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許すって、忘れること?

 許す、という言葉は、やわらかい顔をしている。

 菜根タンは、そう思う。

 怒ったままでいるより、許した方がいい。

 憎み続けるより、水に流した方がいい。

 そういう言い方を聞くたびに、たしかにその通りなのかもしれない、と思う。

 でも、そのやわらかさの中に、時々少しだけ無理が混じることもある。

 忘れられないことがある。

 なかったことにできない言葉がある。

 時間がたっても、ふとした瞬間にまた胸の奥で小さく痛むことがある。

 そういうものまで全部まとめて、「許した方がいいよ」と言われると、菜根タンは少しだけ困る。

 それは、ほんとうに許すということなのだろうか。

 それとも、ただ自分の痛みを見ないふりすることなのだろうか。

 その日の放課後、菜根タンは図書室からの帰り道、昇降口の前で足を止めた。

 少し前に気まずくなった子と、たまたま顔が合ったのだ。

 ノートの扱いのこと。

 言い方がきつくなってしまったこと。

 ちゃんと話して、前よりは空気もやわらいだ。

 もう表立って引っかかるものはない。

 その子も普通に話しかけてくるし、菜根タンも普通に返せる。

 だから、もう終わった話のはずだった。

「じゃあね、また明日」

 相手はそう言って、軽く手を振って帰っていく。

 菜根タンも「うん、またね」と返した。

 返したのに、その背中を見送ったあとで、胸の奥にほんの少しだけ、固いものが残った。

 いやだったことは、やっぱりいやだった。

 ちゃんと話したし、空気も戻った。

 でも、じゃあ全部もう平気かと言われると、そうでもない。

「……これって、許してないのかな」

 小さく呟いてみる。

 許していない、というほど強い怒りではない。

 でも、すっかり忘れたわけでもない。

 その半端さが、少しだけ落ち着かなかった。

 校舎裏のベンチに座って、菜根タンは膝の上にノートを置いたまま、しばらく何も書けなかった。

 許すって、なんだろう。

 忘れることだろうか。

 もう痛まなくなることだろうか。

 それとも、痛みが残っていても、とりあえず前へ進めることだろうか。

「今日は、だいぶ静かな顔してるね」

 顔を上げると、論子ちゃんがいた。

 今日もきちんとしていて、でも、そのきちんとした感じが苦しさを増やすのではなく、少しだけ呼吸を整えてくれる。

「静かな顔って、いいのかな悪いのかな」

「今日はたぶん、考えすぎてる方の静かさ」

 論子ちゃんはそう言って、菜根タンの隣に腰を下ろした。

 菜根タンは、さっきのことを話した。

 前にあった小さないざこざのこと。

 関係は戻ったはずなのに、まだ少しだけ固いものが胸に残っていること。

 それが、自分でも気になること。

「……もう普通に話せるんだよ」

「だから、たぶん終わった話なんだと思う」

「でも、思い出すと少しだけああ、いやだったなってなる」

 論子ちゃんは、すぐには答えなかった。

 少しだけ視線を落として、菜根タンの言葉を一度ちゃんと受け止めるみたいに黙る。

「それ、別に変じゃないと思うよ」

 やがて、そう言った。

 菜根タンは少しだけ肩の力が抜ける。

「変じゃないんだ」

「うん」

「許すって、たぶん何も感じなくなることじゃないから」

 菜根タンはその言葉を、頭の中でゆっくり反芻した。

 何も感じなくなることではない。

「じゃあ、許すってなに?」

 論子ちゃんは少しだけ微笑んだ。

「その人を、ずっとその時の一回に閉じ込めないこと……かな」

 その言い方が、菜根タンには少し意外だった。

「閉じ込めない?」

「うん」

「あの時こうだった人って札を、ずっと首から下げさせたままにしないこと」

「もちろん、いやだったことが消えるわけじゃないよ」

「でも、その一回だけで相手の全部を決めてしまわないなら、もうそれは許す方へ向いてるんだと思う」

 菜根タンは、その言葉を胸の中でそっと触った。

 たしかに、自分はあの子をノートを雑に扱った子として固定し続けたいわけではない。

 今はちゃんと普通に話せるし、その時の一回だけで全部を決めたくはない。

 でも同時に、いやだったこと自体まで無かったことにもしたくない。

 その両方が、一度にあってもいいのだろうか。

「でもさ!」

