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がんばらないと、だめ?

 がんばることは、たぶん正しい。

 菜根タンは、ずっとそう思ってきた。

 がんばる人はえらい。

 投げ出さない人はちゃんとしている。

 少し無理をしてでも前へ進むことは、きっと悪いことではない。

 少なくとも、そういう空気の中で育ってきたし、自分でもそれを疑ったことはあまりなかった。

 だから逆に、がんばれない時があると困る。

 今日はだめだな、と思う日。

 机に向かっても頭が進まない日。

 やることは分かっているのに、体も気持ちも少しだけ重い日。

 そういう時、菜根タンは自分の中に小さな後ろめたさが生まれるのを感じる。

 怠けているのだろうか。

 甘えているのだろうか。

 みんなちゃんとやっているのに、自分だけ止まっているのだろうか。

 その日の夜も、机の上にはやることが並んでいた。

 小テストの見直し。

 提出レポートの下書き。

 図書室から借りた本のメモ。

 べつに、どれも今すぐ世界が終わるような締切ではない。

 でも、やった方がいいことではある。

 やるべきこと、と言ってもいい。

 なのに、ノートを開いたまま、菜根タンの手はなかなか進まなかった。

 頭が働いていないわけではない。

 眠すぎるわけでもない。

 ただ、どこかでずっと張っていた糸が、今日は少しだけ緩んでしまっている感じがする。

「……だめだな」

 そう呟いた声は、自分で思ったより固かった。

 がんばれない自分を見つけると、菜根タンは少しだけ、自分を責める癖があった。

 そのまま、机に突っ伏す。

 窓の外は暗く、部屋の灯りだけが白く浮いていた。

 こんな日くらい休めばいい、と言えるほど、菜根タンは器用ではない。

 でも、がんばれないまま机に向かっていても、時間だけが少しずつ減っていく。

 何もしていないのに、疲れる。

 そういう夜があることを、菜根タンは最近ようやく知り始めていた。

 翌日の昼休み。

 菜根タンは校舎裏のベンチに座って、パンの袋をぼんやり見ていた。

 空は高くて、風は気持ちよかった。

 だからなおさら、自分の中の鈍い重さだけが変に目立つ。

「今日は、しんなりしてるね」

 声をかけられて顔を上げると、そこに老子ちゃんがいた。

 いつも通り、どこか力が抜けていて、急いでいる感じがまるでない。

 髪も風も、同じ速さでゆっくり流れているみたいな子だった。

「しんなりって……」

「うん。昨日まで、ぱりっとしてたのに」

 老子ちゃんは菜根タンの隣に腰を下ろした。

 座り方にすら、妙なせかせかしさがない。

「なにかあった?」

「……ちょっと、がんばれなくて」

 その言葉は、口に出すと少しだけ情けなく聞こえた。

 けれど老子ちゃんは、笑わなかった。

「がんばれない日?」

「うん」

 菜根タンは小さくうなずく。

「やることはあるんだけど」

「なんか、うまく手が伸びなくて」

「そういう時に限って、ちゃんとしなきゃって頭の中だけうるさくなる」

 老子ちゃんは少しだけ空を見た。

「あるよね」

 その一言が、思ったよりやさしく落ちてきた。

「……あるの?」

「あるよ」

「だって、張りつめたままの糸って、きれいだけど切れやすいもん」

 菜根タンはその言葉を頭の中で反芻した。

 張りつめたままの糸。

 たしかに、まっすぐで、ちゃんとしていて、見た目はきれいだ。

 でも、ずっとそのままでいられるものではない。

「でも」

 菜根タンは少しだけ眉を寄せた。

「切れるほどがんばってるわけじゃないよ」

「もっと大変な人だっているし」

「このくらいで今日は無理とか思うの、なんか甘い気がして」

 老子ちゃんは首をかしげる。

「そのもっと大変な人がいるって、便利だよね」

 菜根タンは少しだけ黙る。

「だって」

「比べたら、わたしなんてまだ全然……」

「つらいのを比べて、軽い方は感じなくていいことにはならないよ」

 老子ちゃんの声は静かだった。

 静かなのに、妙に逃げ道がない。

「疲れてるなら疲れてる」

「しんどいならしんどい」

「それをこの程度じゃないって押し戻してると、自分で自分の声が聞こえなくなるよ」

 菜根タンは、少しだけ目を伏せた。

 たしかにそうだった。

 昨日の夜、自分の中には「今日はちょっと無理かも」という小さな声があった。

 でもその上から、「このくらいで止まるな」「もっとやれる」「ちゃんとしろ」と別の声を何枚も重ねて、見えなくしていた。

 その時、ぱたぱたと足音が近づいてきた。

「菜根タン!」

 孟子ちゃんだった。

 いつものように勢いよくやってきて、菜根タンの顔を見るなり少しだけ表情を変える。

「どうしたの? なんか元気ない」

 菜根タンが事情を話すと、孟子ちゃんはすぐに言った。

「でも、がんばるのって大事だよ」

 やっぱりそう言うだろうな、と菜根タンは思った。

 それが孟子ちゃんらしいし、そのまっすぐさを嫌いにもなれない。

「ちゃんと前に進もうとするのって、すごく大事だと思う」

「投げ出さないで、少しでもやるってえらいことだよ」

「うん」

「それは、わたしもそう思う」

