第十一話2
二週目。
学校の日常が回り始めていた。
座学は四科目。術式理論、魔物学、ダンジョン構造学、華族史。
術式理論の教科書は分厚い青表紙のハードカバーで、執筆者の筆頭は皇家の研究者だ。華族の子弟が幼少期から家庭教師に習ってきた内容を、一般クラスの生徒は十五歳で初めて目にする。スタートラインの差は教科書を開いた時点で既に開いていた。
水曜日の術式理論で、最初の小テストがあった。基礎回路の構成と魔力流の方向を問う問題。十五分。陽一は五分で書き終えて、残りの時間は窓の外を見ていた。桜の季節は終わり、校庭のソメイヨシノには葉が茂り始めている。四月の終わりの光が新緑を透かしている。
翌日、採点された答案が返却された。柏原が教壇から一人ずつ名前を呼び、取りに行かせる。
陽一が受け取った答案には九十六点と書いてあった。席に戻って、裏返しにして机に置いた。四点落としたのは、ゲームの知識と教科書の記述に微妙なズレがある箇所を教科書に合わせなかったからだ。次から気をつける。
氷室慶は自分の答案を受け取ると、席に戻りながら表を確認していた。一瞬、眉が寄った。すぐに戻したが、満足した顔ではなかった。
地方の進学校から来た秀才。入学前から基礎回路の教科書を三周していると、自己紹介の時に言っていた。あの顔は、自分の点数に納得していない人間の顔だ。
昼休み。弁当を広げると、瀬戸大地が椅子ごと隣に滑り込んできた。
「照川、深層って本当に暗いのか?」
「逆。深い方が明るい。魔力濃度が高いから」
「マジかよ。じゃあ途中の階層が一番暗い?」
「魔物の密度が下がる階層帯があるんだ。そこは鉱石の光だけだから、前後の階層より暗く感じる」
瀬戸が感心して頷いている。悪い奴ではない。面倒見が良くて、何にでも食いつくタイプ。だがダンジョン経験はゼロだ。GW明けの実習が初ダンジョンになる口だろう。
黒田忍は相変わらず寡黙だった。自分から話しかけてこない。だが陽一が瀬戸と話しているのを、少し離れた席で聞いている。
来葉は来葉で、教室の女子グループにすっかり馴染んでいた。佐伯鈴、水原彩を中心とした輪に入り、休み時間には笑い声を上げている。戦術魔法部にも入部し、週二回の活動に顔を出していた。
四人の輪の中でも、鈴と来葉の距離は他の二人より少し近い。鈴が来葉の腕に触れる回数が多く、来葉も鈴の話には体を傾けて聞いている。明るい子に見えて、鈴の方から来葉に懐いているのが教室の隅から見て取れた。距離の取り方に人見知りの跡があるのかもしれなかった。
その鈴の動きが、陽一の目にはもう一つ別の角度でも入ってきた。立つ、座る、振り返る。どの動作にも腰の余分な揺れがない。床を蹴る足の裏の使い方が、瀬戸や笹本のそれとは別物で、踵から土踏まずへ体重を流して衝撃を散らす癖が、椅子から立ち上がるだけの動作にまで残っていた。教室の中ではただ小柄な明るい女子だが、ダンジョンに連れてきたら斥候として化ける素地がある。
放課後、来葉が陽一のところに来た。
「鳴瀬環、確認した。3年の特別クラスにいる」
「どうだった」
「戦術魔法部の合同訓練で見た。模擬戦。すべてが異次元。剣も術式も体術も全部できる。しかも手を抜いてる」
「ゲーム通りか」
「ゲーム通り。在校生最強は間違いない」
来葉が小声で付け加えた。
「食堂で美月の近くに座ってみた。特別クラスの女子と一緒にいることが多い。澄沙耶と末広紗良。あと遠峰志帆」
遠峰志帆。大河の幼馴染。大河が福岡校に行ったことを知っているはずだ。だが大河の居場所はネットでほぼ見当がついている。今、志帆に接触する理由はない。
「遠峰は美月と仲がいいのか」
「わからない。同じテーブルにいるだけかも。特別クラスは人数が少ないから、固まりやすいんだと思う」
ゲームシナリオでは美月は一年生の間は橘の訓練と部活で忙しいから、特定のパーティーには入らない。大河がここにいなくても、それは変わらないだろう。
そんなことを考えていると、来葉がもう一つ息をついて言った。
「パーティ組んでること、クラスに話しておくね」
なぜか少しもじもじしていた。二人の隠された関係を打ち明けるかのような重大な雰囲気を出しているが、そんな大した話ではないだろう。