 元気な声が割り込んできた。

 孟子ちゃんだった。

 菜根タンが事情を話すと、孟子ちゃんは真っ先に言った。

「いやだったことを、無理にもう平気ってことにしなくていいと思う!」

 その言い方が、孟子ちゃんらしくて少しほっとする。

「だって、痛かったものは痛かったんだもん」

「許すって、痛くなかったふりとは違うでしょ」

 論子ちゃんも、静かにうなずく。

「うん、それは違うね」

「我慢して、飲み込んで、見えなくすることを許しって呼ぶのは、ちょっと苦しい」

 菜根タンは少しだけ目を伏せた。

 実のところ、自分の中にもそういう気持ちはあった。

 ちゃんとしている人でいたい。

 だから、いつまでも引っかかっている自分を少し狭い気がしていた。

 でも、今日こうして言葉にしてみると、ほんとうは狭いのではなく、まだ少し痛みが残っていただけなのかもしれない。

 その時、少し離れたところから、落ち着いた声がした。

「忘れないことと、抱え続けることも別よ」

 墨子ちゃんだった。

 手には薄い資料の束を持っていて、どうやら職員室帰りらしい。

「忘れないからって、毎回そこに戻る必要はないし」

「逆に、忘れたふりしてるだけだと、似たことが起きた時にまた同じところが痛む」

「だからなかったことにするのも、あんまり効率はよくないと思う」

 その言い方は、いかにも墨子ちゃんらしかった。

 痛みすら、きれいごとではなく実際の扱い方として見ている感じがする。

「効率……」と孟子ちゃんが少しだけ苦笑する。

「そうよ」と墨子ちゃんは平然としていた。

「感情だからって、毎回ぐちゃぐちゃに扱っていいわけじゃないでしょ」

 菜根タンは、三人の言葉を順番に受け取っていった。

 忘れなくていい。

 痛かったことを、痛かったまま持っていてもいい。

 でも、その一回で相手の全部を決めなくていい。

 そして、思い出すたびにそこへ戻って苦しみ直さなくてもいい。

 許すというのは、たぶん、きれいに一瞬で済むことではない。

 もっと、少しずつ扱い方を変えていくようなことなのだろう。

「……わたし」

 菜根タンはゆっくり言った。

「たぶん、忘れられない=許せてないって思ってた」

「でも、そうじゃなくて」

「忘れなくても、その人をずっとその時のままにしないなら、それでいいのかも」

 論子ちゃんの顔がやわらぐ。

「うん。私はそう思う」

 孟子ちゃんも大きくうなずいた。

「痛かったことまで消さなくていいよ」

「でも、そのまま全部を凍らせなくてもいい」

 墨子ちゃんは短く言った。

「覚えてるけど、そこで止めないがいちばん現実的かもね」

 その言葉に、菜根タンは少しだけ息を吐いた。

 それなら、今の自分にもできそうな気がした。

 ノートを開く。

 白いページに、少しだけ考えてから書く。

 許すことは、忘れることとは少し違う。

 その下に、もう一行。

 痛かったことを消さなくても、

 その一回だけで相手の全部を決めないなら、前へは進める。

 書いてから、その文字をじっと見つめる。

 たぶん、傷はきれいに消えない。

 小さなことでも、いやだった記憶は少し残る。

 でも、それが残っているからといって、ずっとそこに閉じこもる必要もない。

 それはきっと、忘却ではなくて、扱い方の問題なのだ。

「……ちょっと、楽になった」

 菜根タンがそう言うと、論子ちゃんはやわらかく笑った。

「よかった」

 孟子ちゃんは、少し前のめりになる。

「やっぱり、気持ちをなかったことにしなくていいって大事だね」

「気持ちを処分しようとするから、だいたい後で面倒になるのよ」と、墨子ちゃん。

「言い方はともかく、たぶんそう」と菜根タンは少し笑った

 ノートの下へ、さらに一行書き足す。

 忘れないことは悪くない。

 でも、忘れないまま凍らせ続けるのは、たぶん少し寒い。

 風が吹く。

 ページの端が小さく揺れる。

 痛かったことを、無理にやさしく塗り替えなくていい。

 でも、その痛みだけをいつまでも磨き続ける必要もない。

 許すって、たぶんそのあいだを少しずつ歩くことなのだろう。

 菜根タンはノートを閉じた。

 きれいではない。

 でも、今の自分にはそのくらいの不揃いさの方が、本当のことに近い気がした。


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