 菜根タンはすぐにうなずく。

 老子ちゃんも、孟子ちゃんの言葉そのものを否定はしなかった。

「がんばることが悪いんじゃないよ」

 老子ちゃんはそう言ってから、少しだけ間を置く。

「でも、がんばり続けてる感じを手放せなくなると、だいたい先に折れる」

 孟子ちゃんが少し首をかしげた。

「がんばり続けてる感じ?」

「うん」

 老子ちゃんはベンチの背に軽く体を預ける。

「ほんとは今日は少し休んだ方がいいのに、

止まるのは悪いことって思って無理に前へ進もうとする感じ」

「そういうのって、前に進んでるようで、じつは自分を追い詰めてるだけの時もあるんだよ」

 その言葉に、菜根タンは昨日の机の前の自分を思い出した。

 たしかに、前へ進もうとしていたというより、

 止まってはいけないと思って、無理に動こうとしていただけだった気もする。

「でもさ」と孟子ちゃんは言う。

「休んでばっかりになっちゃう人もいるでしょ」

「そこで無理しなくていいって言われると、ずるずる止まっちゃうこともあるし」

「あるね」

 老子ちゃんはあっさりうなずいた。

「だからがんばるなって言ってるわけじゃないよ」

「がんばりすぎるなって言ってるの」

 その違いが、菜根タンには少しだけ眩しかった。

 がんばる。

 がんばりすぎる。

 言葉にすれば一文字分くらいの差なのに、意味としてはずいぶん大きい。

「ちゃんとやることと、張りつめることは同じじゃないんだよ」

 老子ちゃんは続ける。

「水って、強く押したら形をなくすでしょ」

「でも、流れるのをやめるわけじゃない」

「力を入れ続けることだけが前に進むことじゃないんだよ」

 孟子ちゃんは、すぐには答えなかった。

 しばらくしてから、少しだけ考える顔で言う。

「……わたし、たぶん」

「がんばるって言葉、好きなんだよね」

「頑張ってる人見ると、応援したくなるし」

「それはいいことだよ」

 老子ちゃんはやわらかく言う。

「ただ、ときどき応援の言葉って、相手の呼吸まで早くしちゃうことがあるの」

「がんばれって、追い風にもなるけど、時々は背中を押しすぎることもあるから」

 その言い方に、孟子ちゃんは少しだけ反省した顔をした。

「……そっか」

 菜根タンは二人のやりとりを聞きながら、自分の中にあるちゃんとしなきゃという声の正体を考えていた。

 それは真面目さでもある。

 前へ進みたい気持ちでもある。

 でも時々、そのまま自分を追い立てる鞭にもなる。

 だったら、必要なのはそれを捨てることではなくて、

 少しだけ緩め方を知ることなのかもしれない。

「……わたし」

 菜根タンはゆっくり口を開く。

「がんばれない日があると、だめだなってすぐ思っちゃう」

「でもそれって、ほんとは休んだ方がいい日まで、ちゃんと見えてないのかも」

 老子ちゃんはうなずく。

「そうだと思う」

 孟子ちゃんも少し考えてから言う。

「やる気がないのと、疲れてるのは違うもんね」

 その一言が、菜根タンには妙にやさしく響いた。

 違う。

 昨日の自分は、怠けたかったわけではない。

 やる気が全部なくなっていたわけでもない。

 ただ、少しだけ疲れていて、少しだけ張りつめすぎていた。

 それをだめな自分としてしか見られなかったから、余計に苦しくなっていたのだ。

 ノートを開く。

 白いページに、しばらく考えてから書く。

 がんばることと、張りつめることは同じじゃない。

 その下に、もう一行。

 止まることが必要な日まで、怠けと呼ばなくていい。

 書いてから、その文字をしばらく見つめる。

 少しだけ、胸の中の責める声が静かになる。

「……今日は」

「帰ったら、見直し一つだけやる」

「それで終わりにしてみようかな」

 孟子ちゃんが目を丸くする。

「一つだけ?」

「うん」

 菜根タンは少し笑った。

「全部やらなきゃって思うと、たぶんまた固まるから」

「一個だけやって、ちゃんと寝る」

 老子ちゃんが、めずらしく少しだけうれしそうに笑った。

「いいと思うよ」

「ちゃんと流れてる」

「なんか、老子ちゃんの言い方って不思議だね」と孟子ちゃん。

「不思議かな」

「うん。

がんばらなくていいじゃなくて、力みすぎなくていいって感じ」

 老子ちゃんは少しだけ首をかしげた。

「その方が、ほんとだからじゃない?」

 その返しが、いかにも老子ちゃんらしかった。

 菜根タンはノートの下に、さらに一行書き足す。

 折れないために緩むことも、前に進むうちなのかもしれない。

 風が吹く。

 木の葉がひとつ、ページの上に落ちて、すぐ横へ転がった。

 孟子ちゃんが「でも、明日からはまたがんばろうね!」と言って、老子ちゃんが「うん、でも明日でいいよ」と返す。

 菜根タンは、そのやりとりを聞きながら小さく笑った。

 がんばることは、たぶん悪くない。

 でも、がんばり続けている顔を手放せないままだと、たぶんどこかで苦しくなる。

 張ったり、緩めたり。

 進んだり、少し止まったり。

 その全部を含めて、自分の歩き方なのかもしれなかった。

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