表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/36

許しって、謝罪が行われて初めて成立するの?

 許し、という言葉は、ときどき急ぎすぎる。

 菜根タンは、そう思う。

 もういいじゃない。

 そろそろ水に流したら。

 いつまでも引きずってても苦しいだけだよ。

 そういう言葉は、たしかに一理あるようにも聞こえる。

 憎み続けるのはしんどい。

 怒りをずっと持っているのも、たぶん楽ではない。

 でも、その“もういいじゃない”が、時々ひどく遠く感じることがある。

 なぜなら、こちらの中ではまだ終わっていないのに、

 まるで話だけが先に閉じられていくように聞こえるからだ。

 その日の放課後、教室では少しだけ重い空気が流れていた。

 文化祭準備で使う備品の管理をめぐって、ちょっとした揉め事があったのだ。

 菜根タンが確認していたはずの箱が、別の場所へ勝手に移されていた。

 そのせいで準備が少し遅れ、必要なものも一時見つからなくなった。

 結局、あとで箱は見つかった。

 大ごとにはならなかった。

 でも、勝手に動かした子は特に謝らなかった。

「いや、そこにあると思ったから」

「そんな大したことじゃなくない?」

 そう言って、肩をすくめただけだった。

 菜根タンは、その瞬間、胸の中で小さく何かが冷えるのを感じた。

 大したことじゃない。

 たしかに、最終的にはなんとかなった。

 でも、だからといって、こちらが困ったことまで軽く扱われると、さすがに少し苦い。

 何より嫌だったのは、そのあと周りの子の何人かが、

「まあ、見つかったならよかったじゃん」

「そんな怒るほどでもないって」

 と、空気を早く丸めようとしたことだった。

 怒っている、というほど激しくはない。

 でも、ちゃんと引っかかっている。

 その引っかかりごと、“もういいでしょ”の方へ押される感じがして、菜根タンはうまく笑えなかった。

 帰り道、そのことがずっと胸に残っていた。

 許した方がいいのだろうか。

 こういうのを、いちいち気にする自分が狭いのだろうか。

 それとも、謝りもしないまま終わらせようとする方がおかしいのだろうか。

 中庭のベンチに腰を下ろして、菜根タンはノートを開いたまま、しばらく何も書けなかった。

 風はやわらかい。

 空も静かだ。

 なのに胸の中だけ、少しざらついている。

「今日は、怒ってるっていうより、冷えてる顔だね」

 声がして顔を上げると、論子ちゃんがいた。

 菜根タンは少しだけ苦笑した。

「そんな細かく違うの?」

「今日は分かるよ。

熱い怒りじゃなくて、すとんと冷えた感じ」

 論子ちゃんは隣に腰を下ろす。

 菜根タンは、さっきのことを最初から話した。

 箱のこと。

 勝手に動かされたこと。

 謝罪がなかったこと。

 そして周りから“もういいじゃない”の空気を向けられたこと。

「……別に、大騒ぎしたいわけじゃないの」

「でも、何も言わずに終わると、なんか」

「こっちだけ勝手に飲み込まされる感じがして」

 論子ちゃんは静かにうなずいた。

「それは、たぶん自然だと思うよ」

 その一言に、菜根タンは少しだけ肩の力が抜けた。

「自然なんだ」

「うん」

「だって、傷ついた側の中では、まだ何も整っていないのに」

「まわりだけが先に“終わったこと”にしようとしたら、苦しいよね」

 その言い方は、まさに今の感じに近かった。

 終わったことになっていない。

 大事件ではないけれど、自分の中ではまだ整理もされていない。

 なのに、“見つかったんだからいいじゃん”で閉じられると、こちらの中の引っかかりだけが取り残される。

「でも」と菜根タンは言った。

「許した方が、自分のためには楽なのかなって思う気持ちも少しある」

 論子ちゃんはすぐには答えなかった。

 少し考えてから、ゆっくり言う。

「許すこと自体は、たぶん悪いことじゃないよ」

「でも、許しって、こっちだけで急いで片づけるものでもないと思う」

「……こっちだけで急いで片づける」

「うん」

「相手が何をしたかにちゃんと触れないまま、

傷ついた側だけに“もういいよね”って求めるのは、少し順番が違う気がする」

 その時、少し離れたところから、冷えた声がした。

「少しじゃないわ。だいぶ違う」

 楊子ちゃんだった。

 今日の声は、いつもより少し低かった。

 皮肉というより、腹の底で切っている感じがある。

 菜根タンは顔を上げる。

 楊子ちゃんは腕を組んだまま、まっすぐこちらを見ていた。

「許しって、謝罪が行われて初めて成立するのよ」

 その一言は、風の中でも妙にはっきり聞こえた。

 菜根タンは、何も言えなかった。

 あまりにもはっきりしていて、そしてあまりにも、今の胸の中に近かったからだ。

 楊子ちゃんは続ける。

「謝りもしない」

「自分が何をしたかにも触れない」

「でも、傷ついた側には“そろそろ許してあげたら?”って?」

