傷ついてないふりって、大人なの?
平気な顔をするのは、少しだけ上手くなってしまう。
菜根タンは、ときどきそう思う。
ほんとは少しいやだった。
ほんとは引っかかった。
ほんとは、ちゃんと痛かった。
でも、その場でそれを全部出すほどではない気もする。
言ったら空気が重くなるかもしれない。
相手を困らせるかもしれない。
自分が面倒な人に見えるかもしれない。
そう考えているうちに、気づけば口元だけ少しやわらかくして、
「ううん、大丈夫」
と言うことがある。
それはたぶん、嘘とまでは言い切れない。
ほんとうに大泣きするほどではない時もあるし、その場で騒ぐほどでもない時もある。
でも、“大丈夫”という言葉の下に、小さな痛みだけが取り残されることはある。
その日の放課後、文化祭の準備で使う資料をまとめていた時だった。
「これ、ちょっと順番変えといたよ」
そう言って、クラスの子が菜根タンの作っていた資料を軽く並べ替えた。
その子に悪気はなかったと思う。
むしろ、良かれと思ってやったのだろう。
でも、菜根タンには少しだけ引っかかった。
ちゃんと意味があって並べていた順だったからだ。
変えられるなら、一言ほしかった。
「あ……そっか」
そう言っただけで、その場では特に何も言わなかった。
「見やすいかなと思って!」
相手は明るく笑っている。
そこで「いや、それ意味あったんだけど」と返すのが、少しだけきつい気がした。
結局そのままにして、作業は進んだ。
進んだのに、菜根タンの胸の中には、ほんの少しだけざらつきが残った。
嫌だった。
でも、言うほどではなかった。
言うほどではない、けれど、なかったことにできるほど小さくもなかった。
その半端さが、いちばんやっかいだった。
「また、大丈夫な顔してるね」
声がして振り向くと、楊子ちゃんがいた。
今日は最初から少しだけ刺しにきている顔をしている。
「……そんな顔してた?」
「してた」
「“別に気にしてませんよ”って顔」
菜根タンは苦笑した。
「いや、そこまでじゃないよ」
「じゃあ、“ちょっと気にしてるけど今は出さないでおきます”の方ね」
「細かいなあ」
「今日は分かりやすいもの」
楊子ちゃんはベンチの端に腰を下ろした。
菜根タンは、さっきの資料のことを話した。
並べ替えられたこと。
一言ほしかったこと。
でも、相手が悪気なく笑っていたから、その場では言えなかったこと。
「で、今ちょっとだけ残ってるのね」と楊子ちゃん。
「うん……」
「じゃあ、傷ついてるじゃない」
その言い方があまりにまっすぐで、菜根タンは少しだけ返事に詰まった。
「傷つくっていうほど大げさじゃないよ」
「そうやってすぐ小さく言い直すの、癖?」
痛いところを突かれて、菜根タンは少しだけ視線をそらした。
たしかに自分は、痛かったことをすぐに小さく言い換えるところがある。
大したことじゃない。
気にしすぎ。
このくらい普通。
そうやって丸めるうちに、痛みの輪郭まで少しずつ曖昧にしてしまう。
「傷ついてないふりって、便利よね」と楊子ちゃんは言った。
「その場は丸く収まるし、相手も困らないし、自分も“ちゃんとしてる側”にいられる」
「……でも、大人ってそういうものじゃないのかな」
菜根タンは小さく言った。
「いちいち全部出さないで、飲み込むところは飲み込むっていうか」
楊子ちゃんは少しだけ目を細めた。
「飲み込むのと、なかったことにするのは別でしょ」
その言葉が、かなり深く入った。
飲み込む。
なかったことにする。
似ているようで、たぶん少し違う。
その時、やわらかい声が重なった。
「うん。その違いはたしかにあると思う」
論子ちゃんだった。
今日も静かに来て、でも入ってくると話の輪郭が少しずつ整う。
菜根タンが事情を話すと、論子ちゃんはうなずいた。
「傷ついたことを、その場で全部出さないのは悪くないよ」
「むしろ、その場では飲み込んだ方がいい時もある」
「じゃあ、平気な顔するのっていいことなの?」
論子ちゃんは少し考える。
「“平気な顔”にも、いろいろあると思うんだ」
「今は出さないでおこう、って整えてる時もあるし」
