嫌いな人にも礼儀は必要?
礼儀、という言葉には、少しだけ固い音がある。
ちゃんとすること。
失礼のないようにすること。
相手に不快な思いをさせないようにすること。
たぶん、どれも間違っていない。
でも菜根タンは、ときどき思う。
礼儀って、ほんとうに誰にでも同じように向けるものなのだろうか。
好きな人や、大切な人に丁寧でありたいのは分かる。
親切にしてくれる人、尊敬できる人、いっしょにいて気持ちのいい人。
そういう相手に自然とやわらかい態度になるのは、たぶん無理のないことだ。
でも、正直あまり好きではない相手にまで、きちんとした態度を取ることは、時々少しだけ苦しい。
その日の掃除の時間、菜根タンは教室の前で、あまり気の合わないクラスメイトと一緒になった。
その子は別に、露骨に悪い子ではない。
ただ、話し方が少し雑で、人の失敗を軽く笑う癖がある。
距離感も近く、気安さのつもりなのか、ときどき人の心の中へ土足で入ってくるような感じがあった。
菜根タンは、そういうところが少し苦手だった。
「菜根タン、そこ持って」
言い方も、なんとなく引っかかる。
命令されているわけではない。
でも、お願いより先に当然やるでしょが来ているように聞こえる時がある。
「……うん」
短く返して、机を持つ。
相手は「ありがと」と言ったが、その軽さもなんとなく胸に残る。
別に大したことではない。
喧嘩するほどでもない。
でも、こういう小さな引っかかりが重なる相手というのはいる。
掃除が終わったあと、廊下ですれ違った時も、その子は気軽に手を振った。
「じゃ、おつかれー」
菜根タンも「おつかれ」と返した。
返したのだが、そのあとで自分の顔が少しだけ固くなっていたことに気づいた。
嫌いとまでは言えない。
でも好きでもない。
むしろ少し苦手だ。
そういう相手にも、ちゃんと礼儀よくするべきなのだろうか。
そうしないと、自分が感じ悪い人になるのだろうか。
放課後、中庭のベンチで菜根タンはそのことを考えていた。
風はやわらかく、空も静かだった。
なのに胸の中だけ、少しだけざらついている。
「今日は、眉のあたりが少し固いね」
声がして顔を上げると、論子ちゃんがいた。
菜根タンは少しだけ笑った。
「そんな細かく分かるの?」
「今日はたぶん、相手を嫌いな自分が少し気になる顔かな」
あまりにもその通りで、菜根タンは一瞬言葉に詰まった。
「……すごいね」
「そんなにすごくないよ」
「顔に出てるだけ」
論子ちゃんは隣に腰を下ろす。
菜根タンは、さっきのクラスメイトのことを話した。
どうしても少し苦手なこと。
でも、露骨に冷たくしたいわけでもないこと。
だから礼儀よく接しているけれど、それが時々少しだけ嘘っぽく感じること。
「嫌いな人にも礼儀って必要なのかな」
そう聞くと、論子ちゃんは少しだけ考えた。
「必要だと思うよ」
答えははっきりしていた。
でも、押しつける感じではない。
「……やっぱり?」
「うん」
「でも、それは好きになりなさいって意味じゃないよ」
菜根タンは少しだけ肩の力が抜ける。
「違うの?」
「違う」
「礼儀って、相手を好きか嫌いかと、少しだけ別の場所にあると思うの」
その言い方が、菜根タンには少し意外だった。
論子ちゃんは続ける。
「好きなら自然にやさしくなれることもあるよね」
「でも、礼儀ってたぶん、好きだからするだけじゃない」
「むしろ、苦手な相手に対しても、自分が崩れないためにある部分もあると思う」
菜根タンは、その言葉をゆっくり受け取った。
「自分が崩れないため……」
「うん」
「相手に引っぱられて、自分まで雑な態度になっちゃうと、あとで自分が少し嫌になることあるでしょ」
それは、たしかにそうだった。
苦手な相手に対して、こちらまで棘のある返事をしてしまった時。
あとで思い返して、相手より先に自分の中にざらつきが残ることがある。
嫌いな人にまでやさしくしろと言われると苦しい。
でも、相手に引っぱられて自分の形まで崩すのも、やっぱり少し違う。
その時、軽い足音が近づいてきた。
「また難しい話してる」
孟子ちゃんだった。
菜根タンが事情を話すと、孟子ちゃんは少しだけ考えてから言った。
