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なんでいい人ほど都合よく使われるの?

 いい人、という言葉は、少しだけ困る。

 褒められているようにも聞こえるし、

 でも時々、そこに別の意味が混ざっている気もするからだ。

 優しい。

 親切。

 頼みやすい。

 怒らなそう。

 断らなそう。

 そのへんが、全部ひとまとめになって「いい人」と呼ばれることがある。

 その日の昼休み、菜根タンは廊下の窓際で、友達の話を聞いていた。

「いやあ、ほんと助かったよ~」

「菜根タンって、まじでいい人だよね」

 そう言われながら、手元にはさっき頼まれて代わりに受け取ってきた提出物の束がある。

 相手は別の用事があって職員室に行けないから、ついでにお願い、と言った。

 たしかについでではあったし、断るほどのことでもなかった。

 でも、ついでの頼みごとは、なぜかいつも菜根タンの方へ流れてくる。

「また頼っちゃった」と笑いながら言われる時もある。

 そのたびに、悪い気はしない。

 むしろ、役に立てたのならよかったと思う。

 思う、のだけれど。

 その言葉が何度も重なると、胸のどこかに、薄い紙みたいな違和感がたまっていく。

 いい人だよね。

 それはほんとうに、褒め言葉だけなのだろうか。

 五時間目が終わって、教室へ戻る途中。

 菜根タンは、廊下の角で二人の会話をたまたま聞いてしまった。

「これ誰に頼む?」

「菜根タンでよくない?」

「あー、たしかに。あの子なら断らないし」

 その瞬間、足が止まった。

 会話の向こうに悪意があったわけではない。

 むしろ気楽な調子で、深い意味もなく口にしたのだろう。

 けれど、何もないはずの一言が、思った以上に胸へ落ちた。

 あの子なら断らないし。

 菜根タンはそのまま姿を見せずに、少し遠回りして教室へ戻った。

 べつに怒るほどのことではない。

 事実、断らないことは多い。

 自分でもそうしてきた。

 でも、それが他人の中で

「頼めばやる人」

として整理されているのだとしたら、少しだけ苦しい。

 放課後、菜根タンは中庭のベンチに座って、ノートも開かずに空を見ていた。

 春とも夏ともつかない風が、木の葉を少しだけ鳴らしている。

 空は明るいのに、自分の中だけ少し曇っている感じがした。

「今日の顔、だいぶ苦いわね」

 声の方を見ると、楊子ちゃんがいた。

 もはや、こういう時に最初に来る人として定着しつつある気がする。

「苦いって便利な言い方だね」

「便利よ。顔がだいたいそう言ってるもの」

 楊子ちゃんはベンチの端に腰を下ろした。

 菜根タンは少しだけ迷ってから、さっき聞いてしまった会話を話した。

 最後まで聞いた楊子ちゃんは、驚きも慰めもせずに言った。

「そりゃ、そうなるでしょ」

 菜根タンは思わずむっとした。

「そうなるってなに」

「頼めばやる人として扱われるの」

「だって実際、やってきたんでしょ」

 その言い方がいちいち腹に立つ。

 でも、ずれてはいない。

「でも、それって……」

「なんか、いい人っていうより、都合よく見られてるだけみたいで」

「その通りじゃない」

 楊子ちゃんはさらっと言う。

「いい人って言葉、便利なのよ」

「相手に罪悪感を持たずに頼りたい時、すごく使いやすいから」

 菜根タンは黙った。

 そこまで言うのか、と思う。

 でも同時に、言われた瞬間に、今まで引っかかっていたものの形がはっきりした気もした。

「いい人って褒め言葉みたいでしょ」

「でも、断らない人怒らない人雑に扱っても関係が切れなそうな人って意味で使われること、あるわよ」

 風が少しだけ強く吹いた。

 菜根タンは膝の上で、指先を軽く握った。

「……じゃあ、いい人でいるのって損なのかな」

「損かどうかは知らない」

「でも、いい人でいたいと嫌われたくないから断れないを混ぜると、だいたい食われるわ」

 その言葉は、痛いところへまっすぐ入ってきた。

 菜根タンは、しばらく何も言えなかった。

 いい人でいたい気持ちは、たしかにある。

 でもその中にはきっと、嫌われたくないとか、冷たいと思われたくないとか、そういう気持ちも混ざっていたのだと思う。

 そこへ、明るい足音が近づいてくる。

「またなんか、苦そうな話してる」

 孟子ちゃんだった。

 菜根タンが事情を話すと、孟子ちゃんはすぐに顔をしかめた。

「それ、いやだね」

「菜根タンなら断らないって、もう相手の優しさに甘えてるじゃん」

「でしょ」と楊子ちゃん。

「だから前から言ってるの」

「いい人って呼ばれてる時、半分くらいは便利な人って意味よ」

「でも!」

 孟子ちゃんがすぐ言い返す。

「ほんとにいい人っているじゃん!」

