普通って、そんなにえらいの?
普通、という言葉は、たいてい安心そうな顔をしている。
菜根タンはそう思う。
普通にしていれば大丈夫。
普通なら変じゃない。
普通の範囲にいれば、たぶん安心。
そういうふうに使われることが多いから、きっとみんな、知らないうちにその言葉へ少しずつ寄っていく。
けれど時々、菜根タンは引っかかる。
普通って、なんだろう。
多い方のことだろうか。
目立たないことだろうか。
誰も文句を言わないあたりに、自分を置いておくことだろうか。
その日の昼休み、教室では文化祭の出し物の細かい係を決めていた。
「やっぱさ、あんまり変なことはやめとこうよ」
「普通のでよくない?」
「浮くとめんどくさいし」
その普通のでの中身は、誰もちゃんと説明しない。
でも、言われた瞬間になんとなく空気がそちらへ傾く感じがある。
派手すぎない。
奇抜すぎない。
失敗しても笑われにくい。
たぶん、そのへん全部をまとめて普通と呼んでいるのだろう。
菜根タンは、机の上の案の紙を見た。
そこには少しだけ変わった企画が書いてあった。
面白いと思ったけれど、普通でよくない?の空気が出た瞬間に、それを押す声は急に細くなってしまった。
「……普通って、そんなに強いんだ」
小さく呟くと、隣の子が笑った。
「いや、強いっていうか、無難?」
「変に目立つと後が大変じゃん」
その言い方も、たぶん分かる。
笑われたくない。
失敗したくない。
浮きたくない。
そう思うと、普通はやさしい顔で近づいてくる。
でもそのやさしさは、ときどき少しだけ息苦しい。
放課後、菜根タンは中庭のベンチでノートを開いたまま、何も書けずにいた。
さっきの「普通でよくない?」が、まだ胸の中に残っている。
普通であることは、悪くない。
むしろ助かる時もある。
でも、普通という言葉が出た瞬間に、それまであった別の考えや、少し変わった面白さが、まとめて引っ込んでしまう感じがあった。
「また、普通に困らされてるの?」
声がして顔を上げると、荘子ちゃんがいた。
相変わらず、どこから来たのかよく分からない。
でも、こういう時に出てくると少し嫌な予感がする。
たぶん、やさしく整えるのではなく、土台からずらしてくるからだ。
「困らされてるっていうか……」
菜根タンは、文化祭の話をした。
普通の案。
無難な方へ流れていく空気。
変わったことを出しにくくなる感じ。
荘子ちゃんは最後まで聞いてから、少しだけ首をかしげた。
「で、その普通って、だれの普通?」
菜根タンは一瞬、返事ができなかった。
「え?」
「だれが決めたの、それ」
「先生?」
「クラス全員?」
「去年からの伝統?」
「それとも、なんとなくみんながそう思ってそうっていう空気?」
問い方が細かい。
でも、細かくされると、さっきまで輪郭のあった普通が急に曖昧になっていく。
「……たぶん、空気かも」
「でしょ」
荘子ちゃんは少し笑った。
「普通って、だいたい空気の顔をしてるから厄介なんだよね」
「だれも責任取ってないのに、逆らうと変な感じになるし」
その言い方に、菜根タンは少しだけ笑ってしまった。
たしかにそうだ。
普通と口にした人が、ちゃんと定義しているわけではない。
でもその言葉が出ると、説明できない圧だけが生まれる。
「でも」と菜根タンは言う。
「普通でいるのって、楽な時もあるよ」
「変に浮かないし、失敗しても傷が浅いし」
「あるね」
荘子ちゃんはあっさりうなずく。
「だから普通が悪いとは言ってないよ」
「ただ、普通っていう言葉で、自分がほんとは面白いと思ったものまで引っ込めてるなら、ちょっともったいないなって思うだけ」
その時、明るい足音が聞こえた。
「なにしてるの?」
孟子ちゃんだった。
菜根タンが話をすると、孟子ちゃんは少し考えてから言った。