「うーん……」
「礼儀はあった方がいいと思う」
「でも、無理に好きなふりしなくていいんじゃないかな」
その言い方が、孟子ちゃんらしかった。
「やさしくするのと、へらへら合わせるのって違うし」
「苦手な人にまで無理して感じよくしようとすると、逆にしんどいよね」
「そうだね」と論子ちゃん。
「礼儀って、感じよくし続けることじゃないもの」
「必要以上に近づかないことも、ひとつの整え方だと思う」
菜根タンはその言葉に少し目を上げた。
「近づかないのも、礼儀?」
「うん」
「無理に仲良くしなくていい」
「ただ、だからって雑にしていいわけでもない」
「その距離のとり方が、たぶん礼なんだよ」
その時、後ろから気だるい声がした。
「礼儀って、ずいぶん都合よく使われる言葉よね」
楊子ちゃんだった。
論子ちゃんが少しだけ苦笑する。
「来ると思った」と孟子ちゃんが言う。
楊子ちゃんは平然としていた。
「嫌いな相手にまで愛想よくしろ、って意味ならいらないわ」
「でも、嫌いだからって何してもいい、にもならない」
「結局、自分が損しない距離で、余計な火種を増やさないくらいが妥当なんじゃない?」
その言い方はやっぱり可愛げがない。
でも、変にきれいごとではないぶん、少し分かりやすい。
「礼儀っていうより、防火壁みたい」と菜根タンが言うと、
「そう、それ」と楊子ちゃんはすぐにうなずいた。
「好きじゃない相手にまで心を開けなんて言わないわよ」
「ただ、いちいち感情のままにぶつかると、こっちまで消耗するでしょ」
それはかなり本当のことだった。
嫌いな相手に礼儀を向ける、というと少し苦しい。
でも、自分の消耗を増やさないための壁だと思えば、少し違って見える。
「……じゃあ」
菜根タンはゆっくり言った。
「礼儀って、相手のためだけじゃないんだ」
「うん」と論子ちゃん。
「相手を雑にしないためでもあるし、自分まで雑にならないためでもあると思う」
「礼って、きれいごとだけじゃ続かないからね」と楊子ちゃん。
「損得で言えば、感情のままにぶつからない方が、あとで自分が楽って面もあるわ」
「そこを損得で言うのが楊子ちゃんだよね」と孟子ちゃん。
菜根タンは少しだけ笑った。
でも、その言い方も今は嫌ではなかった。
好きじゃない相手にまで、好きなふりをする必要はない。
でも、嫌いだからといって、自分の態度まで崩していいわけでもない。
そのあいだにある、少し冷静で、少し整った距離。
たぶんそれが、今の自分にとっての礼儀なのだろう。
ノートを開く。
白いページに、しばらく考えてから書く。
礼儀は、好きな人にだけ向けるものじゃない。
その下に、もう一行。
苦手な相手にも、自分まで崩れないための距離として必要なのかもしれない。
書きながら、胸の中のざらつきが少しだけ言葉の形になる。
「……無理に好きになる必要はない」
「でも、嫌いだからって雑にならない」
菜根タンは、書いた文字を見ながら小さく言った。
「そのくらいが、たぶんちょうどいいのかも」
論子ちゃんがやわらかく笑う。
「うん。すごくいいと思う」
孟子ちゃんも元気よくうなずいた。
「それなら、自分にも相手にも無理しすぎないね」
楊子ちゃんは最後にひとこと。
「礼儀って、好き嫌いのためじゃなくて、面倒を増やさないための知恵でもあるのよ」
「最後まで可愛くないなあ」と孟子ちゃん。
「可愛さで人間関係は回らないの」
「そこまで言ってない!」
そのやりとりに、菜根タンは少しだけ笑った。
嫌いな人にも礼儀は必要か。
その答えは、たぶんはいなのだろう。
でもそれは、好きになる努力でも、我慢の押しつけでもない。
自分を崩さず、相手も雑にしすぎず、余計な火種を増やさないための、少し静かな知恵なのだ。
ノートの下へ、さらに一行書き足す。
好きになれなくてもいい。
でも、嫌いという感情に自分の形まで渡さない。
風が吹いて、木の葉がひとつ膝の上へ落ちた。
菜根タンはそれをそっと払って、ノートを閉じた。
礼儀という言葉の固さが、さっきより少しだけやわらいで見えた。
相手を縛るためではなく、自分を保つための形でもあるのだとしたら、たしかに必要なものなのかもしれない。




