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なんで頑張ってる人ほど損するの?

 真面目な人ほど損をする。

 そういう言葉を、菜根タンは何度か聞いたことがあった。

 言われるたびに、少しだけいやな感じがした。

 真面目でいることや、ちゃんとすることを、最初から負けみたいに言われるのは、どこか寂しい。

 けれど同時に、その言葉を完全には否定できない場面も、たしかにある。

 やる人がいるから頼まれる。

 断らない人がいるから押しつけられる。

 ちゃんとしている人がいるから、ちゃんとしていない側がそのままで済んでしまう。

 そういうのを見ていると、「損してるな」と思う気持ちもわからなくはなかった。

 その日の放課後、教室の後ろでは文化祭準備の係決めが行われていた。

「この作業、誰がやる?」

 その一言のあとに流れる、微妙な沈黙。

 やった方がいいことは分かっている。

 でも手間がかかる。

 面倒だし、少し遅くなる。

 だから誰もすぐには手を挙げない。

 その空気の中で、菜根タンは小さく息を吸った。

「……わたし、やるよ」

 そう言うと、何人かが目に見えてほっとした顔をした。

「助かるー」

「やっぱ菜根タンちゃん頼りになる」

「じゃあ、私こっちやるね」

 空気が動き出す。

 係は決まり、話は前へ進んだ。

 それ自体は悪いことではない。

 むしろ、滞っていたものが動いたのだから、ちゃんとしたことなのだと思う。

 でもそのあと、プリントをまとめながら菜根タンは、胸の奥に少しだけ重いものが残るのを感じた。

 また手を挙げた。

 また、自分がやった。

 また、「助かる」と言われた。

 助かる、はうれしい。

 でも、そのうれしさの下に、どうしてだか疲れが沈んでいく日がある。

「……なんでだろ」

 小さく呟いた声は、教室のざわめきに消えた。

 帰り道、菜根タンはそのことを考えていた。

 自分がやりたいと思って引き受けたわけではない。

 でも、誰もやらないなら困るとも思った。

 だから引き受けた。

 たぶん、それ自体は間違っていない。

 でも、こういうことが重なるたびに、少しずつ

やる人が損する仕組み

みたいなものが、自分の足元にたまっていく気がした。

「今日は、ずいぶん苦そうね」

 声をかけられて顔を上げると、墨子ちゃんがいた。

 菜根タンが事情を話すと、墨子ちゃんは「なるほど」とだけ言って少し考えた。

「それ、菜根タンが悪いわけじゃない」

「うん」

「でも、誰かがやるだろうで空気が止まるたびに、同じ人が動いてるなら、もう個人の美談じゃなくて仕組みの欠陥ね」

 菜根タンは、その言い方が少しだけ胸に刺さるのを感じた。

「仕組み……」

「そう」

「頑張ってる人が損するんじゃないの」

「頑張る人に頼り切っても回ってしまう仕組みが、そうさせてるのよ」

 それは、菜根タンがぼんやり感じていたものに、名前をつける言葉だった。

 真面目な人が損をする。

 そういう個人の性格の問題ではなく、

 真面目な人が損をしても全体が困らない仕組みになっている。

 だから、そのまま繰り返される。

「でも」と、菜根タンは言った。

「誰かがやらないと進まない時ってあるよね」

「その時に仕組みが悪いからやりませんって言うのも、なんか違う気がする」

「それはそう」

 墨子ちゃんはうなずいた。

「目の前の穴は埋めた方がいい時もある」

「でも、毎回同じ人が埋めてるなら、次から穴が開きにくい形も考えないと、ただの消耗よ」

 その言葉が終わるのと同時に、横から気だるい声がした。

「ようやく、まともな話ね」

 楊子ちゃんだった。

 菜根タンは、少しだけ身構えた。

 この子が来ると、だいたい話は一段苦くなる。

「頑張ってる人ほど損するんじゃなくて」

 楊子ちゃんは腕を組んだまま言う。

「断らない人、文句を言わない人、潰れてもまだ立ってる人が、便利に使われてるだけよ」

 その言い方は、やっぱり少し腹が立つ。

 けれど、腹が立つぶん、逃げにくい。

「便利に使われてるって……」

「そうでしょ?」

「菜根タンならやってくれるって、あれ褒め言葉みたいに聞こえるけど、半分はこの子なら押せるって意味よ」

 菜根タンは思わず黙った。

 今日の教室の空気を思い返す。

 たしかに、みんなほっとしていた。

 菜根タンが引き受けたことで、空気が動き、話が前へ進んだ。

 そのこと自体は事実だ。

 でも、楊子ちゃんの言うとおり、そこには「この子ならやるだろう」という見込みもあったのかもしれない。

