許しって、謝罪が行われて初めて成立するの?
許し、という言葉は、ときどき急ぎすぎる。
菜根タンは、そう思う。
もういいじゃない。
そろそろ水に流したら。
いつまでも引きずってても苦しいだけだよ。
そういう言葉は、たしかに一理あるようにも聞こえる。
憎み続けるのはしんどい。
怒りをずっと持っているのも、たぶん楽ではない。
でも、その“もういいじゃない”が、時々ひどく遠く感じることがある。
なぜなら、こちらの中ではまだ終わっていないのに、
まるで話だけが先に閉じられていくように聞こえるからだ。
その日の放課後、教室では少しだけ重い空気が流れていた。
文化祭準備で使う備品の管理をめぐって、ちょっとした揉め事があったのだ。
菜根タンが確認していたはずの箱が、別の場所へ勝手に移されていた。
そのせいで準備が少し遅れ、必要なものも一時見つからなくなった。
結局、あとで箱は見つかった。
大ごとにはならなかった。
でも、勝手に動かした子は特に謝らなかった。
「いや、そこにあると思ったから」
「そんな大したことじゃなくない?」
そう言って、肩をすくめただけだった。
菜根タンは、その瞬間、胸の中で小さく何かが冷えるのを感じた。
大したことじゃない。
たしかに、最終的にはなんとかなった。
でも、だからといって、こちらが困ったことまで軽く扱われると、さすがに少し苦い。
何より嫌だったのは、そのあと周りの子の何人かが、
「まあ、見つかったならよかったじゃん」
「そんな怒るほどでもないって」
と、空気を早く丸めようとしたことだった。
怒っている、というほど激しくはない。
でも、ちゃんと引っかかっている。
その引っかかりごと、“もういいでしょ”の方へ押される感じがして、菜根タンはうまく笑えなかった。
帰り道、そのことがずっと胸に残っていた。
許した方がいいのだろうか。
こういうのを、いちいち気にする自分が狭いのだろうか。
それとも、謝りもしないまま終わらせようとする方がおかしいのだろうか。
中庭のベンチに腰を下ろして、菜根タンはノートを開いたまま、しばらく何も書けなかった。
風はやわらかい。
空も静かだ。
なのに胸の中だけ、少しざらついている。
「今日は、怒ってるっていうより、冷えてる顔だね」
声がして顔を上げると、論子ちゃんがいた。
菜根タンは少しだけ苦笑した。
「そんな細かく違うの?」
「今日は分かるよ。
熱い怒りじゃなくて、すとんと冷えた感じ」
論子ちゃんは隣に腰を下ろす。
菜根タンは、さっきのことを最初から話した。
箱のこと。
勝手に動かされたこと。
謝罪がなかったこと。
そして周りから“もういいじゃない”の空気を向けられたこと。
「……別に、大騒ぎしたいわけじゃないの」
「でも、何も言わずに終わると、なんか」
「こっちだけ勝手に飲み込まされる感じがして」
論子ちゃんは静かにうなずいた。
「それは、たぶん自然だと思うよ」
その一言に、菜根タンは少しだけ肩の力が抜けた。
「自然なんだ」
「うん」
「だって、傷ついた側の中では、まだ何も整っていないのに」
「まわりだけが先に“終わったこと”にしようとしたら、苦しいよね」
その言い方は、まさに今の感じに近かった。
終わったことになっていない。
大事件ではないけれど、自分の中ではまだ整理もされていない。
なのに、“見つかったんだからいいじゃん”で閉じられると、こちらの中の引っかかりだけが取り残される。
「でも」と菜根タンは言った。
「許した方が、自分のためには楽なのかなって思う気持ちも少しある」
論子ちゃんはすぐには答えなかった。
少し考えてから、ゆっくり言う。
「許すこと自体は、たぶん悪いことじゃないよ」
「でも、許しって、こっちだけで急いで片づけるものでもないと思う」
「……こっちだけで急いで片づける」
「うん」
「相手が何をしたかにちゃんと触れないまま、
傷ついた側だけに“もういいよね”って求めるのは、少し順番が違う気がする」
その時、少し離れたところから、冷えた声がした。
「少しじゃないわ。だいぶ違う」
楊子ちゃんだった。
今日の声は、いつもより少し低かった。
皮肉というより、腹の底で切っている感じがある。
菜根タンは顔を上げる。
楊子ちゃんは腕を組んだまま、まっすぐこちらを見ていた。
「許しって、謝罪が行われて初めて成立するのよ」
その一言は、風の中でも妙にはっきり聞こえた。
菜根タンは、何も言えなかった。
あまりにもはっきりしていて、そしてあまりにも、今の胸の中に近かったからだ。
楊子ちゃんは続ける。
「謝りもしない」
「自分が何をしたかにも触れない」
「でも、傷ついた側には“そろそろ許してあげたら?”って?」
「冗談じゃないわ」
