じゃあ、謝ったら全部許さなきゃいけないの?
謝られたら、少し困ることがある。
菜根タンは、それを誰にも言いにくいと思っていた。
謝ってくれること自体は、たぶん悪いことではない。
むしろ、ちゃんと謝ってくれる方がずっといい。
何もなかった顔で通り過ぎられるよりは、ずっとましだ。
でも、謝罪があった瞬間に、別の空気が生まれることがある。
もういいよね。
これで終わりだよね。
謝ったんだから、あとはそっちがやわらかくなる番だよね。
そういう、言葉にならない圧みたいなものだ。
それがあると、菜根タンは少しだけ戸惑う。
たしかに謝ってくれた。
でも、だからといって自分の中まで一気に片づくわけではない。
なのに、その続きを持っていることが、少しだけ感じの悪いことみたいに思えてしまう。
その日の放課後、教室の入り口で、前に少し揉めた子に呼び止められた。
「この前、ごめん」
思ったよりまっすぐな声だった。
文化祭準備の時、勝手に備品を動かしたこと。
軽く言い返したこと。
そのへんを、ちゃんと謝ってきた。
「悪かった。こっちも雑だった」
菜根タンは、その言葉自体には嘘がない感じを受けた。
形だけの謝罪ではない。
少なくとも、自分が何をしたかには触れている。
「……ううん、言ってくれてありがとう」
そう返した。
それで、その場の空気は少しだけやわらいだ。
相手もほっとしたように笑って、「じゃあまた明日」と帰っていく。
菜根タンも手を振った。
振ったのに、帰り道で胸の中に残ったものは、きれいな晴れではなかった。
謝ってくれた。
それはちゃんと大きい。
でも、じゃあ全部もう平気かと言われると、まだ少しだけ違う。
言われた時の冷たさ。
あの場で“そんな大したことじゃなくない?”と返された感じ。
そういうものは、謝罪ひとつで一瞬にして消えるほど軽くはない。
それなのに、謝ってくれた相手に対して、まだ少し距離がある自分が、なんとなく狭い人間みたいにも思える。
「……謝ってくれたのに」
小さく呟いた時、自分でもその言葉の中に戸惑いが混ざっているのが分かった。
中庭のベンチに座って、菜根タンはノートを開いたまましばらく考えた。
謝ってもらえた。
ありがたいと思う。
でも、だからといって全部がすぐ元通りになるわけではない。
その“すぐ戻らない感じ”は、いけないことなのだろうか。
「今日は、ちょっと申し訳なさそうな顔してるね」
声がして顔を上げると、論子ちゃんがいた。
「申し訳なさそう?」
「うん。
“自分の中の戻りの遅さ”に、少し気をつかってる顔」
言い方があまりに正確で、菜根タンは少しだけ苦笑した。
「すごいなあ」
「今日は分かりやすいよ」
論子ちゃんは隣に腰を下ろす。
菜根タンは、さっきのことをそのまま話した。
相手がちゃんと謝ってくれたこと。
それはうれしかったこと。
でも、自分の中ではまだ全部が解けきっていないこと。
「……謝ってくれたんだから、もう少しすぐやわらかくなれた方がよかったのかなって」
論子ちゃんは、すぐには答えなかった。
少しだけ風を見てから、ゆっくり言う。
「謝罪って、大事だと思うよ」
「でも、謝罪があったからって、相手の中の時間まで一気に進むわけじゃないと思う」
菜根タンはその言葉を受け止める。
「時間……」
「うん」
「謝ることは、たぶん扉を開けることではある」
「でも、開いた扉の向こうを、すぐに同じ速さで歩けるかは、また別なんじゃないかな」
そのたとえが、菜根タンにはとても分かりやすかった。
謝罪はあった。
だから、閉じっぱなしだったものが少し動いた。
でも、その先を自分がどう進むかまでは、自動ではない。
「じゃあ、謝ってもらっても、すぐ許せなくていいのかな」
「いいと思う」
論子ちゃんは静かにうなずく。
「謝罪は大事」
「でも、謝罪があったからって、傷ついた側がその場で全部やわらかくならなきゃいけない、とは私は思わないな」