「冗談じゃないわ」

 その言葉には、めずらしく熱があった。

 怒鳴っているわけではない。

 でも、静かな怒りがそのまま通ってくる。

「謝罪もないまま“許せ”って言うのは、

ただ傷ついた側に綺麗でいろって押しつけてるだけでしょ」

 菜根タンは膝の上で、指を少しだけ握った。

 まさに、それだったのかもしれない。

 許すことそのものが嫌なのではない。

 でも、相手が何も差し出さないまま、こちらだけに“前を向いて”を求められると、

 それは許しというより、泣き寝入りに近い感じがする。

「でも……」

 菜根タンは小さく言った。

「謝らない人っているよね」

「それでも、こっちがずっとそこに引っかかったままだと、しんどい時もある」

 その問いに、楊子ちゃんはすぐには答えなかった。

 少しだけ目を伏せてから、言う。

「あるわよ」

「だから、相手のためじゃなく、自分のために手放すことはある」

「でもそれを“許し”って、きれいな名前で呼ばなくていい」

 その言葉は、菜根タンにはかなり大きかった。

 相手のためではなく、自分のために手放す。

 でも、それは必ずしも“許した”という美しい言葉にしなくていい。

 そこを無理に一つにしなくていいのだとしたら、少しだけ息がしやすい。

 その時、明るい足音が近づいてきた。

「なんか、今日は重い話してる」

 孟子ちゃんだった。

 事情を聞くと、孟子ちゃんは少しだけ表情を曇らせた。

「……謝らないまま、“もういいじゃん”ってされるの、やだね」

 その声は、いつもより静かだった。

「だって、こっちはちゃんと困ったし、いやだったんでしょ」

「それに触れもしないで“許してあげて”は、たしかにちょっと違うと思う」

 論子ちゃんもやわらかく続ける。

「うん。許しって、急がせるものではないよね」

「少なくとも、“傷つきました”がちゃんと見えないままでは、無理にきれいにしない方がいいと思う」

 菜根タンは、その言葉に小さくうなずいた。

 きれいにしない方がいい。

 それは、思っていたより救いのある言い方だった。

 ずっと怒っていなさい、ではない。

 でも、整っていないものを無理に整った顔へ押し込まなくていい、ということだ。

「……じゃあ」

 菜根タンはゆっくり言った。

「“まだ許せない”でもいいのかな」

「いいと思う」と論子ちゃん。

「その“まだ”の中に、ちゃんと傷があるなら」

 孟子ちゃんも力強くうなずく。

「うん。無理に立派な方へ行かなくていいよ」

 楊子ちゃんは腕を組んだまま、少しだけ視線を外した。

「許せない自分を、わざわざ悪者にしなくていいの」

「悪いのは先に傷つけて、しかも謝ってない方でしょ」

 その言い方はやっぱり少しきつい。

 でも、今はそのきつさが必要な気もした。

 ノートを開く。

 白いページに、少しだけ迷ってから書く。

 許しは、傷ついた側だけで急いで成立させるものじゃない。

 そこまで書いて、手を止める。

 それから、もう一行。

 謝罪もなく、責任にも触れないまま求められる“許し”は、

 たぶんただの押しつけに近い。

 文字を見つめていると、胸の中のざらつきが少しだけ輪郭を持つ。

「……わたし」

 菜根タンは小さく息を吐いた。

「“許した方が大人”みたいな空気に、ちょっと押されてたのかも」

「あるわね、そういうの」と楊子ちゃん。

「綺麗な方へ早く並ばせたい人、だいたい当事者じゃないのよ」

「言い方はきついけど、少し分かる」と菜根タンは苦笑した。

 論子ちゃんは静かに言う。

「許しって、誰かに急がされるものじゃないと思う」

「少なくとも、自分の中で“何がいやだったか”がちゃんと残ってるうちは、無理に言葉を急がなくていいよ」

 孟子ちゃんも続ける。

「うん。

許せる時が来るかもしれないし、来ないかもしれない」

「でも、それを先に決めなくていいと思う」

 その言葉で、菜根タンの中に少しだけ広さが戻った気がした。

 今ここで、許すか許さないかを決めなくてもいい。

 まだ傷があるなら、それを傷として持っていていい。

 そして、そのうえで、いつか自分のために少し手放す日が来るなら、

 それはそれでいい。

 でも、その順番を飛ばして“もう許しなよ”は、やっぱり少し違う。

 ノートの下へ、さらに一行書き足す。

 “まだ許せない”は、未熟さじゃなくて、

 傷がまだ傷として残っている、というだけかもしれない。

 風が吹く。

 ページの端が揺れて、木漏れ日が文字の上を少し動く。

 菜根タンはノートを閉じた。

 許しという言葉は、きっと大事なのだろう。

 でも、大事だからこそ、順番を飛ばしてはいけない。

 謝るべきことがあり、傷ついたことが見え、そのうえでようやく、

 許すかどうかという言葉が土俵に上がる。

 それを抜きにして、傷ついた側だけに綺麗でいろと言うのは、

 たぶん少し、勝手すぎるのだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