「感じ悪い言い方」と、菜根タンは小さく言った。

「本音ってだいたい感じ悪いのよ」

 楊子ちゃんは平然としている。

「助かるって言葉の裏に、自分じゃなくてよかったが混ざってることくらい、別に珍しくないわ」

 その言葉は、かなり痛かった。

 全部がそうだとは思いたくない。

 でも、全部がそうではないとも言い切れない。

「じゃあ、どうしたらいいの」

 菜根タンが聞くと、楊子ちゃんはあっさり言った。

「断るのよ」

「それができたら苦労しないよ」

「苦労しなさいよ」

 あまりに即答で、菜根タンは少しだけむっとした。

「だって、誰もやらなかったら困るし」

「いつもそうやって、自分が困る前に周りの困るを先に拾うから、固定されるの」

 楊子ちゃんは一歩も引かない。

「今回はやる。でも次は分担を考えたいでもいい」

「ここまではできるけど全部は無理でもいい」

「とにかく、自分が無限に引き受けられる前提を壊しなさい」

 その言い方は、冷たいというより、現実的だった。

 墨子ちゃんもそこで口を開く。

「そこは楊子ちゃんに賛成」

「頑張ってる人が損する時って、だいたい頑張る人が限界を言わないのと、周りがその善意に甘えるの両方がある」

「だから、どっちかだけ責めても変わらないの」

 菜根タンは、その言葉をしばらく受け止めていた。

 たしかに、自分は「しんどいです」と言う前に、先に引き受けてしまう。

 相手を責めるのも違う気がして、自分の中で飲み込んでしまう。

 でも、その飲み込み方が、次の同じ流れを作っているのだとしたら。

「……でも」

 菜根タンは少しだけ視線を落とした。

「ちゃんとしてる人が損するのって、やっぱりいやだよ」

「ずるい人とか、うまく逃げる人の方が楽そうだと、真面目にやるのが馬鹿みたいになる時もある」

 その言葉には、たぶん少しだけ、今日ずっと胸の中にあった本音が混じっていた。

 墨子ちゃんはそれを否定しなかった。

「いやで当然よ」

「だから、真面目な人にあなたがもっと我慢しなさいじゃなくて、その真面目さが食い潰されないようにしようって考える方が筋なの」

 楊子ちゃんも、珍しくすぐには皮肉を言わなかった。

「真面目なこと自体は悪くないわ」

「ただ、真面目さだけで自分を守れると思わないことね」

 その言葉は、少しだけ菜根タンを楽にした。

 真面目でいることが馬鹿なのではない。

 真面目であることを、そのまま防具だと勘違いすると危ないのだ。

 そこまで考えた時、菜根タンは、初めて今日の疲れの正体を少しだけ見た気がした。

 損をしたことそのものより、

 損をしても仕方ない顔をしようとしていた自分に、たぶんいちばん疲れていたのだ。

 ノートを開く。

 白いページに、少しだけ迷ってから書く。

 頑張る人が損をするんじゃない。

 頑張る人に甘えても回る時、損は固定される。

 その下に、もう一行。

 真面目でいることと、黙って削られることは、同じじゃない。

 書いてから、その文字を見つめる。

 菜根タンは、ゆっくり息を吐いた。

「……わたし」

「たぶん、ちゃんとしたいと我慢しなきゃを、少し混ぜてたかも」

「そういう子、多いのよ」と、墨子ちゃん。

「真面目だから余計にね」

「だから言ってるじゃない」と、楊子ちゃん。

「まず自分を便利な人材として差し出すの、やめなさいよ」

「言い方」

「中身」

 そのやりとりに、菜根タンは少しだけ笑った。

 頑張ることは、たぶん悪くない。

 真面目でいることも、きっと悪くない。

 でも、その真面目さが毎回同じ形で食べられていくなら、

 そこには少し手を入れた方がいい。

 ノートの下へ、さらに一行書き足す。

 助かるの裏に、自分じゃなくてよかったが混ざる時がある。

 それを見ないふりしない。

 風が吹いて、ページの端が揺れた。

 少し苦い。

 でも、その苦さに名前がついた分だけ、前よりは飲み込みやすい。

 遠くで、部活帰りの話し声がしている。

 墨子ちゃんは「次からは最初に分担の条件を出しなさい」と言い、楊子ちゃんは「二回に一回は断りなさい」と言い、菜根タンは「そんなに?」と少し笑う。

 真面目な人が損をするのは、いやだ。

 それは、たぶん正しい感覚だ。

 だからこそ、真面目な人にもっと耐えろと言うのではなく、

 真面目さが食い物にならないようにする方へ、少しずつ考えを動かした方がいいのだろう。



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