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なんで謝る方が損した気分になるの?

 謝るのは、大事なことだと思う。

 菜根タンは、そう教わってきたし、自分でもそう思っている。

 悪いことをしたら、ごめんなさい。

 相手を傷つけたなら、ちゃんと認める。

 そういうのは、人と一緒にいるために必要なのだろう。

 でも時々、謝ることの正しさと、謝ったあとの気持ちは、あまりきれいに重ならない。

 先に「ごめん」と言った方だけが、少し損したような。

 折れたような。

 なんとなく、負けたみたいな。

 そういう小さな苦さが、謝るという行為の裏側にくっついてくることがある。

 その日の昼休み、菜根タンは教室の自分の席で、少しだけ気まずい空気の中にいた。

 原因は、ほんの些細なことだった。

 昨日、クラスの子に貸したノートが、思ったより雑に扱われて返ってきたのだ。

 ページの端が少し折れていて、付箋も一枚ずれていた。

 大したことではない。

 破れたわけでもないし、読めなくなったわけでもない。

 でも、菜根タンにとっては少しだけ大事にしていたノートだったから、その少しだけ雑が引っかかった。

「もうちょっと丁寧に扱ってほしかったかも」

 そう言った時の声が、思っていたより少し固かったらしい。

 相手の子は「え、そんな怒ること?」という顔になって、そのまま少し空気が悪くなった。

 菜根タンも、言った瞬間に少し後悔した。

 伝えたいことは間違っていなかったと思う。

 でも、もう少し言い方はあったかもしれない。

 なのに今、その場で「さっきは言い方きつくてごめん」と言うのが、なぜか妙に悔しい。

 向こうも雑だったのは事実だ。

 じゃあ、どうして自分だけが先に折れるみたいになるんだろう。

「……めんどくさい」

 小さく呟いた時、近くから声がした。

「謝るかどうか迷ってる顔だね」

 顔を上げると、論子ちゃんがいた。

 いつものようにきちんとしていて、でも堅苦しさだけではない、やわらかい空気をまとっている。

「そんな顔、してる?」

「してる」

 即答だった。

 菜根タンは苦笑して、さっきのことを話した。

 論子ちゃんは最後まで聞いてから、少しだけ考えるように視線を落とした。

「菜根タンちゃんが言いたかったこと自体は、たぶん間違ってないね」

 その一言に、少しだけ救われる。

「でも、言い方は少し刺さったかもしれない」

「……うん」

「で、今はそこだけ謝るの、損した感じがするってとこかな」

 そこまで正確に言われると、逆に笑いそうになる。

「そう」

「まさにそれ」

 論子ちゃんは、少しだけ口元をゆるめた。

「謝ると、自分の非だけを認めた感じになること、あるよね」

「そうなの」

「向こうも悪くなかったわけじゃないのに、こっちだけごめんって言うと、なんか」

「……負けた感じ」

 論子ちゃんはすぐには否定しなかった。

「そう感じるのは自然だと思うよ」

 その返しが少し意外で、菜根タンは顔を上げた。

「自然なんだ」

「うん。だって謝る時って、自分の形を少しだけ下げるでしょ」

「それを損とか負けっぽく感じること自体は、そんなに変じゃない」

 そう言われると、少しだけ気持ちがほどけた。

 謝りたくない自分が、ただ器の小さい人間みたいに感じていたからだ。

「でも」と論子ちゃんは続けた。

「謝るのって、勝ち負けの話にしない方が楽なんだと思う」

「楽?」

「うん」

「どっちが上か下かじゃなくて、このままだと関係が濁るから、先に濁りを取るって考えるの」

 その言い方は、論子ちゃんらしかった。

 謝罪を道徳や敗北ではなく、関係の手入れとして見る。

「濁りを取る……」

「そう」

「自分が全部悪いって意味じゃなくてね」

「自分の言い方に引っかかるところがあったなら、そこだけ先に拭う」

「そうすると、相手もあ、自分も悪かったかなって戻りやすくなることがあるの」

 その時、勢いのある声が近づいてきた。

「でも、向こうが悪いのにこっちだけ謝るの、やっぱり変だよ!」

