表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/36

傷ついてないふりって、大人なの?

 平気な顔をするのは、少しだけ上手くなってしまう。

 菜根タンは、ときどきそう思う。

 ほんとは少しいやだった。

 ほんとは引っかかった。

 ほんとは、ちゃんと痛かった。

 でも、その場でそれを全部出すほどではない気もする。

 言ったら空気が重くなるかもしれない。

 相手を困らせるかもしれない。

 自分が面倒な人に見えるかもしれない。

 そう考えているうちに、気づけば口元だけ少しやわらかくして、

「ううん、大丈夫」

と言うことがある。

 それはたぶん、嘘とまでは言い切れない。

 ほんとうに大泣きするほどではない時もあるし、その場で騒ぐほどでもない時もある。

 でも、“大丈夫”という言葉の下に、小さな痛みだけが取り残されることはある。

 その日の放課後、文化祭の準備で使う資料をまとめていた時だった。

「これ、ちょっと順番変えといたよ」

 そう言って、クラスの子が菜根タンの作っていた資料を軽く並べ替えた。

 その子に悪気はなかったと思う。

 むしろ、良かれと思ってやったのだろう。

 でも、菜根タンには少しだけ引っかかった。

 ちゃんと意味があって並べていた順だったからだ。

 変えられるなら、一言ほしかった。

「あ……そっか」

 そう言っただけで、その場では特に何も言わなかった。

「見やすいかなと思って!」

 相手は明るく笑っている。

 そこで「いや、それ意味あったんだけど」と返すのが、少しだけきつい気がした。

 結局そのままにして、作業は進んだ。

 進んだのに、菜根タンの胸の中には、ほんの少しだけざらつきが残った。

 嫌だった。

 でも、言うほどではなかった。

 言うほどではない、けれど、なかったことにできるほど小さくもなかった。

 その半端さが、いちばんやっかいだった。

「また、大丈夫な顔してるね」

 声がして振り向くと、楊子ちゃんがいた。

 今日は最初から少しだけ刺しにきている顔をしている。

「……そんな顔してた?」

「してた」

「“別に気にしてませんよ”って顔」

 菜根タンは苦笑した。

「いや、そこまでじゃないよ」

「じゃあ、“ちょっと気にしてるけど今は出さないでおきます”の方ね」

「細かいなあ」

「今日は分かりやすいもの」

 楊子ちゃんはベンチの端に腰を下ろした。

 菜根タンは、さっきの資料のことを話した。

 並べ替えられたこと。

 一言ほしかったこと。

 でも、相手が悪気なく笑っていたから、その場では言えなかったこと。

「で、今ちょっとだけ残ってるのね」と楊子ちゃん。

「うん……」

「じゃあ、傷ついてるじゃない」

 その言い方があまりにまっすぐで、菜根タンは少しだけ返事に詰まった。

「傷つくっていうほど大げさじゃないよ」

「そうやってすぐ小さく言い直すの、癖?」

 痛いところを突かれて、菜根タンは少しだけ視線をそらした。

 たしかに自分は、痛かったことをすぐに小さく言い換えるところがある。

 大したことじゃない。

 気にしすぎ。

 このくらい普通。

 そうやって丸めるうちに、痛みの輪郭まで少しずつ曖昧にしてしまう。

「傷ついてないふりって、便利よね」と楊子ちゃんは言った。

「その場は丸く収まるし、相手も困らないし、自分も“ちゃんとしてる側”にいられる」

「……でも、大人ってそういうものじゃないのかな」

 菜根タンは小さく言った。

「いちいち全部出さないで、飲み込むところは飲み込むっていうか」

 楊子ちゃんは少しだけ目を細めた。

「飲み込むのと、なかったことにするのは別でしょ」

 その言葉が、かなり深く入った。

 飲み込む。

 なかったことにする。

 似ているようで、たぶん少し違う。

 その時、やわらかい声が重なった。

「うん。その違いはたしかにあると思う」

 論子ちゃんだった。

 今日も静かに来て、でも入ってくると話の輪郭が少しずつ整う。

 菜根タンが事情を話すと、論子ちゃんはうなずいた。

「傷ついたことを、その場で全部出さないのは悪くないよ」

「むしろ、その場では飲み込んだ方がいい時もある」

「じゃあ、平気な顔するのっていいことなの?」

 論子ちゃんは少し考える。

「“平気な顔”にも、いろいろあると思うんだ」