その時、元気な声が近づいてきた。
「なに話してるの?」
孟子ちゃんだった。
事情を聞くと、少しだけ真剣な顔になる。
「ちゃんと謝ってくれたのは、すごく大事だと思う」
その声には、まっすぐな重みがあった。
「だって、悪かったって言うの、勇気いる時あるもん」
「だからそこは、ちゃんと大事にしたい」
「うん」と菜根タン。
「わたしも、そこはすごくありがたいと思った」
「でも」と孟子ちゃんは続ける。
「それで“はい、今すぐ全部終わり!”ってなるとは限らないよね」
「謝るのも勇気だけど、傷ついた方の気持ちが追いつくにも、時間っているし」
その言葉は、かなり菜根タンの胸にやさしく入ってきた。
謝罪を軽く見たくない。
でも、自分の戻りの遅さまで悪いものにしたくもない。
その両方を一緒に持っていていいのだとしたら、少しだけ呼吸が楽になる。
その時、冷えた声が入った。
「謝罪は免罪符じゃないのよ」
楊子ちゃんだった。
今日の言葉は短かった。
でも、その短さの中にかなりの切れ味がある。
「謝った。はい終わり。
そんなに都合よくはいかないでしょ」
菜根タンは、その言葉に小さくうなずいた。
「うん……そうなんだと思う」
「謝罪は必要」
「でも必要だからって、それだけで全部回収された顔をされると、また別の腹が立つのよね」
楊子ちゃんは腕を組んだまま言う。
「だって、謝罪って“入口”ではあっても、“完了”じゃないもの」
その言い方が、論子ちゃんのさっきの“扉”のたとえと、きれいに重なった。
入口。
扉。
始まりであって、全部の終わりではない。
「じゃあ」と菜根タンは言った。
「謝ってくれた相手に、すぐ前みたいに戻れないのって、そんなに悪くないんだね」
「悪くないよ」と論子ちゃん。
「大事なのは、謝罪があったことをちゃんと受け取ることと、
自分の中が追いついてないことを、無理に嘘つかないことの両方だと思う」
孟子ちゃんもうなずく。
「“謝ってくれてありがとう。でも、ちょっとずつ戻るね”でもいいのかも」
その言葉に、菜根タンは少し目を上げた。
ちょっとずつ戻る。
それはすごくしっくりきた。
一瞬で全部きれいにするのではなく、戻る方向は向きながら、でも速度は自分のもののままでいい。
ノートを開く。
白いページに、少しだけ考えてから書く。
謝罪は大事。
でも、それだけで全部が一瞬に戻るわけではない。
そこまで書いて、手を止める。
それから、もう一行。
扉が開くことと、
その先を同じ速さで歩けることは、少し違う。
文字を見つめていると、胸の中の戸惑いが少しずつ形になる。
「……わたし」
菜根タンは小さく息を吐いた。
「謝ってくれたのは、ちゃんとありがたい」
「でも、だからってその場で全部平気な顔をしなきゃ、って思わなくていいんだね」
「うん」と論子ちゃん。
「ありがとうと、まだ少し痛い、は一緒にあっていいと思うよ」
その言葉が、かなりやさしく残った。
孟子ちゃんも明るく言う。
「ちゃんと謝ってくれたことは大事にしつつ、
自分の気持ちまで急がなくていいんだよ」
楊子ちゃんは最後にいつもの調子で言った。
「謝罪を受け取るのと、即時全面免除は別。そこ混ぜるから面倒なの」
「言い方は冷たいけど、今日はすごく分かる」と菜根タンは少し笑った。
ノートの下へ、さらに一行書き足す。
謝ってくれたことを大事にするのと、
すぐ全部許すことは、同じじゃない。
風が吹いて、ページの端が揺れた。
菜根タンはノートを閉じた。
謝罪は、きっと大事だ。
でも、謝罪があったからといって、傷ついた側の時間まで早回しにしていいわけではない。
ありがとう、と思うこと。
まだ少し痛いこと。
その両方を持ったまま、少しずつ戻る。
たぶん、人の気持ちはそのくらい不揃いで、それでいいのだろう。