 孟子ちゃんだった。

 菜根タンが事情を話すと、案の定、すぐに眉を寄せた。

「だって雑に扱ったの向こうでしょ?」

「菜根タンが嫌だったのも当然だし、そこを言うのは悪くないじゃん」

「悪くはないよ」と論子ちゃん。

「でも、正しいことを言ったと伝わる言い方だったは別だから」

 孟子ちゃんは少しだけ口を尖らせる。

「うーん……でも、謝るってなると、やっぱりこっちが悪いみたい」

「そこで損得を考え始めると、たいてい長引くのよね」

 冷えた声がして、かんぴちゃんが現れた。

 ほんとうに、いつもいいタイミングで空気を固くする。

「また来た」と孟子ちゃんが言う。

「呼ばれてないけど来たわ」と、かんぴちゃんは平然としていた。

「謝る方が損した気分になるのは、謝罪を責任の総取りだと思ってるからよ」

 菜根タンはその言葉に少し反応した。

「責任の、総取り」

「そう」

「私が悪かったですを、全部私の非ですって受け取るから、重くなる」

「でも実際は、さっきの言い方は余計だったみたいに、自分の分だけ切り分けて謝ればいいの」

 論子ちゃんもうなずく。

「うん。それは大事かも」

「全部を背負う謝り方だと、たしかに苦しくなる」

 菜根タンは、その言葉を聞きながら、さっきから胸にあったつっかえの形が少しずつ見えてくるのを感じた。

 謝りたくなかったのは、全部自分が悪いみたいになるのが嫌だったからだ。

 でも、本当に謝るべきなのは、ノートを雑に扱われたことに傷ついた部分ではなく、そこを伝える時の固い言い方の方なのかもしれない。

「……じゃあ」

 菜根タンはゆっくり言った。

「ノート雑だったのはいやだった。でも、さっきの言い方はきつくてごめんって言えばいいのかな」

「いいと思うよ」と論子ちゃん。

「それなら、自分の気持ちも消してないし、言い方の濁りも拭えてる」

「うん」と孟子ちゃんも少しだけ納得した顔になる。

「それなら負けじゃないかも」

「勝ち負けにしてる時点でだいぶ面倒だけど」と、かんぴちゃん。

「言い方!」

「中身。」

 そのやりとりに、菜根タンは少しだけ笑った。

 謝ることが負けに見えるのは、たぶん、自分の形を少し下げる感じがあるからだ。

 でも、関係の中の濁りを取るための一歩だと思えば、少しだけ違って見える。

 それに、全部を背負って頭を下げる必要はない。

 自分の分だけ、ちゃんと切り分けて出せばいい。

 ノートを開く。

 白いページに、少し考えてから書く。

 謝ることは、全部負けを引き受けることじゃない。

 その下に、もう一行。

 自分の分の濁りを先に拭うだけで、

 関係が戻りやすくなることもある。

 書いてから、その文字を見つめる。

「……なんか、ちょっと楽になった」

 菜根タンがそう言うと、論子ちゃんはやわらかく笑った。

「よかった」

 孟子ちゃんも、腕を組みながらうなずく。

「自分の気持ちまで引っ込めなくていいのは、大事だね」

「そこを全部飲み込むから、あとで妙な恨みになるのよ」と、かんぴちゃん。

 その言い方は相変わらずだったが、今は少しだけ、言っていることの形が見えた。

 菜根タンは立ち上がった。

「……言ってくる」

「えらい」と孟子ちゃん。

「えらいっていうか、手入れかな」と論子ちゃん。

「やっと動く気になったのね」と、かんぴちゃん。

「最後の一言いらないよね?」

 孟子ちゃんのそれを背中で聞きながら、菜根タンは教室の方へ歩いた。

 ほんの少し緊張する。

 でも、さっきまでの負ける感じだけではなくなっていた。

 全部を自分の非にしなくていい。

 でも、自分の分に濁りがあるなら、そこは先に拭えばいい。

 それだけのことなのだとしたら、謝ることは前より少しだけ怖くない。

 教室の入り口で一度だけ息を整えて、菜根タンは相手の方へ歩いた。

 ノートのことはいやだった。

 でも、さっきの言い方はきつかった。

 その二つを両方、ちゃんと置くために。

 たぶん謝るって、そういうことなのだろう。


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