第十一話3
その日の放課後、校舎裏の非常階段で来葉が陽一を呼び止めた。
「昼休み、見てた」
「・・・ああ」
「美月、わざわざ来たんだね。一般クラスの教室まで」
陽一は手すりに背を預けた。階段の踊り場。コンクリートの壁。人の気配はない。
「何を話したの」
「何も。元気かとか、飯を食ってるかとか。そんなことだけ」
「そんなことを聞くために特別クラスから来たの?」
陽一は答えなかった。来葉の言う通りだ。美月はそんなことを聞きに来たわけではない。
「どうするつもり?」
「どうもしない。前に言った通りだ」
来葉は黙った。数秒。それから話題を変えた。
「もう一つ相談がある。鈴ちゃん─佐伯鈴。体操の子、わかる?」
わかる。自己紹介で声が壁に跳ね返っていた、小柄な女子。来葉と休み時間によく一緒にいる。
来葉の目が普段とは違う層を見せた。
「私、あの子のこと前から知ってるんだ」
「前から?」
「全中。去年の夏。体操の会場とうちの大会の会場が同じ総合体育館だった。」
来葉が窓の外を見ながら話した。
「試合の合間に自販機コーナーに行ったら、ジャージ着た子がしゃがみ込んで泣いてた。私より全然小さくて。声かけたら自分の演技に納得できなくて悔しいって。予選落ちかと思ったら三位だって。三位で泣くんだ、って思った」
来葉が少し笑った。
「スポーツドリンクを二本買って、一本渡した。そしたらその子、泣きながら『ありがとうございます』って。泣いてるのに律儀でさ。そこから三十分くらい喋った。名前も聞いた。佐伯鈴って」
来葉の声から明るさが引いて、別の層が顔を出していた。
「入試の時にたまたま再会して、鈴ちゃんの顔を見た時─ゲームの知識じゃなかった。元の私の記憶だった。上書きされる前の椛川来葉が、あの自販機コーナーで会った子だった」
窓の外を見たまま、来葉が続ける。
「この世界のこと、全部ゲームだと思ってた。キャラクターとイベントとデータ。でも鈴ちゃんは違う。ゲーム知識とは関係ない場所で、元の私が会った人間。あの子を見てると、ここがゲームじゃなくて現実なんだって思い出せる」
来葉はすぐにいつもの顔に戻った。
「─で。あの子がダンジョンに行きたがってる。私と一緒に連れてってほしいって」
「無理だ」
即答した。来葉の目が少し開く。
「この世界について知っている人間でないとパーティに入れない。ゲーム知識を共有できない相手がいたら、俺たちが何を見て何を判断してるか、説明できない」
「・・・わかってる。戦略的にはそう」
「なら─」
「でも私は鈴ちゃんを入れたい」
来葉の声が変わった。
「この世界は現実だよ。大切な人がいる。陽一にはいないの? この世界で大切に思う人。私にとっては彼女なの。この世界と自分をつないでくれる存在なの」
陽菜の顔が浮かんだ。孝三郎。茉莉。
陽一は窓の外を見た。
来葉の気持ちはわかる。陽一にとっての陽菜や孝三郎や茉莉と同じだ。ゲーム知識の外にある、この世界に自分を繋ぎ止めているもの。来葉にとってそれが鈴なら、否定できない。
それにメリットもある。今の二人パーティは前衛と後衛だけだ。索敵がない。第1区だから今は問題ないが、その先は索敵なしでは厄介だ。
斥候が必要だ。体操で全中三位の身体能力。空間認識に優れているはず。斥候としての素養はある。
「お前がある程度撃てるようになってからだ。三人目を入れるなら、まず二人の連携を固めたい」
「どのくらい?」
「二週間。三回目のダンジョンまで」
「わかった。鈴ちゃんにはそう伝える。あの子、明るいけど、人の秘密を言いふらすタイプじゃない」
来葉が付け加えた。陽一の懸念を読んでいる。
「二週間後にもう一度判断する」
「了解」
来葉が席に戻っていった。鈴のところに直行して何か話している。鈴が嬉しそうに笑っている。