「普通って、安心するのは分かるよ」
「でも、みんなそうしてるからだけで決めるのは、私はちょっと違うと思う」
そこへ、少し遅れて論子ちゃんもやってくる。
「普通が悪いんじゃなくて、普通だから考えないになるのが危ないのかもね」
菜根タンは、その言葉を静かに受け取った。
普通であること。
それ自体はたぶん悪くない。
でも、普通という言葉を出した瞬間に、考えることまで終わってしまうなら、それは少し怖い。
「だってさ」と、荘子ちゃんが言う。
「魚の世界で普通に泳げるのは大事かもしれないけど」
「そこで木に登れない魚は変って言い出したら、さすがに変じゃない?」
「また魚」と孟子ちゃんが言う。
「便利なんだもん、魚」
荘子ちゃんは少し得意そうだった。
「普通って、場所が変わればすぐ変わるでしょ」
「昨日まで変だったことが、明日には普通かもしれないし」
「じゃあ、その普通にそんな絶対の顔させる必要ある?」
論子ちゃんがやわらかく続ける。
「普通って、たぶん目安にはなるんだよ」
「でも、目安をものさしにして人を切り始めると、ちょっと苦しくなる」
「うん」と孟子ちゃん。
「普通じゃないからだめって言い方、私はあんまり好きじゃない」
「それ、ちゃんと考える前に追い出してる感じがする」
菜根タンは、昼休みの教室を思い出した。
普通でよくない?
その一言のあと、みんなは少し安心した顔をしていた。
でも同時に、面白そうだった案のいくつかは、その言葉だけで消えてしまった。
あれは、たぶん便利だった。
でも、少し雑だったのかもしれない。
「……わたし」
菜根タンはゆっくり言った。
「普通でいたい気持ちはある」
「でも、普通だから安心だけで選ぶと、あとで少しだけ、自分で自分をつまらなくする時もあるのかも」
荘子ちゃんが、少しだけ目を細めた。
「いいじゃん、その感じ」
「普通を全部捨てる必要はないけど、普通だからだけで決めなくてもいいんだよ」
菜根タンはノートを開いた。
白いページに、少し考えてから書く。
普通は、安心の目安にはなる。
そこまで書いて、少し止まる。
それから、続けた。
でも、普通を理由に考えるのをやめると、
たぶん少しずつ息が詰まる。
文字を見つめていると、自分の中でさっきまで曖昧だった息苦しさの形が少しだけ見えてくる。
普通でいることは悪くない。
でも、普通であることがえらいわけでもない。
まして、それで人の面白さや違いまで押し込めてしまうなら、たぶん少し違う。
「……普通って」
菜根タンは小さく息を吐いた。
「安全そうな方って意味で使われること、多いのかも」
「うん」と論子ちゃん。
「だから、選ぶのはいいけど、そこで止まらない方がいいんだと思う」
「安全と退屈って、時々すごく近いしね」と荘子ちゃん。
「でも危なすぎるのもだめだよ!」と孟子ちゃん。
「そこはバランスだね」と論子ちゃんが笑う。
菜根タンは、そのやりとりを聞きながら、ノートの下にもう一行書き足した。
普通は答えじゃない。
考えるのをさぼる時に使うと、急に窮屈になる。
書き終えて、少しだけ胸の中が軽くなった。
普通でいたい日があってもいい。
目立ちたくない日があってもいい。
でも、それをいつでも正義みたいに掲げる必要はない。
たぶん大事なのは、普通に寄ることそのものより、
自分で選んで寄っているのか、空気に押されて流れているのか、そこを見ることなのだろう。
荘子ちゃんは空を見上げながら、ふわっと言う。
「まあ、普通の蝶って何だろうね」
「また飛んだ」と孟子ちゃん。
菜根タンは少し笑った。
普通という言葉は、きっとこれからも便利だ。
でも便利な言葉ほど、中身をたしかめないと、人を簡単に窮屈にする。
それを知れただけでも、今日の普通でよくない?は、少しだけ意味のある引っかかりになった気がした。




