なんで比べてしまうの?
比べるのは、たぶん一瞬だ。
ほんの一瞬、目に入る。
誰かの点数。
誰かの明るさ。
誰かの人気。
誰かの進み方。
その瞬間までは、べつに自分のことを嫌いだったわけじゃない。
今日の自分でまあいいか、と思っていたこともある。
なのに、一つ何かを見た途端に、急に足元が少しだけ心もとなくなる。
あの子はすごいな。
それに比べて、自分は。
その「それに比べて」は、いつも気づいた時にはもう胸の中に入っている。
その日の放課後、菜根タンは廊下の掲示板の前で立ち止まっていた。
文化祭実行委員の中間発表が貼り出されている。
クラスごとの進行状況、係ごとの達成度、準備の見通し。
見れば見るほど、他のクラスには勢いがあるように見えた。
「もうここまで進んでるんだ」
「すごいね」
まわりの声が聞こえる。
菜根タンは、自分たちのクラスの紙も見た。
別に大きく遅れているわけではない。
問題が山積みというほどでもない。
でも、隣に貼られているもっと整って見える何かを見た瞬間に、自分たちの紙だけが少し頼りなく見えてくる。
ああ、まただと思った。
比べなくていいものまで比べてしまう。
見なくていい差を、自分から拾いに行ってしまう。
「……なんでだろ」
小さく呟いて、菜根タンは掲示板から目を離した。
教室へ戻っても、その感じは少し残っていた。
自分の机。
自分のノート。
いつもの景色。
それ自体は、さっきまで何も悪くなかったはずなのに、今は少しだけ薄く見える。
誰かと並べて見たあとの自分は、ときどきこうして妙に心細くなる。
何が足りないんだろう。
どうして、こっちじゃだめな気がするんだろう。
「また、比べたの?」
声がして顔を上げると、荘子ちゃんがいた。
いつものように、どこから現れたのかよく分からない。
でも最初からそこにいたみたいな顔で、窓際にもたれている。
「……またって」
「前もしてたじゃん。
あの子の方がちゃんとしてるかもって顔」
そう言われると否定しにくい。
菜根タンは少しだけ苦笑した。
「そんなに分かりやすい?」
「うん。
比べてる時の顔って、だいたい似るし」
荘子ちゃんはそう言って、菜根タンの机の前まで来る。
「なに見たの?」
「文化祭の進み具合」
「他のクラス、なんかうまくやってるように見えて」
「うちはそこまでひどいわけじゃないのに、急にだめな気がしてきて」
荘子ちゃんは少しだけ首をかしげた。
「ふうん」
それだけ言って、しばらく黙る。
何か考えているのか、考えていないのか、よく分からない顔だ。
「ねえ」と、しばらくしてから荘子ちゃんが言った。
「そのうまくやってるって、なに基準?」
菜根タンは目を瞬いた。
「え?」
「見た目?」
「勢い?」
「先生に褒められてたとか?」
「それとも、なんとなくそう見えた?」
聞かれてみると、急に言葉が詰まる。
たしかに、何をもってうまくやってると思ったのだろう。
完成度だろうか。
雰囲気だろうか。
余裕のありそうな顔つきだろうか。
どれも少しずつ当てはまりそうで、でもどれも決定打ではない。
「……なんとなく、かも」
「便利だよね、なんとなく」
荘子ちゃんは笑う。
「だいたいなんとなくで比べて、なんとなく負けた気分になるんだもん」
その言い方に、菜根タンは少しだけむっとした。
「別に、負けたとかじゃなくて」
「じゃあ、なに?」
荘子ちゃんはふわっとした顔のまま、妙に逃がしてくれない。
「自分の方が……だめな感じがした」
「だめって、なに」
「だから」
「足りない感じ」
「なにが」
そこまで聞かれて、菜根タンはとうとう言葉を失った。
足りない。
だめ。
負けてる感じ。
そういう曖昧なものだけが先にあって、何を比べてそう思ったのかは、きれいに言えない。
でも、言えないままでも苦しさだけはちゃんとある。
「……比べるって、雑なんだね」
気づくように、菜根タンはそう言った。
荘子ちゃんは少しだけ目を細めた。
「うん。けっこう雑」
「だって、違うものを並べて、一つの定規で測ろうとしてること多いし」
その時、教室の後ろから声がした。
「でも、比べるのって悪いことばっかりじゃないよ?」
孟子ちゃんだった。
いつものようにまっすぐ近づいてきて、話の途中からでもためらいなく入ってくる。
「たとえば、あの子すごいな、私もがんばろうって思うこともあるじゃん」
