仲直りって、どっちからするもの?
気まずさには、重さがある。
目には見えないのに、ちゃんと空気を重くする。
声をかけようか迷う時間を長くする。
同じ教室にいても、少しだけ遠回りをさせる。
菜根タンは、その日の朝から、その重さをずっと感じていた。
相手は、同じクラスの子だった。
昨日、文化祭の準備で机を動かす時に、ちょっとした言い合いになった。
「そっちじゃなくて、こっちに寄せた方が動線いいと思う」
菜根タンはそう言った。
自分では、提案のつもりだった。
でも相手はすぐに眉を寄せた。
「毎回そんな細かく決めなくてもよくない?」
「ていうか、いちいち言い方きついよね」
その一言に、菜根タンも少しむっとした。
「きつく言ったつもりはないよ」
「ちゃんとした方がいいって言っただけ」
「だから、そのちゃんとがめんどくさいって言ってるの」
そこから先は、もうほとんど意地だった。
言い返したいわけでも、喧嘩したいわけでもないのに、引っ込めるタイミングを失って、言葉だけが少しずつ固くなる。
結局、その場は周りが入ってなんとなく流れた。
机は動いたし、準備も進んだ。
でも、空気だけがきれいに戻らなかった。
今日もその子は普通に登校してきた。
普通に席について、普通に友達と話している。
菜根タンも表面上は普通にしていた。
でも、話しかけるきっかけは見つからない。
向こうから来れば返せる。
でも自分からは行きにくい。
なんとなく気まずい。
なんとなく、まだ少し腹も立っている。
そして、そのなんとなくがいちばんやっかいだった。
昼休み、中庭のベンチに座って、菜根タンはパンの袋を小さく折っていた。
「今日は、もごもごしてるね」
声がして顔を上げると、論子ちゃんがいた。
「しょんぼりでもなく、苦いでもなく、もごもご」と論子ちゃんは言った。
「いちばん面倒なやつだね」
その言い方に、菜根タンは少しだけ笑った。
「そんな顔してる?」
「してるよ」
論子ちゃんは隣に座る。
菜根タンは少し迷ってから、昨日のことを話した。
話しているうちに、自分の中にある気持ちがきれいに一つではないことがよく分かる。
相手の言い方も、ちょっと嫌だった。
でも、自分の言い方も固かったかもしれない。
そして今、仲直りしたい気持ちはある。
でも、自分から行くのは少し負けた感じがする。
「……なんか、向こうも悪かったのにって思うと」
「こっちから話しかけるの、ちょっと悔しい」
論子ちゃんはすぐには答えなかった。
少しだけ風の方を見てから、ゆっくり言う。
「そう思うの、たぶんすごく普通だよ」
菜根タンは少し肩の力が抜けた。
「普通なんだ」
「うん」
「仲直りって、関係を戻す話なのに、気持ちの中ではどっちが折れるかになりやすいから」
その言い方が、妙にしっくりきた。
そうだ。
仲直りしたいはずなのに、心のどこかで先に行ったら負けみたいになっている。
その勝ち負けの感覚が、たぶん一番厄介なのだ。
「でもね」と論子ちゃんは続ける。
「仲直りって、勝敗をつけるためにするものじゃないと思う」
「……うん」
「このままだと居心地が悪いなとか」
「ちゃんと戻したいなとか」
「そういう気持ちがあるなら、先に声をかける方が負けとは少し違うよ」
菜根タンは、膝の上で指先を組んだ。
「でも、こっちだけが戻したがってるみたいに見えないかな」
「見える時もあるかもね」
論子ちゃんはあっさり言った。
その正直さが、かえってありがたい。
「でも、それで関係が戻るなら、そこまで悪いことでもないと思う」
「だって、戻したいって気持ち自体は、別に恥ずかしいことじゃないから」
その時、元気な声が聞こえた。
「仲直りは、したい方がすればいいんじゃない?」
孟子ちゃんだった。
菜根タンが事情を話すと、孟子ちゃんはすぐに言った。
「だって、このままいやなんでしょ?」
「だったら、話しかければいいじゃん」
「簡単に言うなあ」と菜根タンは苦笑した。
「簡単じゃないのは分かるよ」
「でも、向こうから来たら返すって待ってるうちに、どんどん変な意地だけ育つこともあるし」