「なぜわざわざ」
「なぜって、わかってないなぁ。隠してたら二人で行動するたびに変な噂が立つでしょ」
陽一は一瞬考えて、頷いた。確かに、男女で放課後に消える方がよっぽど目立つ。
翌日から、クラスの中で「照川と椛川はパーティを組んでダンジョンに通っている」が共有された。来葉が鈴や水原との会話の中で自然に出したのだろう。
反応は二種類だった。「今からパーティーを組むのは早急すぎる」という評価と、「もう外のダンジョンに行ってるのか」という驚き。大半の一般クラスの生徒は、GW明けの初回実習を待っている段階だ。
その情報を一番熱心に聞いていたのは鈴だった。来葉の机を囲む四人組の中で、ダンジョンの話題が出た瞬間に体が前に傾く。装備、魔物、浅層の通路。来葉が陽一から教わった範囲で答えると、鈴は「いいなあ」と短く繰り返した。「実習いつだっけ」「GW明け」「あと三週間か」。同じやり取りが日を変えて何度も交わされていた。三週間が長い、という顔をしているのは、教室で鈴一人だけだった。
その日の休み時間。来葉が陽一の机に英和辞書を借りに来た時、鈴が一緒についてきた。
「照川くん、ちょっと聞いていい?」
鈴の声が近かった。陽一は辞書を渡しかけた手を止めた。
「外のダンジョンで一番怖いのって何?」
ある意味で鋭い質問だった。ダンジョンというのは恐怖とは切っても切れない。環境から来る恐怖や内面からの恐怖。魔物と直接対峙する以外にも様々なものと戦う必要がある。
「怖いのは・・・自分を信じきれなくなったら一番怖いだろうな」
「どういうこと?」
鈴はピンと来ていない顔だ。まあ、この言葉では理解できないだろう。
「鍛錬を繰り返しても、魔物は予想通りには動かない。まして、自分ひとりならともかく、仲間がいればそいつらのことも考えて行動しなくてはならない。しかも命がかかっている」
鈴は真剣にうんうんと頷いている。
「他人を信じるっていうのは意外に難しいことだ。パーティーを組んでも、命の際でどんな行動をするかなんて自分でもわからない。だから、大事なのは自分が自分の実力を信じること。そして、パーティーメンバーを信じた自分を信じること。だから、それができなくなったら終わり。それが一番の恐怖だ」
伝わっただろうか。鈴を見ると口を少し開けながらこちらを見ていた。
「・・・照川ってすごいね。そんな風な答えが返ってくるとは思わなかった。ダンジョンに入らないと成長できないことがたくさんありそうだね」
鈴は満足したのか、不満だったのか、判別できない顔で「ありがと」と言って、来葉と席に戻っていった。鈴の方が来葉より半歩前を歩いていた。
その日からだった。鈴は短い質問を一つだけ持って、休み時間の終わりに陽一の机の横に立つようになった。装備の重さ。浅層の明るさ。発光鉱石の色。一問一答。長居しない。来葉から事前に振られているわけではなかった。鈴は自分のタイミングで、ある時は来葉と一緒に、ある時は一人で来た。陽一は短く答えた。来葉を経由しない、鈴本人の関心。来葉のクラスメイトで、来葉が一番懐かれている相手だ。無下にはできなかった。
一般クラスのやつらがパーティーを組んだ。その噂が特別クラスにも届いたのだろう。
数日後の昼休み。教室で瀬戸と弁当を食べていた時、廊下がざわついた。
金糸の制服が一般クラスの廊下にいる。それだけで目立つ。特別クラスの人間が一般クラスの教室棟に来ることは珍しい。
美月だった。
箸が止まった。指先が冷たくなるのがわかった。弁当の卵焼きを掴んだまま、体だけが凍っている。
入学式の朝以来だ。あの日は通学路で向き合っただけ。挨拶をして、すれ違って、それきり。校舎も食堂も別棟で、動線が交わらない造りになっていた。意図して避けていたわけではない。同じ学校にいるはずの幼馴染と、一度も顔を合わせる機会がなかっただけだ。
それが今、教室の入口に立っている。
金糸の制服。窓からの午後の光が刺繍の金糸を拾って、襟元が薄く光っている。背筋が伸びている。髪が中学の時より少し伸びた。肩にかかるくらい。周囲の視線を気にしていないように見える。だが少しだけ肩が硬い。右手の指先が制服のスカートの端を握っている。ここが自分の場所ではないと体でわかっているような、そんな硬さだった。それでもここに来た。