「優しくて、ちゃんとしてて、人のために動ける人」

「いるわよ」

「でも、そのほんとにいい人ほど、まわりが勝手に甘えるの」

 楊子ちゃんは一歩も引かない。

「だから問題なのはいい人であることじゃなくて、いい人だから雑にしてもいいって空気の方」

 それは、菜根タンにもよく分かった。

 自分が傷ついたのは、いい人と呼ばれたことそのものではない。

 その言葉が、どこかで

「この子なら押しても平気」

みたいな使われ方をしていると見えてしまったことだ。

「……じゃあ、どうしたらいいの」

 菜根タンがぽつりと聞くと、楊子ちゃんは即答した。

「断ること」

「またそれ」

「またそれよ」

 楊子ちゃんは平然としている。

「いい人でいたいならなおさら、断り方を覚えなさい」

「なんでも引き受ける人って、優しい人じゃなくて境界線のない人になりやすいの」

 その言葉に、菜根タンは少しだけ息をのんだ。

 境界線のない人。

 それは、今までの自分にかなり近い気がした。

「でも、断ると冷たく思われない?」

 菜根タンのその問いに、今度は孟子ちゃんが答えた。

「思われる時もあると思う」

「でも、それで離れる関係なら、最初からちょっと変じゃないかな」

 楊子ちゃんが珍しく、すぐには茶々を入れなかった。

 孟子ちゃんは続ける。

「優しいことって、なんでも引き受けることじゃないよ」

「その人が無理しないで続けられる形で、ちゃんと関わることの方が、たぶんずっと優しい」

 その言葉は、孟子ちゃんらしかった。

 まっすぐだけど、前より少しだけ深くなっている。

 そこへ、やわらかい声が重なる。

「いい人って、本当は都合よく使われる人のことじゃないはずだよ」

 論子ちゃんだった。

 今日もきちんとしていて、来るだけで空気が少し整う。

 菜根タンが話をすると、論子ちゃんは静かにうなずいた。

「相手を思いやれることは大事」

「でも、相手に思いやられなくても平気な人になることは、たぶん違うよ」

 その言葉が、菜根タンには静かに沁みた。

 自分はこれまで、思いやる側であろうとしてきた。

 でもそのうちに、思いやられないことにまで鈍くなっていたのかもしれない。

「いい人ってね」と論子ちゃんは続ける。

「たぶん、相手を大切にできる人のことだと思うの」

「でも、自分を大切にできないまま相手だけを大切にし続けると、どこかで歪む」

「それ」と、楊子ちゃんが短く言う。

「ようやく話がまともになったわ」

「感じ悪いなあ」と孟子ちゃん。

「中身」と楊子ちゃん。

 菜根タンは、そのやりとりを少しだけ笑って聞いた。

 いい人でいたい。

 その気持ちは、たぶん悪くない。

 でも、いい人でいたいから断れない、嫌われたくないから引き受ける、そうして自分の境界線がなくなっていくなら、それは少し違うのだろう。

 ノートを開く。

 白いページに、しばらく迷ってから書く。

 いい人は、なんでも引き受ける人じゃない。

 その下に、もう一行。

 相手を大切にすることと、

 自分を雑に差し出すことは違う。

 書きながら、胸の中にあったざらつきが少しだけ輪郭を持つ。

「……わたし」

 菜根タンはゆっくりと言った。

「たぶん、いい人って思われたかったんじゃなくて」

「ちゃんとしてるって思われたかったのかも」

「でも、そのために断れなくなるなら、ちょっと違うね」

 論子ちゃんがやわらかく笑う。

「うん。たぶん、それに気づけたのは大きいよ」

 孟子ちゃんも元気よくうなずく。

「次は断ろう! ちゃんと!」

「急に全部は無理でしょ」と菜根タンは苦笑する。

「一回に一個でいいのよ」と楊子ちゃん。

「今日は無理って言う練習から始めなさい」

 それはたしかに、その通りだった。

 急に強くなるのは難しい。

 でも、小さく線を引くことなら、たぶん少しずつ覚えられる。

 ノートの下へ、もう一行書き足す。

 都合よく使われないことも、

 やさしさを守るためには必要。

 風が吹く。

 中庭の木が揺れて、光がまだらに落ちる。

 孟子ちゃんが「でも頼られるのがうれしい気持ちも分かるんだよね」と言い、論子ちゃんが「うれしいことと、使われることは分けた方がいいね」と返し、楊子ちゃんが「そこ混ぜるから面倒になるのよ」と言う。

 菜根タンは、そのやりとりを聞きながら小さく笑った。

 いい人でいることは、たぶん悪くない。

 でも、いい人であることを理由に、自分の輪郭まで薄くしてしまったら、それは少しさみしい。

 相手を大事にするためにも、まず自分を便利にしすぎないこと。

 それはたぶん、思っていたより大事なことだった。

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