陽一は溜息をついた。
四月の最終週。模擬戦の授業があった。
シミュレーション室は校舎の地下にあった。階段を一段下りるごとに気温が一度ずつ落ちていくような感覚があり、廊下の蛍光灯は地上の教室よりも青白い。両開きの分厚い扉を押すと、体育館を二つ繋げたほどの広さの空間が開けた。床は無機質な灰色の樹脂張り。壁の四隅に魔力炉が組み込まれていて、稼働中は低い唸りが空気の底に常に流れている。教科書の中だけだった「疑似魔物の生成」が、はっきりとした機械音と空気の振動として体に届く場所だった。
今日の課題は基礎的な身体強化と回避の訓練。教官は壁際の操作卓の前に立ち、魔力炉の出力を調整しながら課題を読み上げた。生成されるのは浅層相当の大穴鼠の幻影。実体はないが、輪郭の周囲に魔力の被膜があり、ぶつかれば押し返される。当たって痛い、だが死なない。新入生が最初に体験することを許される、安全な失敗の場所だった。
生徒が一人ずつ前に出て、疑似魔物と向き合う。
瀬戸の番では、出力が上がった瞬間、足元の樹脂の床が微かに振動した。突進してきた幻影を、瀬戸は正面から受け止めた。柔道の体捌き。腰が入っている。力はある。だが幻影の動きに対する反応が遅い。実戦経験がないから、体が「次」を予測できない。床に押し戻されながら、瀬戸が歯を食いしばっていた。
氷室は術式で対応しようとした。指先に魔力を集める速度は速い。だが発動の瞬間に視線が一度、教官の方に逸れた。確認の癖。その一瞬で疑似魔物の体当たりを食らい、尻餅をついた。プライドが傷ついた顔のまま、急いで立ち上がる。
来葉の番。先週からダンジョンで撃ってきた火球の、縮小版が指先から飛んだ。小さい。テニスボールほど。だが軌道が乱れていない。疑似魔物の正面に着弾し、幻影の輪郭が一度ぶれた。倒すには至らないが、確かに怯ませた。教官が眉を少しだけ上げる。入学して二週間の一般クラスにしては形が良い。そう読み取れる表情だった。
陽一の番が来た。
操作卓の音が一段強くなり、床に薄く魔力の波紋が広がる。視界の中央に大穴鼠の幻影が立ち上がり、こちらに向かって突進してきた。陽一は半歩横にずれて避けた。それだけ。反撃はしない。疑似魔物が反転して再度突進。また半歩。最小限の動き。三度目の突進に合わせて、短剣の腹で軽く胴を撫でた。短剣の重さを乗せず、刃の角度だけで触れる、弱い一撃。
幻影が崩れた。
教官は何も言わなかった。だが操作卓越しに、目が一度だけ細くなった。
回避が上手い一年生。それくらいの印象に留めたい。
待機場所に戻ると、整列した生徒たちの最後尾で黒田忍がこちらを見ていた。陽一が壁際の自分の位置に戻る間、黒田の視線は一度も外れなかった。目が合った。黒田は何も言わずに視線を逸らしたが、その沈黙には納得の気配はなかった。
その日の授業の中で、告知があった。
柏原が教壇で配布物を配りながら言った。
「GW明けの五月第二週に、ダンジョン実習があります。全クラス合同。教官が引率して、学校裏のダンジョンの浅層に入ります。入学式の校長訓示でもあった通り、学校が引率するダンジョン実習はこの一回だけです。以降は各自で」
教室がざわついた。
「マジか、ついにダンジョンだ」
「どこまで行くの?」
「浅層って言ってたろ。深くは行かない」
瀬戸が後ろから陽一の肩を叩いた。
「照川、お前は余裕だな。もう潜ってるし」
「学校のダンジョンには入ってないから、わからない。それに、教官引率の実習で実戦はないだろ」
「そうなのか」
瀬戸が肩を落とした。同じように落胆しているクラスメイトが何人かいる。一年の大半は今日まで一度もダンジョンに足を踏み入れたことがない。実習は彼らにとっての初陣だ。