教室の中が静まった。空気の質が変わるのがわかる。三十人分の視線が廊下側に向いている。瀬戸が弁当の箸を止めた。笹本が「特別クラスの人じゃね?」と声を漏らした。教室の隅で黒田が顔を上げた。
美月の目が教室を一巡りして、陽一で止まった。
「陽一、ちょっといい?」
名前で呼ばれた。教室の空気がもう一段、沈んだ。
陽一は美月を見た。
胸の奥が詰まった。
中学の頃と変わらない顔だ。だが纏っている空気が違う。金糸の制服。橘の色。入学式の朝はこれからのことを考えるのに精いっぱいで、向き合うだけで限界だった。今は少し長く見ていられる。
道場で竹刀を振って、帰り道にくだらない話をして、陽菜が描いた三人の絵を見て笑った—あの美月が、金糸の制服を着て、自分の教室の入口に立っている。
ゲームの中で美月の隣にいるはずだった人間は、この東京校にはいない。じゃあ自分はどうする。近づくのか。距離を置くのか。幼馴染として普通に接するのか。それすらわからない。
二年間の泥の中で、戦い方は覚えた。痛みとの付き合い方も。だがこういう時にどうすればいいかは、誰も教えてくれなかった。
瀬戸が口を半開きにしている。陽一は弁当を閉じて立ち上がった。
「ああ」
廊下に出た。窓際。渡り廊下に繋がる踊り場。人通りは少ない。
美月が陽一の顔を見た。まっすぐな目。だが一瞬、その表情が止まったように見えた。
ほんの僅かな間。笑顔が消えたわけではない。何かを探すように陽一の顔を見ているような、そんな気配が一瞬だけ走った。眉がわずかに寄った気もする。口元の笑みはそのままだ。
次の瞬間、美月は口を開いた。
「元気にしてる?」
「普通だ」
「ご飯ちゃんと食べてる? お弁当?」
「母さんが作ってくれる」
「おばさん元気?」
「元気だ」
短い応答。陽一は壁を作っている。意識してそうしているわけではない。美月と話す時、自動的に言葉が短くなる。体が距離を保とうとしているかのようだ。
美月の目線が一度、ぶれた。だが踏み込んできた。
「ダンジョンに行ってるって聞いた。椛川さんとパーティ組んで」
「ああ」
美月の口元が一瞬だけ強張った。すぐに戻ったが、笑顔の下で何かが動いた残像があった。
「・・・そっか。もう潜ってるんだ」
「見習い登録してるから」
「うん」
短い返事。美月は窓の外を見た。
陽一には、納得していない顔に見えた。理由まではわからない。だが、あの横顔は知っている。道場で負けた後、悔しさを飲み込む時の美月の顔に似ていた。
沈黙。廊下の窓から四月の光が差している。金糸の制服が光を弾いている。スカートの端を握っている指が、一度だけ強く折り曲げられた。
「私—」
言いかけて、止まった。
「入学式の朝、」
言い直そうとして、また止まる。陽一は何も返さなかった。返せる言葉がなかった。
「なんだ」
「ううん。何でもない」
美月が笑った。周囲に見せる用の完璧な笑顔ではない。もっと弱い、作りかけのような笑顔。
「また話そう。昼休みなら食堂にいるから」
「ああ」
美月が踵を返して廊下を歩いていった。金糸の制服が角を曲がって見えなくなった。
陽一は渡り廊下の窓に背を預けた。
窓の外を見た。四月の空。雲が流れていく。
何も答えが出ないまま、昼休みが過ぎていく。
教室に戻った。弁当の続きを食べ始めると、瀬戸が身を乗り出してきた。
「おい照川。お前、特別クラスの子と知り合いかよ」
「まぁ、幼馴染ってやつだ」
「幼馴染!?」
「同じ道場に通ってた。小学校から」
瀬戸が呆然としている。笹本も。教室の何人かがこちらを見ている。
来葉が自分の席から陽一を見ていた。佐伯や水原と喋っていた手が止まっている。
目が合った。来葉は何も言わなかった。だが目が問いかけていた。大丈夫? ではない。どうするの? だ。
来葉はゲームを知っている。美月が大河のパーティメンバーであること、大河がいないこと、美月が橘の軌道にいること。全部わかった上で、陽一がどう動くかを見ている—そう読み取れた。
陽一は来葉から目を逸らした。答えが出ていない顔を見せたくなかった。