その言葉には、めずらしく熱があった。
怒鳴っているわけではない。
でも、静かな怒りがそのまま通ってくる。
「謝罪もないまま“許せ”って言うのは、
ただ傷ついた側に綺麗でいろって押しつけてるだけでしょ」
菜根タンは膝の上で、指を少しだけ握った。
まさに、それだったのかもしれない。
許すことそのものが嫌なのではない。
でも、相手が何も差し出さないまま、こちらだけに“前を向いて”を求められると、
それは許しというより、泣き寝入りに近い感じがする。
「でも……」
菜根タンは小さく言った。
「謝らない人っているよね」
「それでも、こっちがずっとそこに引っかかったままだと、しんどい時もある」
その問いに、楊子ちゃんはすぐには答えなかった。
少しだけ目を伏せてから、言う。
「あるわよ」
「だから、相手のためじゃなく、自分のために手放すことはある」
「でもそれを“許し”って、きれいな名前で呼ばなくていい」
その言葉は、菜根タンにはかなり大きかった。
相手のためではなく、自分のために手放す。
でも、それは必ずしも“許した”という美しい言葉にしなくていい。
そこを無理に一つにしなくていいのだとしたら、少しだけ息がしやすい。
その時、明るい足音が近づいてきた。
「なんか、今日は重い話してる」
孟子ちゃんだった。
事情を聞くと、孟子ちゃんは少しだけ表情を曇らせた。
「……謝らないまま、“もういいじゃん”ってされるの、やだね」
その声は、いつもより静かだった。
「だって、こっちはちゃんと困ったし、いやだったんでしょ」
「それに触れもしないで“許してあげて”は、たしかにちょっと違うと思う」
論子ちゃんもやわらかく続ける。
「うん。許しって、急がせるものではないよね」
「少なくとも、“傷つきました”がちゃんと見えないままでは、無理にきれいにしない方がいいと思う」
菜根タンは、その言葉に小さくうなずいた。
きれいにしない方がいい。
それは、思っていたより救いのある言い方だった。
ずっと怒っていなさい、ではない。
でも、整っていないものを無理に整った顔へ押し込まなくていい、ということだ。
「……じゃあ」
菜根タンはゆっくり言った。
「“まだ許せない”でもいいのかな」
「いいと思う」と論子ちゃん。
「その“まだ”の中に、ちゃんと傷があるなら」
孟子ちゃんも力強くうなずく。
「うん。無理に立派な方へ行かなくていいよ」
楊子ちゃんは腕を組んだまま、少しだけ視線を外した。
「許せない自分を、わざわざ悪者にしなくていいの」
「悪いのは先に傷つけて、しかも謝ってない方でしょ」
その言い方はやっぱり少しきつい。
でも、今はそのきつさが必要な気もした。
ノートを開く。
白いページに、少しだけ迷ってから書く。
許しは、傷ついた側だけで急いで成立させるものじゃない。
そこまで書いて、手を止める。
それから、もう一行。
謝罪もなく、責任にも触れないまま求められる“許し”は、
たぶんただの押しつけに近い。
文字を見つめていると、胸の中のざらつきが少しだけ輪郭を持つ。
「……わたし」
菜根タンは小さく息を吐いた。
「“許した方が大人”みたいな空気に、ちょっと押されてたのかも」
「あるわね、そういうの」と楊子ちゃん。
「綺麗な方へ早く並ばせたい人、だいたい当事者じゃないのよ」
「言い方はきついけど、少し分かる」と菜根タンは苦笑した。
論子ちゃんは静かに言う。
「許しって、誰かに急がされるものじゃないと思う」
「少なくとも、自分の中で“何がいやだったか”がちゃんと残ってるうちは、無理に言葉を急がなくていいよ」
孟子ちゃんも続ける。
「うん。
許せる時が来るかもしれないし、来ないかもしれない」
「でも、それを先に決めなくていいと思う」
その言葉で、菜根タンの中に少しだけ広さが戻った気がした。
今ここで、許すか許さないかを決めなくてもいい。
まだ傷があるなら、それを傷として持っていていい。
そして、そのうえで、いつか自分のために少し手放す日が来るなら、
それはそれでいい。
でも、その順番を飛ばして“もう許しなよ”は、やっぱり少し違う。
ノートの下へ、さらに一行書き足す。
“まだ許せない”は、未熟さじゃなくて、
傷がまだ傷として残っている、というだけかもしれない。
風が吹く。
ページの端が揺れて、木漏れ日が文字の上を少し動く。
菜根タンはノートを閉じた。
許しという言葉は、きっと大事なのだろう。
でも、大事だからこそ、順番を飛ばしてはいけない。
謝るべきことがあり、傷ついたことが見え、そのうえでようやく、
許すかどうかという言葉が土俵に上がる。
それを抜きにして、傷ついた側だけに綺麗でいろと言うのは、
たぶん少し、勝手すぎるのだ。