「比べるから、目標が見えることもあるし」
菜根タンはその言葉に少し救われる気持ちもした。
たしかに、比べることが全部悪いわけではない。
誰かを見て、自分ももう少しやってみようと思う時だってある。
でも、今日はそういう比べ方ではなかった。
「比べて元気が出る時は、それでいいんじゃない?」
荘子ちゃんはあっさり言う。
「でも、比べて勝手にしぼんでるなら、その比べ方はたぶん合ってないよね」
その一言が、妙にすとんと落ちた。
合ってない。
比べることそのものが悪いのではなく、
自分を縮めるためだけの比べ方が、たぶん苦いのだ。
「たとえばさ」と荘子ちゃんは窓の外を見ながら言う。
「魚に木登り遅いねって言っても、魚は困るだけじゃない?」
「でも、木の上の子たちはそれで勝った気になれるかもしれない」
菜根タンは思わず笑ってしまった。
「それは、たしかに変」
「でしょ」
「でも人って、けっこう普通にそれやるよ」
「向いてる場所も違うし、持ってるものも違うのに、同じ定規で並べて勝手に落ち込んだり勝ち誇ったりする」
孟子ちゃんが腕を組む。
「でも、じゃあまったく比べない方がいいのかな」
「そこまで言ってないよ」
荘子ちゃんはふわりと笑う。
「比べるなら、せめて何を比べてるのか見た方がいいって話」
「それに、その比べ方で自分が元気になるのか、しぼむのか」
「そこ見ないと、毎回同じ穴に落ちるよ」
その時、静かな足音がした。
老子ちゃんだった。
相変わらず急がない感じでやってきて、菜根タンの机の横に立つ。
「比べるのって、疲れるよね」
その言い方が、妙にやさしかった。
「比べて前に進める時もあるけど」
「ずっと比べてると、自分の歩幅が分からなくなることもあるし」
菜根タンは、その言葉にも救われる気がした。
そうだ。
比べているうちに、ほんとうは自分がどこまで来たかより、誰の隣にいるかばかり気にしていたのかもしれない。
「……わたし」
菜根タンはノートを開きながら言った。
「たぶん、他のクラスを見て、すごいなで終わればよかったのに」
「そこから勝手に、それに比べてうちはって繋げてたんだと思う」
「あるある」と荘子ちゃん。
「そのそれに比べてが、だいたい雑なの」
孟子ちゃんも少しだけ苦笑する。
「たしかに」
「尊敬するのと、自分を下げるのって違うもんね」
菜根タンは、白いページにペンを置いた。
比べること自体が悪いんじゃない。
そこまで書いて、少し考える。
そして、続けた。
でも、違うものを雑に並べて、
自分を小さくする比べ方は、たぶん苦い。
文字を見つめながら、胸の中のもやもやが少しだけほどける。
文化祭の準備が進んでいるクラスは、たしかにすごいのだろう。
それを認めることと、自分たちがだめだと決めることは、同じではない。
人には向き不向きがある。
クラスにも雰囲気がある。
進み方だって違う。
その違いまで全部潰して、ひとつのすごさだけで並べようとするから、苦しくなる。
「……比べるなら」
菜根タンはゆっくり言った。
「昨日の自分と今日の自分くらいで、まずはいいのかも」
老子ちゃんが小さくうなずく。
「それくらいが、息しやすいかもね」
荘子ちゃんは少し笑って言う。
「昨日の自分すら別人みたいな日もあるけど」
「それはもう、しょうこちゃんだけだよ!」と孟子ちゃん。
そのやりとりに、菜根タンは少しだけ笑った。
比べることは、きっとなくならない。
人の目に入る以上、完全にやめることなんてたぶんできない。
でも、比べ方を選ぶことはできるのかもしれない。
ノートの下へ、さらに一行書き足す。
尊敬と自己否定は、似ているようで全然違う。
その文字を見ていると、さっきまでより少しだけ、自分の机やノートがちゃんと自分のものに見えた。
荘子ちゃんは窓の外を見ながら、ふわっと言う。
「まあ、魚は魚で泳いでればいいんじゃない?」
「雑そうで、たまにすごく本質言うよね」と孟子ちゃん。
「たまにじゃないよ」と荘子ちゃん。
老子ちゃんは、その横で静かに笑っていた。
菜根タンはノートを閉じた。
比べてしまうのは、たぶん仕方ない。
でも、そのたびに自分を削る必要までは、きっとない。
違うものは違うまま見て、
それでも自分の歩幅で進む。
その方が、少し不格好でも、ちゃんと息ができるのだろう。