「ほんとは痛かったのに、自分でもそれを認めないようにしてる時もある」
菜根タンは、その違いを自分の中で探した。
さっきの自分は、どちらだっただろう。
その場では言わないと決めた、というより、
“このくらいで引っかかる自分”を先に黙らせた感じの方が近い気がした。
「……たぶん、後ろの方かも」
そう言うと、論子ちゃんはやわらかくうなずく。
「だったら、少ししんどいかもしれないね」
「傷ついてないふりって、その場を丸くすることもあるけど」
「自分の中で痛みを行き場なくすることもあるから」
その時、元気な足音が近づいた。
「なに話してるの?」
孟子ちゃんだった。
事情を聞くと、すぐに顔を曇らせる。
「傷ついたなら、傷ついたでいいと思う」
その言葉は、いつものようにまっすぐだった。
「もちろん、なんでもその場でぶつければいいってわけじゃないよ」
「でも、“こんなの平気”って自分にまで言い聞かせるのは、ちょっと違う気がする」
菜根タンは、その言葉にかなり救われた気がした。
そうなのだ。
今の自分が苦しいのは、相手に言わなかったことだけではなく、
自分の中でその痛みまで“このくらい大したことない”と押し込めようとしたからかもしれない。
「でも」と菜根タンは言う。
「毎回“いやだった”って出してたら、面倒な人にならない?」
「なる時もあるわね」と楊子ちゃん。
「でも、“面倒な人に見られたくない”のために毎回痛みを隠してたら、今度は便利な人にされるだけよ」
その言葉は、かなり楊子ちゃんだった。
きつい。
でも、ここで必要なきつさでもある。
「傷ついてないふりって、“大人”っていうより、
周りにとって都合がいい形になることも多いの」
「だって、相手は自分のしたことを見直さなくて済むし」
菜根タンは、小さく息をのんだ。
たしかに。
こちらが平気な顔をしてしまえば、相手は“問題なかった”と思える。
それは、その場では丸い。
でも、同じことがまた起きやすくもなる。
「じゃあ、どうしたらいいんだろう」
菜根タンが小さく聞くと、論子ちゃんは静かに答えた。
「その場で全部出さなくていい」
「でも、あとで自分の中で“いやだった”をちゃんと認めるのは大事だと思う」
「それで、必要なら落ち着いた形で相手に返す」
「その順番なら、“整える”であって、“なかったことにする”ではなくなるから」
その言葉は、かなりしっくりきた。
傷ついてないふりをやめる、というのは、
すぐ泣いたり怒ったりすることではない。
まず、自分の中でちゃんと“痛かった”と認めることなのかもしれない。
そして、その上で出すかどうかを選ぶ。
そう考えると、少しだけ呼吸がしやすくなった。
ノートを開く。
白いページに、少し考えてから書く。
傷ついてないふりは、時々その場を丸くする。
そこまで書いて、少し止まる。
それから、もう一行。
でも、自分の中で痛みまでなかったことにすると、
たぶん少しずつ、自分の声が遠くなる。
文字を見つめていると、胸の中のざらつきが少しだけやわらぐ。
「……平気な顔をするのが、全部だめってわけじゃないんだね」
「うん」と論子ちゃん。
「ただ、“今は出さない”と“自分でも認めない”は違うと思う」
孟子ちゃんもうなずく。
「痛かったなら、まず自分だけでもちゃんと分かってあげた方がいいよ」
楊子ちゃんは最後に短く言う。
「傷ついてないふりは美徳じゃないわ。
ただの先送りで済むうちはまだいいけど、癖になると自分が薄くなる」
その言い方はやっぱりきつい。
でも、今日の菜根タンにはかなり必要だった。
ノートの下へ、さらに一行書き足す。
“今は出さない”は選べる。
でも、“痛くなかったことにする”は、たぶん少し違う。
風が吹いて、木の葉がページの隅に落ちた。
菜根タンはそれを指先で払って、ノートを閉じた。
傷ついてないふりをすることが、大人なのではないのかもしれない。
むしろ、痛みを痛みとして分かった上で、それをどう扱うかを選べることの方が、少しだけ大人に近いのかもしれない。
そう思えるだけでも、今日のざらつきは少しだけ意味を持った気がした。




