を和らげる笑い。
自分の気持ちまで消してしまう笑い。
似ているようで、たぶん少し違う。
「たぶんわたし」
菜根タンは小さく言う。
「その場では丸くしたくて笑ったんだけど、
自分の中では“あれ苦手だったな”が残ってる」
「うん」
「それなら、やさしさもあったけど、少し我慢も混ざってたのかもね」
その時、気だるい声が入った。
「嫌なのに笑うの、相手にとってはかなり都合いいのよね」
楊子ちゃんだった。
今日も一言目から刺しにくる。
「都合いいって……」
「だってそうでしょ」
「相手は“これくらい平気なんだ”って学ぶ」
「で、次も同じことやる」
「こっちはまた笑う」
「かなり綺麗に、嫌なことが繰り返される仕組みじゃない」
その言い方はきつい。
でも、否定しきれない。
たしかに、今日の相手は悪意がなかった。
でも、菜根タンが笑って受けたことで、“ああいういじりは平気な子”として覚えられる可能性はある。
そうなると、次もまた似たことが起きるかもしれない。
「じゃあ、笑わない方がいいのかな」
「毎回そう単純でもないでしょ」と楊子ちゃん。
「その場で真顔になれば済む話でもない時あるし」
「ただ、“笑って終わらせたなら、あとでどこかで線を引きなさい”ってことよ」
その言い方はかなり楊子ちゃんらしかった。
その場では笑う。
でも、それで全部終わりにしない。
あとで一言、“ああいうのちょっと苦手”と置く。
そういうやり方なら、空気も壊しすぎず、自分の輪郭も消さずに済むのかもしれない。
そこへ、明るい足音が近づく。
「なに話してるの?」
孟子ちゃんだった。
事情を聞くと、すぐに少し困った顔になる。
「うーん……」
「その場で笑っちゃうの、分かるなあ」
菜根タンは少しだけほっとする。
「分かる?」
「うん。だって、悪気ない相手にいきなり“ほんとにやめて”って言うの、難しいもん」
「だから笑って受けちゃうこと、自体はそんなに変じゃないと思う」
その言い方がかなりやさしかった。
ただ、それで終わらせないのも孟子ちゃんらしい。
「でも」と孟子ちゃんは続ける。
「やさしさって、ずっと我慢の顔してることじゃないと思う」
「ほんとに嫌なら、どこかでちゃんと伝えた方が、たぶん相手にもやさしいよね」
その言葉に、菜根タンは小さくうなずいた。
相手にもやさしい。
それは少し意外だった。
でも、考えてみればそうかもしれない。
笑ってごまかされ続けた相手は、どこまでが平気でどこからがだめかを知らないままになる。
それは相手にとっても、たぶんあまり親切ではない。
「……じゃあ」
菜根タンはゆっくり言った。
「笑うこと自体がだめなんじゃなくて」
「笑ったあとに、自分の“ほんとは嫌だった”をどこへ置くかが大事なのかも」
論子ちゃんがやわらかくうなずいた。
「うん。私はそう思う」
「その場をやわらげる笑いは、たしかにある」
「でも、その笑いで自分の本音まで埋めてしまうと、あとで苦しくなる」
楊子ちゃんも腕を組んだまま言う。
「笑うのは自由よ」
「でも、“笑ったんだから合意したよね”って相手に学習させたくないなら、
あとでちゃんと訂正しなさい」
「訂正って言い方が楊子ちゃんだよね」と孟子ちゃん。
「中身が合ってればいいでしょ」
菜根タンは少し笑った。
たぶん、ほんとは嫌なのに笑うことは、時々ある。
それ自体はすぐに全部悪いとは言えない。
その場を壊さないための知恵でもあるから。
でも、その笑いを“やさしさ”の名前でずっと抱え続けて、自分のいやだった気持ちまで見えなくしてしまうなら、それは少し違う。
ノートを開く。
白いページに、少し考えてから書く。
ほんとは嫌なのに笑うことは、
時々その場をやわらげる。
そこまで書いて、少し止まる。
それから、もう一行。
でも、その笑いで自分の本音まで消してしまうと、
やさしさより我慢に近くなる。
文字を見つめていると、胸の中のざらつきが少しだけ整っていく。
「……わたし」
菜根タンは小さく息を吐いた。
「次に似たことがあったら、その場では笑うかもしれない」
「でも、あとで“ああいうのちょっと苦手”って言ってみようかな」
「いいと思う」と論子ちゃん。
「その方が、自分にも相手にも、あとで苦さが残りにくいかもね」
孟子ちゃんも明るくうなずく。
「うん!
我慢し続けるより、やわらかくでも伝わる方が、たぶんやさしい」
楊子ちゃんは最後に短く言った。
「“笑ってたじゃん”って言われたら、“笑ったけど嫌だった”って返せばいいのよ」
「それ、強いなあ」と菜根タンは苦笑した。
でも、少しだけ頼もしくもあった。
ノートの下へ、さらに一行書き足す。
やさしさは、笑って耐えることだけじゃない。
自分の輪郭を消さずに伝えることも、たぶんやさしい。
風が吹いて、ページの端がふわりと揺れた。
菜根タンはノートを閉じた。
ほんとは嫌なのに笑うことが、全部だめなわけではない。
でも、それをずっと続けて、自分のいやだった気持ちまでなかったことにするのは、たぶん少し違う。
笑うこと。
やわらげること。
そして、どこかでちゃんと線を引くこと。
その全部があって、ようやくやさしさは、自分も相手も少しずつ守る形になるのかもしれなかった。