「今は出さないでおこう、って整えてる時もあるし」

「ほんとは痛かったのに、自分でもそれを認めないようにしてる時もある」

 菜根タンは、その違いを自分の中で探した。

 さっきの自分は、どちらだっただろう。

 その場では言わないと決めた、というより、

 “このくらいで引っかかる自分”を先に黙らせた感じの方が近い気がした。

「……たぶん、後ろの方かも」

 そう言うと、論子ちゃんはやわらかくうなずく。

「だったら、少ししんどいかもしれないね」

「傷ついてないふりって、その場を丸くすることもあるけど」

「自分の中で痛みを行き場なくすることもあるから」

 その時、元気な足音が近づいた。

「なに話してるの?」

 孟子ちゃんだった。

 事情を聞くと、すぐに顔を曇らせる。

「傷ついたなら、傷ついたでいいと思う」

 その言葉は、いつものようにまっすぐだった。

「もちろん、なんでもその場でぶつければいいってわけじゃないよ」

「でも、“こんなの平気”って自分にまで言い聞かせるのは、ちょっと違う気がする」

 菜根タンは、その言葉にかなり救われた気がした。

 そうなのだ。

 今の自分が苦しいのは、相手に言わなかったことだけではなく、

 自分の中でその痛みまで“このくらい大したことない”と押し込めようとしたからかもしれない。

「でも」と菜根タンは言う。

「毎回“いやだった”って出してたら、面倒な人にならない?」

「なる時もあるわね」と楊子ちゃん。

「でも、“面倒な人に見られたくない”のために毎回痛みを隠してたら、今度は便利な人にされるだけよ」

 その言葉は、かなり楊子ちゃんだった。

 きつい。

 でも、ここで必要なきつさでもある。

「傷ついてないふりって、“大人”っていうより、

周りにとって都合がいい形になることも多いの」

「だって、相手は自分のしたことを見直さなくて済むし」

 菜根タンは、小さく息をのんだ。

 たしかに。

 こちらが平気な顔をしてしまえば、相手は“問題なかった”と思える。

 それは、その場では丸い。

 でも、同じことがまた起きやすくもなる。

「じゃあ、どうしたらいいんだろう」

 菜根タンが小さく聞くと、論子ちゃんは静かに答えた。

「その場で全部出さなくていい」

「でも、あとで自分の中で“いやだった”をちゃんと認めるのは大事だと思う」

「それで、必要なら落ち着いた形で相手に返す」

「その順番なら、“整える”であって、“なかったことにする”ではなくなるから」

 その言葉は、かなりしっくりきた。

 傷ついてないふりをやめる、というのは、

 すぐ泣いたり怒ったりすることではない。

 まず、自分の中でちゃんと“痛かった”と認めることなのかもしれない。

 そして、その上で出すかどうかを選ぶ。

 そう考えると、少しだけ呼吸がしやすくなった。

 ノートを開く。

 白いページに、少し考えてから書く。

 傷ついてないふりは、時々その場を丸くする。

 そこまで書いて、少し止まる。

 それから、もう一行。

 でも、自分の中で痛みまでなかったことにすると、

 たぶん少しずつ、自分の声が遠くなる。

 文字を見つめていると、胸の中のざらつきが少しだけやわらぐ。

「……平気な顔をするのが、全部だめってわけじゃないんだね」

「うん」と論子ちゃん。

「ただ、“今は出さない”と“自分でも認めない”は違うと思う」

 孟子ちゃんもうなずく。

「痛かったなら、まず自分だけでもちゃんと分かってあげた方がいいよ」

 楊子ちゃんは最後に短く言う。

「傷ついてないふりは美徳じゃないわ。

ただの先送りで済むうちはまだいいけど、癖になると自分が薄くなる」

 その言い方はやっぱりきつい。

 でも、今日の菜根タンにはかなり必要だった。

 ノートの下へ、さらに一行書き足す。

 “今は出さない”は選べる。

 でも、“痛くなかったことにする”は、たぶん少し違う。

 風が吹いて、木の葉がページの隅に落ちた。

 菜根タンはそれを指先で払って、ノートを閉じた。

 傷ついてないふりをすることが、大人なのではないのかもしれない。

 むしろ、痛みを痛みとして分かった上で、それをどう扱うかを選べることの方が、少しだけ大人に近いのかもしれない。

 そう思えるだけでも、今日のざらつきは少しだけ意味を持った気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