その言葉には、孟子ちゃんなりの実感があるように聞こえた。
「わたしね、前に一回」
「仲直りしたいのに待ってたら、なんかそのまま話しづらくなったことあるの」
珍しく、少しだけ照れくさそうにそう言う。
「だから、したい方がするでいいと思う」
「したいのにしないで拗れる方が、たぶんもったいないよ」
その時、少し離れたところから、冷えた声がした。
「ずいぶんきれいな話ね」
韓非ちゃんだった。
孟子ちゃんが「あ、出た」と言う。
韓非ちゃんは気にしない。
「仲直りって、だいたいどっちが悪いかより、どっちが先に面倒を終わらせたいかで動くことも多いわよ」
「面倒を終わらせたいって……」と菜根タン。
「べつに悪い言い方じゃないでしょ」
「気まずいまま引きずるのが鬱陶しいなら、先に切る」
「それも立派な動機よ」
論子ちゃんが少し笑う。
「言い方はともかく、まあ近い部分はあるね」
「このままだと濁るから、先に澄ませるって考え方もできるし」
菜根タンは、その言葉を胸の中で並べた。
戻したい。
終わらせたい。
澄ませたい。
どれも少しずつ違うけれど、たぶん向いている先は同じだ。
「……じゃあ」
菜根タンはゆっくり言った。
「仲直りって、どっちが悪いかより、このままでいたいかどうかで動いてもいいのかな」
論子ちゃんはやわらかくうなずいた。
「いいと思うよ」
「もちろん、自分の気持ちを全部引っ込める必要はないけど」
「戻したいなら、その気持ちを先に置くのはそんなに変じゃない」
孟子ちゃんも力強くうなずく。
「うん!」
「悔しいより戻したいが大きいなら、そっちを優先していいんだよ」
韓非ちゃんは腕を組んだまま言う。
「ただし、全部こっちが悪かったみたいな言い方はしなくていいわ」
「自分の分だけ出せば十分」
その言葉で、菜根タンの中で少し形が整った。
そうだ。
全部を背負う必要はない。
でも、自分の言い方が固かったと思うなら、その分だけは出せる。
ノートを開く。
白いページに、少しだけ考えてから書く。
仲直りは、勝ち負けを決めることじゃない。
そこまで書いて、手を止める。
それから、もう一行。
戻したいがあるなら、
先に声をかけることは、負けとは少し違う。
書いた文字を見つめていると、さっきまで胸の中で絡まっていた意地が、少しだけほどける気がした。
「……わたし」
菜根タンはゆっくり言う。
「たぶん、向こうも悪いって気持ちがあるのは本当」
「でも、それとこのままはいやって気持ちは、別に一緒にあっていいんだね」
「うん」と論子ちゃん。
「その二つがあるから、人間関係ってややこしいんだと思う」
「でも、ややこしいから面白い時もあるよ」と孟子ちゃん。
「そこまでいくとだいぶ元気ね」と、韓非ちゃん。
菜根タンは少し笑った。
ややこしい。
たしかにそうだ。
謝るのも、許すのも、仲直りするのも、きれいに一色では済まない。
でも、一色で済まないからといって、何もしない理由にもならない。
ノートの下へ、さらに一行書き足す。
意地があるままでも、
それより戻したいが大きいなら、動いていい。
風が吹いて、ページが少しだけめくれた。
教室へ戻る前、菜根タンは一度だけ深く息を吸った。
「……行ってくる」
孟子ちゃんがすぐに笑う。
「いってらっしゃい!」
論子ちゃんは静かにうなずく。
「言葉は短くていいと思うよ」
韓非ちゃんは最後に一言だけ。
「長引かせる方がたいてい損よ」
「最後までその言い方なんだね」と菜根タンは苦笑した。
でも、たぶんその通りでもある。
仲直りって、どっちからするものなんだろう。
その答えは、きっと一つではない。
でも少なくとも、
戻したいと思った方が動くのは、そんなにおかしなことではないのだろう。
菜根タンはノートを閉じて、教室の方へ歩き出した。
少しだけ悔しい気持ちは、まだある。
でも、それよりも、このまま変な空気を持ち続ける方がいやだった。
その順番が見えたぶんだけ、足取りはさっきより軽かった。




